第17話 初めてのお留守番

 春休みがあっという間に過ぎ、高校2年生の新学期が始まった。


 まだ肌寒さの残る朝。

 優衣は久しぶりに着た制服の袖をきゅっと直しながら、鏡の前で深呼吸をした。

胸元のリボンも整え、髪の乱れがないか確かめる。

 新しいクラス、新しい担任、新しい一年の始まりに、少しだけ胸が高鳴っていた。


 しかし今日は、もう一つの大きな出来事がある。

――ヴァイスが初めてお留守番をする日だ。

 今まではお昼寝のタイミングで急いでお買い物に行ったりしてきたで、今回から本格的なお留守番が始まる。



 キッチンの片隅、ふかふかのベッドの上で小さく丸くなっていたヴァイスが、優衣の足音に気づいて顔を上げた。

 つぶらな瞳がキラキラと光り、ふわふわの尻尾がピコピコと揺れる。


「ヴァイス、今日から学校に行ってる間は、一人でお留守番だよ」


 しゃがみ込み、そっとその頭を撫でる。

 ヴァイスはすっかり歩くのも上手になり、前よりも活発に部屋の中を動き回るようになっていた。

 毛並みはだいぶ整い、色は相変わらず雪のように白く、撫でると手のひらが沈むほど柔らかい。


「お昼休みにはちゃんと帰ってくるから。…あ、もし暇だったら、おもちゃで遊んでてね」


 ヴァイスは小さく「キューン」と鳴き、分かっているのかいないのか、首をかしげてつぶらな瞳で優衣を見上げた。

 その仕草があまりにも可愛くて、優衣はつい笑みをこぼしてしまう。


 しかし、玄関の扉に手をかけた瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。

 ヴァイスはまだ子どもで、一人で過ごすのは初めてだ。

 寂しがらないだろうか、いたずらをしないだろうか、怪我をしないだろうか――そんな考えが頭をよぎる。


「…大丈夫、大丈夫。ちゃんと準備したし」


 そう自分に言い聞かせ、優衣は振り返ってもう一度ヴァイスの姿を目に焼きつけた。

 尻尾をふわりと振って見送ってくれる姿に、安心と寂しさが入り混じる。



 学校へ向かう道のりは、春の空気が心地よかった。

 並木道の桜はもうほとんど葉桜になっていたが、時折ひらひらと花びらが舞い落ちてくる。

 優衣は制服のスカートを揺らしながら歩き、新しいクラスメイトたちのことや、席替えのことを考えていた。


 教室に入ると、新しいクラスのざわめきに包まれる。

 同じクラスになった友達と笑顔で挨拶を交わし、ホームルームが始まった。

 授業は淡々と進み、休み時間には自己紹介や春休みの話題で盛り上がった。


 それでも、優衣の心の一部はずっとヴァイスのことを考えていた。

 ちゃんとお水を飲んでいるだろうか。

 寂しくて鳴いていないだろうか。

 心配の種は尽きない。



 そして待ちに待った昼休み。

 お弁当もそこそこに、友だちに少し席を外すと声をかけ優衣は安息の空間へと急いだ。

 周りから見れば少し変わった行動に見えるだろうが、優衣にとっては大切な日課になる予感がしていた。


 ゲートを抜けると、窓の外から小さな足取りで元気に歩き回るヴァイスの姿がみえた。

 部屋の隅に置いていたボールを前足で転がし、一生懸命遊んでいる。優衣に気がつくと一目散に窓際に駆け寄ってくる。


 優衣は急いで家の中に入りリビングの扉を開ける。


「ヴァイス!」


 走って飛びかかるヴァイスにをしゃがみ込み、両手で受け止めるとその小さな体からふわっと温もりが伝わる。

 ヴァイスは嬉しさを全身で表すように尻尾をふり、一生懸命優衣の頬を舐める。

 毛並みは相変わらず柔らかく、頬ずりしたくなるほどだ。


「お利口にお留守番してたんだね。ヴァイスは本当にいいこ!」


 優衣はヴァイスを満面の笑みで撫でながら沢山褒めた。

 ヴァイスは興奮して嬉しそうに優衣から飛び降り、優衣の周りを跳ねるように動く。

 用意しておいたおもちゃを取り出すと、ヴァイスは嬉しそうに前足でつつき、尻尾を全力で振った。

 優衣は笑いながら一緒に遊び、時間を忘れてしまいそうになる。



「お昼ごはんも食べようね」


 ふやかした専用フードを差し出すと、ヴァイスはすぐに鼻を近づけ、パクパクと食べ始めた。

 その食べっぷりは見ていて気持ちがいいほどで、もうミルクを卒業したのだと改めて感じる。


「ちゃんとご飯も食べて、えらいね」


 食べ終わったヴァイスは、満足そうに一度小さく鳴くと、窓際に用意されたお昼寝用のベッドへ自分から歩いて行った。

 丸くなって、尻尾を鼻先にくるりと巻きつける。

 やがて、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてきた。


 優衣はしばらくその寝顔を見つめていた。

 こんなにも愛おしい存在が、自分の毎日にいることが信じられない。しかも、いつも全身で自分の事大好きだと伝えてくれる。

 ダンジョン探索も、学校生活も、すべての合間にヴァイスがいてくれる――その事実が、優衣にとって大きな心の支えになっていた。



 時計を見て、優衣は名残惜しそうに立ち上がった。

 午後の授業に間に合うように戻らなければならない。


「学校が終わったらすぐに帰ってくるからね」


 小さく声をかけて、眠るヴァイスの頭をそっと撫でた。

 柔らかな毛が指先をくすぐり、その温もりが離れがたく感じる。


 学校生活、ダンジョン探索、ヴァイスのお世話――忙しい毎日が、これから始まっていく。

 でも、そのどれもが優衣にとっては大切な時間だった。

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