第43話 祖父との試練

 道場へと向かう道は、いつもよりもずっと長く感じられた。

 足取りは重く、ひと足ごとに地面へ沈み込むようだ。心臓がやけにうるさい。耳の奥で脈打つ音が響き、手のひらは汗で湿っている。その様子を見てみんなが不安そうな瞳をこちらに向けてくる。


 逃げるわけにはいかない。

 そう口では言った。だが、頭の中であの祖父の顔を思い浮かべるたび、膝が勝手に震える。

 戦場を渡り歩いたあの眼光。たとえ血が繋がっていようとも、あの人間は間違いなく化け物だ。父さんや兄さんみたいに手心を加えてくれる相手ではないだろう。


 それでも俺は、引き返すという選択肢を持たなかった。

 あの男は俺の母さんを侮辱した。血が繋がっていようが、そんな言葉を許すつもりはない。

 胸の奥で怒りが、炎のように燃え上がる。


 深呼吸を一つ。俺は道場の重い扉を押し開けた。


 中に立っていたのは、祖父は剣を持ちただ立って居た。それでも威圧感は想像以上だった。

 白髪混じりの短髪に、背筋をピンと伸ばした長身。握られた木剣からは、目に見えぬ圧が波紋のように広がり、空気を押し潰す。

 その視線が俺を射抜いた瞬間、背骨に冷たいものが走った。恐怖に飲み込まれそうになるが怒りで何とかそれを抑え込む。


「ほう……来たか、アレン」


 声は低く、重い。

 全身を貫く殺気に、呼吸が浅くなる。足が思うように前へ出ない。それでも、一歩、また一歩と踏み出し、俺も木剣を握った。


「度胸はあるようだな。褒美に――一撃、先に入れさせてやろう」


 余裕に満ちた声音。その眼には、俺を試すというより、見下す色しかない。

 わかっている。実力差は歴然だ。それでも、せっかく与えられた機会だ。俺は腰をひねり、全身の力を込め、大上段から木剣を振り下ろす。


 普通なら避けられるはずの大振りだった。だが祖父は一歩も動かず、そのまま受け止める。

 ガキィン、と乾いた衝撃音。手に返ってきた感触は、まるで岩を叩いたようだった。腕が痺れ、握力が抜けそうになる。


「……ふん。その程度か」


 木剣越しに軽く押し返され、たたらを踏む。

 その瞬間、祖父の木剣が視界を裂くように振り下ろされた。――見えた、と思った瞬間、世界が横に流れた。

 脇腹に突き刺さるような衝撃。呼吸が止まり、身体が宙を舞う。次の瞬間、背中が床に叩きつけられた。わき腹と背中がズキズキと痛む。


「儂の剣が見えたと思ったか? あれは囮だ。それに注意を引き……死角から蹴りを入れただけだ。そんなことも分からんとは……やはり貴様に勇者の末裔を名乗る資格はない」


 突き刺さる言葉。

 確かに今の一撃、何もできなかった。それでも――母さんを馬鹿にされたことだけは、どうしても許せない。


「……っ!」


 痛む身体を無理やり動かし、再び祖父へと踏み込む。木剣を何度も振るうが、すべて紙一重でかわされる。

 まるで、俺の未来の行動をすべて見透かしているかのようだ。


「ヴァルトのやつ……どんな教育をしている……これではそこらの新米騎士のほうがまだマシだ。やはり、家督を渡すべきではなかったな」


 今度は親父まで侮辱された。胸の奥で何かが爆ぜる。

 呼吸が荒くなり、頭の中が真っ白になる。


「――ブレイクリミット」


 親父に禁じられた技。未熟な俺では諸刃の剣な技。

 全身に重い鎖を巻かれたような制限を力づくで断ち切る。筋肉が悲鳴を上げ、血管が破裂しそうな圧力に軋む、木剣さえ悲鳴をあげる。それでも構わない。

 速度が跳ね上がり、床を蹴った瞬間、視界の景色が一気に流れる。


「ほう、ブレイクリミット使えるとは評価しよう……だが、それだけだ」


 祖父の声と同時に、鳩尾に鋭い突きが突き刺さる。肺の空気が一瞬で奪われ、喉がひゅうと鳴る。視界が歪み、膝から崩れ落ちた。


 床に倒れれると同時にブレイクリミットの効果が切れる。そして全身を鈍い痛みが貫いた。

 腕は鉛のように重く、握った木剣の柄が滑り落ちそうになる。


「ヴァルトが貴様に何を期待していたかは知らんが……貴様に価値はない。儂の理想とする勇者の末裔に、貴様はいらん。あの女もだ。ほかの兄弟は……まあ良い。もう一度、このグレイバーン家は儂が仕切らせてもらう。息子に二度も敗北はせん」


 ――ふざけるな。


 手は震え、木剣の柄が砕けた。破片が掌に食い込み、血が滴る。それでも俺はそれを握りしめる。


「……まだ立つか。手加減しすぎたか?」


「……黙れ……クソ爺……俺は……あんたに、一泡吹かせてやる」


 呼吸は浅く、視界は霞んでいる。それでも前へ。たとえどうなってもあのクソ爺の口を黙らせてやる。

 俺を見下すその目を家族を馬鹿にするその口を、へし折るためだけに。


 祖父が木剣を構え、迎え撃とうとした――その瞬間。


「そこまでだ、父さん。……アレン」


 鋭く通る声が道場に響き渡った。

 いつの間にか、親父が俺と祖父の間に立っていた。

 背中越しに見えるその姿は、大きく、揺るぎなかった。


 張り詰めていた糸がぷつりと切れる。

 安堵と、情けなさと、悔しさが一気に胸を満たし――俺の意識は、静かな暗闇へと沈んでいった。

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