序章③ 戦いの記憶
暗がりで歩を進めるごとに、空気は淀みを増す。
洞窟に反響する足音は数えきれないほどあるのに、言葉を発する者は誰もいない。
「これが、魔王討伐戦……」
隊の殿でカイはぽつりと呟く。声は誰にも届かず、靴音にかき消された。
隊列には、全身に古傷を持つ歴戦の戦士や、磨き上げられた鎧を身に着けた騎士、ローブを纏ってフードを深くかぶった魔法使いなどが並ぶ。皆、緊張と戦慄で顔が強張っていた。
「よ、カイ。なんだよ、もう死ぬのが確定したみたいなしけた顔しやがって。そんなんじゃ本当に死んじまうぞ」
「……ラウル団長」
カイの項垂れた肩をぽん、と叩いたのは、なだらかなウェーブを描く金髪を持ち、特徴的な赤いマントを羽織った青年だった。銀に輝く鎧をがしゃがしゃと鳴らしながら、ラウルは不敵な笑みを向けてくる。首には家紋が入った金属製のブローチが光り、馬上で背筋を伸ばした姿は騎士としての誇りを体現していた。彼が駆る馬もまた、絶対の自信があるかのように堂々とした歩調だ。
「いいんですか、騎士団長がこんな後列まで下がってきて。騎馬隊は第二陣の列にまとまるように、と指示があったと思いますが……」
「問題ない問題ない。どうせ魔王のところまではあと一時間くらいは歩かなきゃならんのよ。それにあと一回くらいは休憩も挟むはずだしな。今からガチガチだと持たねぇからさ、たまにこうして、初陣な顔見知りの緊張をほぐしに来てるわけだ」
ラウルはこの世界の騎士団長、カイは異世界生まれの魔法使い。
接点は限りなく薄いはずなのに、人との関わりがあまり得意ではないカイのことを、彼はどういうわけか気にかけてくれていた。
「ラウルさんは、魔王戦、三度目なんでしたっけ」
「おうよ。俺も初めて挑むときはビビり散らかしてたさ。あれはまだ騎士団に入りたての、十五の頃だったかな……握っていた剣をどうにか魔王に掠らせて、同時にコイツの腹を蹴り飛ばして退散した。あの頃はそれが精一杯だったが、他の連中からすりゃ、邪魔者以外の何でもなかったろうな」
茶色く流れる馬のたてがみを撫でつけながら、ラウルは遠い目をする。
「二度目は、それよりはやれた方だったな。味方と敵の様子に気を配りながら、冷静に自分の役割を果たせていたと思う。ま、あんま気負うなってことだよ。二十年前はヘタレ騎士でも、今じゃ立派に騎士団長だぜ?」
手形がついているんじゃないか、と思うほどの強さでバシバシと背中を叩かれると、緊張で冷え固まり始めていた身体が刺激で強制的に起こされているような感じがした。
「それでも、あの先輩方の活躍には、とてもじゃないが敵わなかったがね」
ラウルが顎の先で示したのは、魔法使いが集まる後列のひとつ前を歩く遊撃隊だ。武器は各々が得意なものを装備しているが、行動速度を意識して細身の剣を携えた者が多い。その中でもひときわオーラを放っている男性のことをラウルは言っているのだと、カイにもすぐにわかった。
「柔剣士ベルチェロ。過去七度の討伐隊に参加してきた熟練の爺さんだよ。まるで絹みたいな剣捌きと身軽な動きを武器としている。何より見切りが人間離れしてるのよ。回避に圧倒的な自信があるからあんな軽装で戦場に立つことができるし、身軽さはそのまま剣の速さになる。後衛の魔法使いなら、あの人の戦いは見ものだぜ。見切りが紙一重過ぎて、心臓がいくつあっても足りない」
見れば、彼の並々ならぬオーラに吸い寄せられるようにして、二人の男女が彼の機嫌を取るようにべったりとくっついて歩いていた。帯剣こそしているが、その状態で行進することには慣れていないらしく、動きはぎこちない。
名は確か──ユーヘーと、レイナ。
「周りにはお調子者がくっついているみたいですね」
「あれは、ただ強い奴のそばでヘラヘラしていたいだけの小物だろ──てか、あいつらは君と同じ異世界召喚組だろ? お前とはだいぶ心構えが違うようだな」
「そうですね。まあ、戦闘を前にして、別のことを考えていられるのは、羨ましい限りですけど」
「そういうカイは、今から自分がどんな風に死ぬかばかり考えているんだろ?」
「そ、それは……」
「隠さなくてもいいさ。お前らがいた世界ってのは、こんな血腥い戦いとは縁がない世界だったんだろ。だったらその反応は至って普通、お前は間違ってない──だからさ」
ラウルが空色の瞳を泳がせる。いつも真っすぐ、騎士道を鏡に映したような彼にしては珍しい仕草だ。
迷った挙句、彼は馬上から身をかがめ、カイの耳元で囁いた。
「……カイ、お前は、魔王にトドメを刺すな」
「……え?」
彼の言っている意味が分からない。
この大行列は、魔王を倒すために編成された大隊ではないのか。
他ならぬ騎士団長である彼が、それを理解していないはずもない。
「あ、あの、それってどういう……」
「バカ、デカい声を出すな。──悪いが、俺に言えるのはここまでだ。少なくとも、俺はあんなおちゃらけた奴らよりは、お前の方が気に入っているってだけだよ」
「ありがとう……ございます……?」
曖昧な返事を受け取り、ラウルはいつもの殊勝な表情に戻った。
彼の言葉が意味するところは分からないが、彼の意味深な言葉は心の片隅に留めておくことにする。
「戦闘が始まったら、魔法使い職がどういう流れで行動すればいいか、頭に叩き込んだか?」
「はい。使える支援魔法と阻害魔法を目いっぱいばら撒いてから、マナポーションで枯れた魔力を回復。戦況を見て回復と攻撃のバランスを考慮しつつ、支援を切らさないよう、周りの魔法使いと魔力回復のタイミングがかぶらせないために目配せも忘れない……って、ほぼ臨機応変にって言われてるだけなんですけど」
「そりゃあ、脳死で前線に立って斬りかかるだけの俺たちとは、後衛のお前らは見えてる範囲が違うからな。その分柔軟に対応してもらわなきゃ困るさ。安心してくれ、お前たちにまで攻撃の手が届くことはない。あるとすれば、俺たち前線部隊が全員死んだ後だ」
「不吉なこと言わないでくださいよ」
カイは冗談を聞いた時のように苦笑するが、ラウルの顔は真剣だ。
「俺は少しだが、本当に危惧している。既に聞いているだろ、今回の魔王討伐戦は──」
「はい、初めに教えられました。今回の魔王復活の周期は、今までよりも長かった」
基本的に、魔王の復活は十年を基準として、長短を判断される。
例えば、前回は九年半、前々回は十一年と、概ね一定の期間に収束するらしい。
それが、今回は今までに類を見ないほどの長さ──十六年にも及んでいた。
復活までの時間は、魔王が魔力を生成し、貯蔵するための時間ということになる。
この先で待つ魔王は、これまでに討伐戦の経験がある者たちですら、味わったことのない強さを持っているかもしれない。
この戦いが初陣となるカイからすればピンとこないが──同時に、「新人が挑んではいけない相手だ」と言われているような気もする。
「そういうことだ。だから経験者も大なり小なりピリピリしてる。マジのお気楽ムードなのはあの二人くらいのもんだ」
ラウルの視線が遠くなる。つられて前を向くと、前方から出口の光が見えていた。
「さて、俺はそろそろ戻る。毎回、この洞窟を抜けたところで点呼があるんだよ。報告を受ける立場の団長が失踪したとなれば、戦闘の士気に関わるからな」
そう言い残し、ラウルはしっかりと手綱を握る。それだけで意思が伝わったのか、ラウルは馬に運ばれ、きっちりとした隊列の隙間を縫うように抜けていった。
カイはその姿を、無言で見送った。
つい昨日ここを通った時は、そんな出来事もあった。カイの脳裏にまだ新しい記憶が蘇ってくる。
自然にできたにしては、洞窟の赤茶けた岩壁は頑丈だった。一人分の靴音がカツカツと反響する。土と水が混ざった独特の匂いがする。
昼間とはいえ、洞窟内に日の光が届くことはない。
昨日は天井に等間隔で配置された魔石灯によって明かりを確保していたようだが、魔石とて消耗品。孤独な人間が行き来するためだけに起動する気にはなれず、カイの手には即席で作った松明が握られていた。
「今思えば……ラウル団長は、僕が魔王の呪いを受けないよう、忠告してくれたんだ」
魔王にはトドメを刺すな──その言葉の意図が、今更になって分かった。
この世界の人間を守るべき立場である討伐隊、それも誇り高き騎士団の長の立場に許された、最大限の警告だったのだろう。
くだけた雰囲気ではあったし、面倒見のいい人だとは感じていたが、個人に特別肩入れをするようなタイプにも見えなかった。隊列を抜け出してしまうような茶目っ気を持ち合わせつつも、その行動には必ず筋の通った意図があった。
もちろん、魔王と対峙した時にも、彼は最前線から一切身を引かずに立ち向かった。兜が吹き飛ばされようと、腿を貫通する爪撃を受けようと、回復魔法の効も待たずに突撃しては、痛烈な剣撃を何度も繰り出していた。
そんな真摯な態度だったからこそ、彼はプライドの高い騎士団に於いても強い求心力を持っていたのだろうと思う。
彼が言及していた、ベルチェロなる人物の活躍も計り知れない。
正直なところ、カイは戦闘が始まった直後に彼の老齢な姿を見失った。
次に現れた時には、ベルチェロは巨大な悪魔の姿をした魔王の肩口に現れ、手にした長剣を閃かせて鋭く切り込んでいた。支援魔法の完成を待たずして絶大な威力の先制攻撃を決めた彼は、その後も目にもとまらぬ速度で縦横無尽に駆け回り、攻撃の要として、最終局面に至るまで一陣の風のように振る舞っていた。ゲームのレイド戦のようにダメージ割合が可視化されたとしたら、間違いなく彼の名が一番上に挙がっていたはずだ。
彼の周りで舎弟のように媚びへつらっていたユーヘーとレイナの二人でさえ、戦闘となれば一定の力を発揮したように思う。
ベルチェロの動きには及ばないものの、カイと同じ世界出身とは思えない戦闘センスを発揮していた。
どこで覚えたのか、型にはまらない大振りな剣技は確かに魔王の身体を何度も抉った。噴き出した血飛沫を浴びながら、彼らは狂気を宿して笑っていた。前線部隊の交代命令にも従わず、彼らは結局魔王の攻撃に貫かれる瞬間までずっと前線を支えていた。治療を受けるために下がってきたこちらの世界の歩兵たちも、奴らは異常者だと苦笑いで語っていたほどだ。
誰もが勝利を確信していた。このまま誰も死なずに終わるのだと楽観視していた。
しかし、洞窟を抜けた先には──昨日見たのと変わらない、彼らの死体の山がある。
元々魔王がいたのはこの先にある洞窟の奥底。気づけば、戦線はここまで後退していた。
戦線崩壊のきっかけがどこにあったのか、今思い返してもわからない。
一撃で絶命させられる程度の実力の者などこの戦場にはいないはずだった。回復魔法による治療は余裕を持って機能していた。前線の兵は盾を構えて攻撃を防ぎきり、生まれた隙に絶え間なく攻撃が叩きこまれていた。魔王は夥しい量の血を流し、何度も肉を深く削がれていた。
圧倒的な優勢なのは疑いようがなかった。次の瞬間にも魔王は膝をつくのではないか、と期待していた。
カイは確かに見た。戦況がオセロのコマのように容易くひっくり返される直前、魔王の目がまるで狡猾な捕食者のように、鋭く光ったのを。
突如魔王の身体は膨れ上がった。ちょうど、弛緩していた筋肉に力を込めるように。まるで、ここまでの戦闘はお遊びで、真の力は少しも見せていなかったかのように。
それまで魔王の爪を跳ね返していた屈強な男三人の身体が、たった一度の突きで分厚い盾ごと貫かれた。筋肉質な身体は、赤黒い爪に貫かれたまま持ち上げられ、そのまま魔王の口の中に放り込まれていった。一撃で命を奪われた彼らの顔にはまだ、余裕の笑みが張り付いたままだった。
異様な空気が広がり始めたのはその時だったと思う。
最前線を気付く盾兵たちから、攻撃を試みる遊撃隊から、表情が消えた。
伝染するように、中衛を担う騎士団や、後衛の魔法使いたちにも恐怖が伝染していった。
誰かが悲鳴を上げた。
それがきっかけだったとは言わない。集団に蔓延してしまった恐れは恐慌状態を呼び込んでおり、いつ爆発してもおかしくなかったのだ。
そこから先、魔王にまともな一撃が加えられることはなかった。
腰の引けた斬撃を繰り出したユーヘーが、蠅でも払うかのような腕の振りに吹き飛ばされ、洞窟の外壁に叩きつけられて全身の骨を砕かれた。前衛に空いた穴を支えに来た騎士団には炎のブレス攻撃が浴びせられ、堅牢な鎧ごと溶解させられた。すんでのところで回避した騎士団長にはさらなる追撃が襲い掛かる。初撃の蹴りが彼の体勢を大きく崩し、次ぐ横薙ぎが騎兵の亡骸ごと彼の上半身と下半身を泣き別れにした。ようやく相棒がやられたことに気づき、正常な感情を取り戻したらしいレイナが無抵抗に踏み潰されて赤い染みとなった。
前線が形を失い、ヘイトが後衛の魔法使いに向けられる。信じられないほどの出力を持った火炎魔法に対し、辛うじて戦う意志を残していた者たちが水魔法の合わせ技で迎え撃ったが、まさに焼け石に水という表現が相応しい。水の流れをすっぽりと飲み込み、燃え盛る炎が戦場を焼き尽くした。
カイが生き残れた理由は、その時使用したのが攻撃魔法ではなく防御魔法だったという一点に尽きる。本能的に身を守ろうとした結果、自分以外の大半の人間が灰となって燃え尽きていた。
まだ、魔王に一矢報いようとする風は吹いていた。骨張った身体を限界まで加速させ、数えきれないほどの斬撃を浴びせていく。さすがの魔王もブレスと大魔法の連発で息を切らしたのか、飛び回る影を叩き落とすのに難儀していた。
それだけではない、魔力を使い果たしたのか、再生速度がかなり緩慢になっている。切り裂かれた浅い傷から流れ出る血液が止まらない。
カイはすぐに攻撃魔法を準備した。既に隊列という概念はない。前線を入れ替えて長期戦に持ち込むという目論見は瓦解した。隊の身を守るはずだった盾は誰にも構えられず、地面に放り捨てられている。残された人間が選べる手段は、捨て身で最大威力の攻撃を放って押し切ることだけ。誰か他の人間が狙われているうち、少しでもダメージを稼ぎ、苦し紛れの攻撃で仕留めきれることを祈るしかない。
──どうせ死ぬならせめて、魔力を全てぶつけてから死ね。
前線はベルチェロ一人が受け持っている。魔力を練り上げるなら今しかない。
身長ほどもある杖を横一文字に構え、指の先、爪の先端にまで意識を集中させ、練り上げた魔力を形にしていく。
遂に魔王がベルチェロの姿を捉えた。眼球を貫こうとしたのだろう、魔王の鼻先で、老人の身体は巨大な両手に圧殺された。
目の前に魔法陣が展開される。描き出した魔力が濃度を増し、光で描かれた紋様が強く輝く。
カイが強大な一撃を準備していることを察知し、魔王は一直線に突進してきた。不規則に乱れた動きをする長い尾が鞭のように右へ左へ、辛うじて立っていた者たちを薙ぎ払っていく。
眼前に魔王が迫る。カイは恐怖と諦めに感情を支配されながら、祈るようにして魔法を放った。
魔法陣の中心から、目も眩むような光の奔流が放たれ──
──その一撃は、魔王の宝石のような赤紫の双眸のちょうど真ん中を撃ち抜いた。
カイの足元三寸に巨躯を倒れ込ませる魔王。
やった。頭を貫いて生きていられる生物などいない。そう確信した。
カイは忘れていた。敵は常識など通用しない存在だということを。
魔王の、その目の光は、まだ失われていなかった。
「なっ……」
魔王は最後の力を振り絞るように、がばりと開いた口の奥から、闇を捏ねて作り出したかのようなものを撃ち出してくる。
振れるほどの至近距離で、なおかつカイは全ての魔力と精神力を使い果たしていた。
カイには少しの回避動作も許されず、呪いの光を全身に受けることとなった──
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