短編小説集
知井シウヤ
ビバ、寿司
寿司には毒がある。薔薇の花に棘があるように、犬に牙があるように。最も古来にはそんなものは存在しなかった。だが何でも美味しく調理して喰らってしまう人間という生き物が海や川でも猛威を振るうようになってから、魚達も自衛の手段を身に付けた。その毒は体の大きな者なら平気だが、未熟者が喰えば瞬く間に全身に毒が駆け回って死んでしまう。だから、お前はまだ寿司を食べてはいけない。
・・・・・というのが父の談だ。勿論そんなことがあるわけもない。寿司を腹いっぱいに食べたい阿呆親父の詭弁である。だがかつての幼き自分は簡単に丸め込まれ、神妙な顔で納豆巻きを食べていた。
やがてサンタクロースの正体を知った頃には父の魂胆にも気が付き、あまりの悔しさに茶の間の床をごろごろと転がり回って抗議したものだ。それを見た父は悪びれもせずに笑い、「お前にはまだ早い。時がくるまで辛抱せよ」と宣った。
そんな私も、今やそれなりに立派な大人である。
自分の住処を見つけ、食い扶持と家賃のためにふうふう言いながら働いている。今日もよくわからんことを言うクレーマーを何とかいなしつつ、業務を熟してきた。我ながら天晴れである。だがやはりよくわからんことを言う輩の相手をするのはとても疲れる。こんな日は自分を甘やかすに限るだろう。そう思い立ってスーパーに駆け込み、値引きのパック寿司と檸檬酎ハイを手に取る。かつて寿司を断たされていた私にとって、こいつは格別の御馳走なのだ。
レジを済ませ月明かりの下をそそくさと駆ければ、見慣れた我が城が見えてくる。小綺麗なアパートメントの一室は、何件も物件を駆け回った末に決めたこだわりのハウスだ。
階段を上がって扉を開くと、にゃーん、というなんとも愛らしい声が耳を擽る。我が愛猫かつ番猫のおたまである。靴を脱いで中に入れば、汚れ一つない真っ白な毛並みを惜しげもなく足に擦りつけてきた。
だが、この愛くるしさに騙されてはいけない。彼女の狙いはレジ袋の中身である。家
猫として悠々自適な生活を送る彼女はレジ袋の中に美味しいものが入っていることを理解し尽くしている。その証拠に、まっすぐ帰ってきた日はちらりと一瞥するだけだ。なんとも恐ろしい悪女である。
ええい、そんな目で見るな。これは勤労の義務を納めた者の特権だ。心に喝を入れてちゃぶ台に足を進ませ、レジ袋からパック寿司を取り出す。
艶やかに輝くマグロ、イカ、エビの握りにイクラ軍艦。気分はまるで宝箱を前にした冒険家である。
おたま隊員がにゃおん、と尻尾を立てた。次いでおたまの皿にキャットフードを盛ってやる。だが彼女は素知らぬ振りで依然甘えてくる。
ぐぬぬ、普段は滅多に寄り付かない癖に!抗議の意を込めて見つめるが、その数秒後、私は呆気なくマグロを二切れともおたまの皿によそった。結局この世の猫飼いは愛猫のおねだりに弱いのである。
おたまは目的が達成されるや否やすぐさま私の足元から抜け出し、マグロを食べ始めた。細長い尻尾は大きくゆっくりとゆれている。
今の内に私も食べてしまおう、とイクラ軍艦を口に放る。一噛みすればぷちぷちとした触感と共に海の旨味が広がっていく。固めのシャリと絶妙な調和を成しており、ほう、と息が帰れた。胃にしまい込んだ後にすぐさま酎ハイを入れれば、爽快感が体中を駆け巡る。寿司、酒、寿司、酒の永久機関だ。
旨過ぎる。最早私を止められるものなど何処にもいない。と思った矢先、いつの間にか寿司はシャリ二つのみになっていた。恐ろしい。これが寿司の魔力だとでもいうのか。いや、もしかすると父が言っていたのはこういうことなのかもしれない。一度寿司にありつけば理性など忘れて欲望のままに貪る獣になるのだと。確かに子供には危険だ。あっという間に腹が丸くなってしまうではないか。実家にいる父が「だから言っただろう」と踏ん反り返っているような気がした。
それにしても、もう無いのが口惜しい。やはり守り切るべきだったか。ちらりとおたまを見やると、既に食べ終えていたようでお腹を見せて寝ころんでいた。尻尾はゆっくりと揺れており、野生など一欠けらも存在しない。
「美味しかった?」
「にゃあ」
無防備な腹を撫ぜれば、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。それなら許してやろう。そう思いつつ手を伸ばして食べたシャリは、何故だが一等旨かった。
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