どうしても必要な人

鈴元 香奈

第1話 不思議な土地を見つける

 設楽英子したらえいこは物心ついた頃から人の心の声を聞くことができた。それは彼女にとって辛いことの方が多く、家族の仲も上手くいかなかった。

 両親が英子を娘として愛していたのは間違いない。しかし、授かり婚をした両親は、彼女がいなければもっと独身を謳歌できたと残念に思う時がある。普通なら知ることのなかったそんな思いを、英子は聞き取ってしまうのだ。

 母の日に渡した英子の絵を喜びながらも、母親が内心でこんなブスではないとがっかりしていたり、英子がテストで百点をとったことを喜んでいても、父親は内心で教育費の心配をしていたりと、そんなほんの些細なことでも彼女は傷づいていた。


 また、学校でも仲が良いと思っていた友人の悪意に打ちのめされたり、教師が少女に向ける妄想に吐き気を覚えたりと、決して幸せな場所ではなかった。


 成長するにつれ、英子の能力はなくなるどころか益々高まっていく。中学生の頃には直径三百メートルほどの範囲から心の声が届くようになっていた。もちろん距離によってその声に強弱はあるが、いつでも誰かの心の声が聞こえている状態であるのは変わらない。

 嫌でもその能力を受け入れざるを得なかった英子は、いつしか聞きたい情報を意図的に選ぶことができるようになっていく。

 それでも、雑音と化した悪意は英子を苦しめていた。


 家も学校も苦痛でしかない英子は、悩んだ末に、優秀な生徒は特待生として学費と寮費が無料になる全寮制の高校を受験することにした。特別頭が良いわけではない英子だが、受験生たちの心が読める彼女にとって、正解を知るのは容易なことだ。もちろん不正であることは彼女もわかっているが、その能力を止めることはできないので仕方がないと思う。そして、不正をしてでも特待生として寮に入りたかった。

 とても厳しいと評判の新興進学校なので、級友と慣れ合う時間もなく、勉強さえしていれば孤立していても生きていけると思ったのだ。


 合格者が発表され、英子は優秀な成績で無事特待生となることができた。

 高校生活は英子の予想通り、良い大学に入るために全てを捧げるような毎日が待っていた。全額無料と優遇されている特待生たちには更に厳しく、毎日のように小テストを課せられ、成績の順位が下がると、大量の課題が渡されるような毎日であった。

 そんな中、英子は成績を落とすこともなく黙々と勉強に励んでいたので、教師の期待は高まっていく。

 クラスにも親しい友人がおらず、成績しか口にしない教師を尊敬できるはずもなく、そんな彼らが悪意を持とうが性的な妄想をしようが、英子を傷つけることはない。英子が成績を維持するためのただの道具に過ぎなかった。


 そんな三年間はあっという間に過ぎ、教師たちの期待通りに有名国立大学の法学部に合格。もちろん、彼女の心の声が聞こえる能力のお陰である。そして、法科大学院を経て司法試験に合格し、弁護士となった。


 人の心が読める。それは弁護士にとってかなり有利なことだった。英子は弁護士としてのキャリアを順調に積んでいく。

 しかし、通常よりもっと悪意を浴びる日々に心が弱っていくと感じていた。


 夫の悪意を知るのはとても怖く、英子は結婚を諦めていた。しかし、家族は欲しいと願ってしまう。そこで、英子は恋人を作った。同じ大学のバスケット部に所属していた男性で、今は外資系の大手企業に勤めていて容姿も悪くない。子どもに遺伝子を継がせるに値する男性を選んだのだ。

 彼と交際を始め、無事妊娠したことを確認すると、そのことを何も告げずに英子は恋人と別れた。所属していた弁護士事務所を辞め、それまで住んでいたマンションを引き払い、逃げるようにとある地方に向かう。

 そこには不思議な場所があったのだ。



 昨年、それを偶然に見つけた。疲れた心を癒そうと電車に乗って温泉で有名な土地へ向かった時、途中で他人の心の声が全く聞こえなくなったのだ。温泉旅館で二泊する予定を変更して、一泊した翌日、その不思議な現象が起きている場所の最寄り駅で電車を降り、駅前のビジネスホテルを予約した。そして、スマホの地図アプリを確認しながら、レンタカーを借りてその周辺を走ってみた。


 直径にすれば三キロほどの円形内部では、人の心の声が全く聞こえなくなる。その中心地は田や畑が所々に残る閑静な住宅街で、英子が予想していたパワースポットのようなものは存在しなかった。


 その円内にある小さな喫茶店に入ると、にこやかに笑うウェイトレスが英子を席に案内する。壁際の席に座った英子は泣きそうになった。ウェイトレスの心の声が全く聞こえてこなかったのだから。人のいるところでこのような平穏な時間を過ごすのは物心ついて初めてだった。そして、近いうちにこの地に居を構えようと決めたのだった。



 さっそくその地方に着いた英子は、電話で予約していた不動産会社の案内で、彼女の能力が無効になる不思議な場所に建つマンションを契約した。以前住んでいたマンションより室内は広いが賃料は半分以下である。取り立てて何もない人口十万人ほどの地方都市。都会に比べ土地の価格がびっくりするほど安い。

 そして、不思議な場所の少し外になる場所に貸事務所を契約する。弁護士としては心の声が聞こえた方が仕事がしやすいからだ。夜や休みの日は静かな場所で過ごせると思うと、彼女は頑張ることができそうな気がする。

 英子はこの地で弁護士として独立開業するつもりだ。もちろん、このような人口の少ない土地で独立するのは難しいと英子は知っていた。それでも、この場所は彼女にとって唯一無二だ。他の場所を選択できるはずもない。


 このために彼女はお金を貯めていた。心の声で知り得た情報をもとに投資もして、金額はかなり膨れ上がっている。もちろん、インサイダー取引を疑われないように、クライアントに関連した銘柄には手を出していない。


 英子は悩んだ末に、不思議な場所の円内にある産院で出産することを選んだ。医師や看護師の心の声が聞こえた方が安心かと思ったが、全てを知ってしまうと怖いだろうと感じ、聞こえない方を選んだのだ。


 事務所開設当初は依頼人もほとんどなかったが、しばらくすると離婚や交通事故のトラブルの相談が少しずつくるようになった。上場企業など殆どないので、企業間のトラブルのような高額な依頼はなく、投資の情報も入ってくることはないが、それまで買った株の配当金が税金を払っても年に三百万円ほどあり、物価の安い地方ではそれだけで生活できそうだ。海が近く畑も多いので、新鮮な魚介類や野菜がとても安く売られている。


 休日になると、英子は不思議な場所の中心地辺りを調べ、その近隣の住宅に直接営業をかけていた。依頼人を増やすというより、そこに住む人のことが知りたかったのだ。

 最初は弁護士ということに驚いていたが、気のいい地方の主婦たちは、何かあったら頼むからと名刺を受け取ってくれる。

 英子は心の声が聞こえない不思議な場所があるこの地方都市をかなり気に入っていた。


 それから半年後、英子は女の子を出産した。

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