僕らの三十億キロメートルに及ぶ旅

境界セン

第1話 黎明

「……ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン、ゼロ。メインエンジン、点火。リフトオフ」


地鳴りのような轟音が、俺の全身を揺さぶる。

いや、違う。全身を叩き潰さんばかりの暴力的なGが、俺をシートに縫い付けていた。網膜がじりじりと焼けるような感覚。息ができない。思考が真っ白に塗りつぶされていく。


「ッ……く……!」


奥歯を噛みしめ、必死に意識を繋ぎとめる。目の前の計器パネルに並ぶ無数の数字が、ぐにゃりと歪んで見えた。


『大地、大丈夫か!』


ヘルメットに内蔵された通信機から、聞き慣れた声が響く。声の主は、俺の右隣の席に座る黒木徹。憎まれ口ばかり叩く、しかし誰よりも信頼できるエンジニアだ。


「……問題、ない。お前こそ、泣き言を言うなよ、黒木」

『誰が言うか、バカ野郎。お前よりはマシだってんだ』


軽口を叩けるだけの余裕が、まだお互いに残っているらしい。その事実に、少しだけ口元が緩んだ。


俺の名前は天野大地。人類初の火星有人探査計画、通称『ヤマト・プロジェクト』の船長兼メインパイロットだ。

そして今、俺たち六人のクルーを乗せた宇宙船『ヤマト』は、七十億の期待と、ほんの少しの不安を乗せて、地球の重力を振り切ろうとしていた。


窓の外に広がるのは、どこまでも青い、見慣れた空。だが、それもほんの一瞬のこと。すぐに空は深い藍色に、そして漆黒の闇へとその姿を変えていく。


「船長、第一段ブースター、分離シークエンスに入ります」


左隣から、凛とした声が飛ぶ。植物学者であり、この船のムードメーカーでもある星川光だ。彼女はいつも、どんな時でも冷静さを失わない。その声が、極限の緊張状態にある俺の心を、不思議と落ち着かせてくれた。


「了解。光、頼む」

「はい!」


彼女がコンソールを数回タップすると、軽い衝撃と共に船体がぐっと軽くなる。役目を終えた巨大なブースターが、小さなゴミのように眼下へ消えていった。


代わりに俺たちの視界に飛び込んできたのは、緩やかな弧を描く、青い惑星。俺たちの故郷、地球だ。


「……きれい」


誰かが、ぽつりと呟いた。

俺も、他のクルーたちも、言葉を失っていた。写真や映像で、もう何百回、何千回と見た光景のはずなのに。今、この目に映る地球の姿は、どんな芸術品よりも、どんな宝石よりも、神々しく輝いて見えた。


宇宙は、静かだ。

あれほど凄まじかった轟音も振動も、今は嘘のように消え去っている。ただ、船内の空調の音と、俺たち自身の呼吸音だけが、この空間が現実であることを教えてくれていた。


「こちらヤマト。地上管制室、聞こえるか?」

『こちら地上管制室。クリアに聞こえているぞ、ヤマト。打ち上げは完璧だ。おめでとう、諸君』


スピーカーから聞こえてきたのは、ひびき司令官の落ち着いた声だった。彼女は、このプロジェクトの総責任者であり、俺たちクルーにとっては地球にいる母親のような存在だ。


「ありがとうございます、司令官。これより、我々は火星への航行フェーズに移行します」

『ああ。だが、気を抜きすぎるな。お前たちの旅は、まだ始まったばかりだということを忘れるな』

「はい。肝に銘じます」


通信を切ると、俺は深く息を吐き、シートの背もたれに体を預けた。

隣の黒木が、ヘルメットのバイザーを上げてニヤリと笑う。


「どうした、船長サマ。もうお疲れか?」

「うるさい。少し感傷に浸ってただけだ」

「感傷、ねぇ。あの世の親父さんに、カッコイイとこ見せられたってか?」


黒木の言葉に、俺は何も答えなかった。

宇宙物理学者だった親父は、夢半ばで病に倒れた。

そうだ。俺は、見せたかった。

あの親父が、生涯をかけて追い求めた夢の、その先を。


『ねえ、二人とも』


光が、俺たちの会話に割り込んできた。彼女の瞳は、キラキラと輝いている。


「見て。すごいよ。星が、星がこんなに……!」


彼女が指さす窓の外に、俺も視線を向ける。

そこには、無数の星々が、まるでダイヤモンドダストのように煌めいていた。地球の分厚い大気に邪魔されることのない、ありのままの星の輝き。その一つ一つが、俺たちの前途を祝福してくれているかのようだった。


「ああ……本当に、すごいな」


自然と、言葉が漏れた。

そうだ、俺たちは今、宇宙にいる。

これから二百数十日をかけて、四億キロメートル先の、あの赤い星を目指すんだ。


胸の中に、熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。それは、恐怖じゃない。不安でもない。

希望だ。

人類の未来を切り拓くという、誇りと希望だった。


俺は、操縦桿そうじゅうかんをそっと握りしめる。

その先に見据えるのは、漆黒の闇の中に、ひときゆわ赤く、そして気高く輝く一つの星。


火星。


「……待ってろよ、親父。必ず、たどり着いてみせるからな」


誰にも聞こえない声でそう呟き、俺は前を向いた。

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