私の両手は青の笛
堀久保未練
第1話 どこかの誰かから
ピィー! ピヒィー!
部屋中に笛の音が鳴り響いた時、わっと歓声が上がった。
外から聞こえる歓声は次から次へと広がっていき、生まれた、生まれた! と喜ぶ声が笛を鳴らすと遠くで明るい笛の音が帰ってくる。
ああ、やりきったんだなとわたしは身体の力を抜いた。
一息つくと自分の左手を強く強く握る手を感じる。
夫だ。
右手で私の左手を強く強く握り、自分の手で吹いているのは応援の音色。
私が痛みと戦っている間、ずっと聞こえていた音。
強く握られた左手に私はそっともう片方の手を重ねると、彼はハッと顔を上げる。
なんであなたの方が泣きそうな顔をしているのよ、と口元が緩んだ。
私は右手で彼の口元に触れ、彼はそれを優しく受け入れる。
穴の空いた私の右手の甲に彼が口付けをし、ゆっくり息を吹き込む。
私の腕の中を空気が流れ、肘の穴から音が鳴る。
二人で奏でる喜びの音。
片腕が笛の、私達笛人の愛情表現。
二人だけの世界から顔をあげると、取り上げた産婆が神妙な顔をしていた。
どきり、と胸が締め付けられ慌てて起き上がろうとするのを夫が止める。
「わたしの、子は?」
産婆はゆっくりと抱いていた赤ちゃんを私に預けた。
ひやりとしたが、随分と元気に自分の右手を吹いている。
よかった、と顔が綻んだ。
「あなた、この子は……」
産婆が何かを口篭り、夫が静かに肩に手を置いた。
私達笛人は、男の子なら左手、女の子なら右手に穴が空いて生まれ、音楽と共に生きて行く種族。
だが、私の腕の中にいるこの子は両手に穴が空いていた。
腕の穴は骨まで空いており、笛となっている腕は脆い。
重いものを持つ時は必ず穴の空いていない腕で持つ、それが笛人の常識であった。
そのため、両手が笛となっている子は長生きできない、凶兆の前触れとも言われている。
私の周りが心配そうに見ているのはそのためだろう。
高齢の産婆はその迷信をよく信じているようで、今にも魔除の音を吹こうとしていた。
ピィー! プフィー!
私の腕の中で笛が鳴る。
ファ、それからレファと立て続けに二音。
生きる力に満ち溢れた、まぶしい音色。
だから私はその元気な声に返事をした。
「そう、あなたはファレファと言うのね。生まれてきてくれてありがとう、これからよろしくね。ファレファ」
***********
「いい、絶対に村から出ちゃダメよ?」
何千、何万と聞いたこの言葉をはーい、とあしらう。
ちょっと今日はテキトーに返しすぎたかな、と思っていると案の定、むにっと頬を手で挟まれ見慣れた顔が目の前に現れた。
「ほんとに分かってるの? ほんと〜に?」
ほんとのほんとのほんと? と、このままでは延々に続きそうなほんと攻めを受け私はやれやれと思った。
私だってもう十三歳。
外に出て、好きに生きたっていい歳だ。
だと言うのにママは、いつも私を目の見える所に置きたがる。
分かってる、それは心配で、私の両手が人より脆いからだって。
お陰で十歳になるまで家の敷地から一歩も出して貰えなかったし、今になっても村からだって出して貰えない。
同い歳の子はみんな村の周りを歩いたことがあるって言うのに!
ねぇ分かってる? ねぇねぇとぐにぐに私の頬を弄び始めたママにいい加減うんざりした私は、顔をずいっと突き出してママにキスした。
びっくりして手を離す隙に扉を開け、するりと家を抜け出す。
後ろからこら! とママが顔を出した。
「いってきます!」
私が大きく手を振ると、ママは大袈裟にぶつけたらどうするの! と慌てるも、行ってらっしゃいと胸の前で小さく手を振った。
何も無く広い上り坂をくるくる回りながら走ると、両手からひゅるひゅると風が抜け独特の音色が生まれる。
私達笛人は音楽とともに生き、私達が居るところに音色はある。
山の麓にある私達の村は全体がなだらかな坂になっていて、道の脇には白くて丸っこい家が坂の傾斜に沿って段々に並んでいる。
陽の光をいっぱいに受けた家はきらきらと輝いて、耳を澄ませば風が吹く度ぴゅるると歌った。
重いものが持てない私達の家の作り方は、話に聞く限り村の外とは随分違うらしい。
この近くで取れる柔らかく軽い石を砕き、土などと混ぜて丸く捏ねる。
そうしてできた塊を、大人達が筒を突き刺し一斉に膨らませるのだ。
パンパンに膨れたそれはすぐに乾き、少し潰れた球の形になったら完成。
筒を抜くといくつかの穴が残り、そこから空気が出入りする度村全体が音を奏でる。
この家が膨らむ光景がとても面白くて、私は何度も一緒にやりたいとお願いした。
だが家をこねる手は穴のない手でという決まりであり、膨らませるのは大人でも難しい。
結局私には触らせて貰えなかった。
その度私は頬を家より膨らませていたが、今はもう大人だしそんなことはしない。
この間、捏ねている最中を指先でつついたら、ママにしこたま怒られたしもうしないのだ。
素材の石は砕くと白っぽい粉になることから、明るい色の家が多い。
薄い水色の家とピンクの家の間を抜けると視界が開け、他の家よりも一段と大きな建物が現れた。
村の家はそのほとんどが綺麗な丸をちょっと潰したような形。
でもこの家はちょっと違う。
平べったい円形を膨らました様な形をした家は、他の家の何倍も大きい。
いったい何人の大人が膨らませたのだろうか。
ママがよく焼いてくれたおやつで、丸い生地がぷーっと膨れた姿によく似ていた。
他の誰の家よりも大きく、村の一番高いところにある家が、村で一番偉いのミミおばあちゃんの住む家。
誰よりも音を奏でるのが上手で、耳がいいおばあちゃんは村の全部の音が聞こえているらしい。
だからミミおばあちゃんに隠し事は出来ないのだ。
そんな事は分かっていても、こそこそと家の脇を通り私は更に上を目指す。
腕から音が鳴らないように、風が吹かないようにと願いながら慎重に登っていく。
ちら、と家の方を見ると、窓から覗くしわくちゃの顔と目が会う。
やっぱりダメだった。
叱られる、と渋々窓に近付く。
今の私の唇は鳥みたいにとんがっているのだろう。
ごめんなさい、と声をかけようと顔を上げると、ミミおばあちゃんは唇に人差し指を当てゆっくり首を振った。
そして細い目を更に細めて、にっこりと笑い手を小さく振る。
行っていいってことだ!
私は走り出しそうになるのを必死に堪えながら、そそっとおばあちゃんの居る窓に近付くと頬にキスをした。
「いってらっしゃい」
優しくかけてくれた声に小さく手を振り返すと、私はミミおばあちゃんの家よりも上、村のはずれへ走り出した。
坂をかけ登り小さな崖と崖の間を走り抜ける。
ぱっと視界が開けた。
大きな大きな山が、静かに私を見守っている。
兎山と言われるその山は、山頂が二つあるみたいに真ん中で割れていて、兎という動物の耳に似ているのだそうだ。
ずっと昔、私達のご先祖さまがここに住む前に山の斜面が綺麗に崩れた。
だから山肌はつるつるしているように見えて、村を包み込むようになだらかなカーブを描いている。
風を集め、音を拾う山の形。
よく晴れて強い風が吹く日に、遠く遠くの音を運んでくるとミミおばあちゃんが言っていた。
山にお辞儀をし、後ろを振り返る。
真っ青な、青空。
一面の晴天が、ぎゅっと私を抱きしめていた。
村のどこよりも高いこの場所は、空の体温が感じられそうなほど近く感じる。
視線を下ろすと一面の花畑。
透き通った空が雨の雫になり、地面で花を咲かせたと言われるこの花は青空の延長戦のように青い。
青い花と青空、二つの青に挟まれた私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
風が吹き、花弁が宙を舞い空の青さにとけていく。
陽の光が花畑の上を走り、雲の影が私の周りから慌てて掃けていった。
ひゅるう! 私の腕から風が抜けると、隠れていた太陽が姿を現し、私を見る。
空に向けて手をかざすと、水色の手が空に輝いた。
ママの青色とパパの白を合わせた、水色。
私達笛人は、笛となった手が髪や瞳と同じ色に染まる。
ほかの人は片手、私は両手。
はじめは何で私だけ、とも思った。
昔は両手の色が嫌いだった。
でも、初めてママにここへ連れてきて貰って、澄んだ朝の空の色ね、と言ってくれた日。
あの日から、私と同じ色の青空と、この一面の花畑が大好きだ。
風が止まり、ざわざわしていた花々がまっすぐ立ってこちらを見ている。
まるで私に耳を傾けている様だった。
当然、答えないわけにはいかない。
両手を合わせて、右手の親指に口を付ける。
ふぅっと息を吹き込むと、親指と人差し指の付け根の間に風が流れるのを感じた。
空気が腕に空いた穴を伝って流れていく。
吹かなすぎは音が聞こえない。
強く吹けば音が割れ、痛くなってしまう。
私達笛人は、立ち上がれるようになる頃には自然と調度良い息の吹き方を覚えているものだった。
でも両腕が笛である私は、その土台にすら立てなかった。
両手に空いた穴は神様がそう作った様に、決まった形で手を重ね合わせなければ綺麗な音が鳴らない。
気持ち良い音が出せるようになったのはつい二、三年前の事だ。
重ねた手の中で、色んな思いと一緒に空気が混ざる。
そういうごちゃ混ぜになったものが、綺麗な音になるんだってミミおばあちゃんが言っていた。
言葉っていうのは不便で、ごちゃ混ぜの気持ちを表すことが難しい。
嫌いなのに好きで、でもやっぱり嫌な所もあって、大好きなのだ。
そんな気持ちを表現する為に、私達は音を奏でた。
掌でひとつにまとまった音の流れが、私の腕の中を巡り巡って肘の近くから溢れ出す。
綺麗だとか良い音だとか、そういう感想は全部周りが勝手に決めればいい。
そんな余計な事を考える頭を捨て去って、ようやく私の音色になった。
太陽に、山に、花に、ただ私はそれを見せつけた。
花達が揺れて、喝采に包まれる。
太陽からの熱い視線を感じながら、ぺこりと全てにお辞儀。
感極まった花弁が私の頬を撫でて、空の彼方へ舞っていった。
今日の演奏は八十三点。五
でも観客がこんなにも喜んでくれるのなら、八十五点くらいはあげてもいいかもしれない。
揺れるオーディエンス達に背中を預けて、青い花畑に後ろから倒れ込む。
最近私はここで練習を初めてから、いい点数が出せるようになった。
点数といっても、自分でつけているだけなんだけど。
平均して八十点台は出せるようになった。
つまり概ね満足ってこと。
でもまだ、何かが足りない。
その私の音楽に足りない何かを見つけない限り、この九十点への壁を突破するのは難しいだろう。
「うーん!」
花畑を転がって、手足を思い切り広げて仰向けに寝転がる。
首を振る青い花が慰めるように顔に触れた。
確かに、こうしてゴロゴロ悩んでいても仕方が無いか。
日は少し傾いているが、まだお昼を食べてからそこまで時間は経っていない。
早めに村へ戻って、友達のところに顔を出すのも良いだろう。
立ち上がり、遊んでくれた太陽と花畑に再びお辞儀。
振り返り山へお辞儀して、私は村の方へと向き直ろうとした時。
ぶわ、と耳を音が支配した。
色んな声が混ざって、ざわついた大きな音。
その殆どが人の声であることはわかるが、重なり合ってなんと言っているかまでは分からない。
そのまとまりのない声は、しかし突然しんと静かになる。
それはまるで、私の音を聞く太陽や、山や、花々の様に。
耳を傾けた時、その音楽は始まった。
プファー!
聞いた事のない音。
お父さんや、大人の男の人が吹く音に似たしっかりした音色が始まった。
でも、私達笛人にはこんなぱりっとした音は出せない。
一体どんな人が吹いているんだろう?
そう更に耳を済ませた時、新しい音が参加した。
ポロン、ポロロロ。
跳ね回るような軽快な音。
ここで私はようやくこれは笛人のものではないと理解した。
ミミおばあちゃんが昔教えてくれた、楽器という音楽を奏でる道具。
私達の村では見たことがなかったそれは、吹く以外にも音を鳴らす術があるらしい。
私はすっかり、この楽器たちの音に魅了されていた。
この音を、もっと近くで聞いていたい。
目の前に、知らない男の人が座っていた。
村では見たことのない服装、暗い色でかっちりとした上着は上品にボタンが留められていて、皴一つない。
彼は手に不思議な形をした楽器を左手で抱えていて、右手に持ったヘンな棒をその上に乗せる。
平べったい帽子の切れ目から、その人と目が合ったように思えた。
キラキラとした音が、私の胸を突き抜ける。
鳥のさえずりにも似た音は華やかで、棒を持った腕を引くたびに音が波打つ。
私の目は一瞬でそれにくぎ付けになった。
前に行こうとして、腰の高さほどある段差につっかえる。
彼のほかにも似たような恰好をした人が、その段の上に立っていた。
皆が見たことのない楽器を持っていて、それを吹くたび、動かすたびに私の知らないが胸を打つ。
そして演奏に隙間が生まれた。
音は鳴りやまない。
でも、誰か、主役のために場所を譲るような。
誰しもが主役の様な顔をして立っている。
だが、その目は誰かを待っている様だった。
「あら、ごめんなさい」
私の後ろから真っ赤な影がするりと抜けた。
彼女が段の上に立った時、ああ、皆はこの人たちを待っていたんだと瞬時に理解した。
赤い花の様な衣装に身を包んだその人は、村で見た誰よりもきれいだった。
美人だとか、そういう類ではない。
ただ、真っ暗闇でもこの人のことを見逃せないような輝きを放っていた。
その人は楽器を持っていなくて、でも誰よりも堂々と段の中央に立つ。
衣装よりも真っ赤に引かれた唇が開いた。
「どこかの……」
ふとその自信に満ち溢れた目と目が合う。
いつの間にか私は観客の内の一人で、そのオーディエンス一人一人と目を合わせるようにしていた彼女は私のところで視線を止めた。
「あなたへ」
細長い指先が私を指し示す。
彼女から放たれた声が私の心を貫いた。
歌というものがあると、聞いたことがある。
楽器を持たず、私達のように音を奏でる手段もない人が、それでも音楽をやる方法。
私達がこの腕笛で音楽を作るのなら、それは言葉で演奏するもの。
生まれて初めて聞いた歌に、私は心臓を鷲掴みにされた。
周りを見回すと、同じように心を打たれた人間が彼女の歌にじっと聞き惚れている。
透明なコップに入っているのはお酒だろうか?
お父さんとお母さんが私に隠れて飲んでいるのをたまに見かけるものに似ている。
みんな手にしたお酒も忘れて、ただ真っ赤な花を見つめていた。
「蝶が羽ばたけば、隣の島で大嵐」
楽器を持った男たちが目配せをすると、曲調が変化した。
村でも複数人で合奏をすることはある。だが、こんなふうに役割を分担しながら一つになるような音楽は初めてだった。
各々が他の人にはできない演奏をして、補い合いかみ合っている。
「紅茶をスプーンでかき混ぜたら、海の魔物が溺れるの」
その中心にいるのが彼女。
彼女がここまできらびやかに見えるのは、彼等が彼女を引き立てているから。
村のみんなは我が強い人が多くって、こんなことはできないかもとつい苦笑いが出た。
「それを私は魔法と呼ぶわ」
ぱあっと世界が開け、私と彼女だけになる。
彼女はまっすぐに、その輝いた目で私を見ていた。
胸がどきどきして、熱くなる。
私も、私もその段の上に立って、いつかは。
彼女は歓声に包まれる。
その声に紛れて、鮮やかな赤い姿は見えなくなった。
風が頬を撫でる。
青い花弁がひらひらと舞い、私の掌の上に乗った。
太陽を雲が隠し、影が落ちた。
さっきまで私が見て、感じた景色はなんだったのだろうか。
夢? それとも、どこか違う場所の現実?
分からない。
でも、私の音楽に足りなかったもの、その答えを見た気がする。
村に居るだけじゃだめ。
もっと色んな景色を見て、一緒に音楽をする仲間だって集めないと。
声はもう聞こえない。
山が静かに私を見下ろしていた。
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