境界線の向こう
休日の午後、私はまた紗英の姿を追っていた。
今回は、彼女の方から呼び出してきたのだ。
理由は「お礼をしたいから」という、どう考えてもわざとらしい口実。
駅前で待ち合わせると、紗英は私を見るなり、少し目を細めた。
「……来てくれてありがとうございます」
「なにそれ、呼び出したのはそっちでしょ」
「そうでした」
その淡々とした言い方が、妙にくすぐったい。
着いたのは、商店街の外れにある古いビル。
一階は八百屋、二階は美容室、そして三階には場違いなくらい静かな喫茶店がある。
小さなドアを開けると、コーヒーとバターの香りがふわりと漂ってきた。
「ここのケーキが美味しいって聞いて」
「へぇ……じゃあ今日は私が奢ってもらえるってわけだ」
「はい、そういうことです」
席に着くと、彼女は迷わずショートケーキを注文した。
前にうちで食べた時よりも、少しだけ嬉しそうに見える。
フォークを動かしながら、紗英はふと視線を落とした。
「……莉音さん、この前のこと、覚えてますか?」
「どのこと?」
「枕じゃなくて、私を抱きしめろって言ったこと」
不意打ちに、口元が緩む。
「忘れるわけないじゃん」
「……あれ、少しずるいです」
「なんで?」
「……答えられません」
彼女はそれ以上話さず、代わりにケーキを口に運んだ。
でも、耳まで赤くなっているのは見逃さない。
会計を終えると、紗英が少し歩く速度を落とした。
「この後……少し、時間ありますか?」
「あるけど」
「じゃあ、私の方の世界も……少しだけ見せます」
その言葉に、心臓が小さく跳ねた。
これまで彼女が頑なに閉ざしてきた、「裏」の入り口。
私はその誘いを、迷わず受けた。
紗英は駅前から少し外れた細い道へと私を導いた。
昼間は人通りもまばらで、古いビルや小さな飲食店が並んでいる。
途中、彼女は何度も振り返り、私との距離を確かめるように歩いた。
「……本当にいいの?」
「少しだけです。深くまでは踏み込まないでください」
「わかった」
けれど、その「少しだけ」がどれほど危ういものか、私は知っている。
ビルの入口に着くと、紗英はポケットからカードキーを取り出した。
黒い扉が静かに開き、中から冷房と香水の混ざった空気が流れてくる。
廊下は暗く、奥に続く小さな光がかすかに揺れている。
「ここ……」
「はい。仕事場です」
彼女は軽く説明するでもなく、ただ静かに進んだ。
壁にはシャンパンのボトルが飾られ、奥からは低い音楽が聞こえる。
まだ開店前なのか、スタッフらしき女性が掃除をしていた。
「お友達?」と声をかけられると、紗英はわずかに笑った。
「……そんなところです」
控室の扉を開けると、そこは彼女の匂いが一層濃く漂っていた。
ドレッサーの上には化粧品や整髪料、香水の瓶が整然と並び、
ハンガーには華やかなドレスがいくつもかかっている。
「すごいね……」
「仕事道具ですから」
そう言いながら、紗英は一つの香水瓶を手に取った。
私が前に家で感じた香りと同じだ。
「……この香り、好きなんです」
それは、自分に言い聞かせるような小さな声だった。
「じゃあ、もっと近くで嗅ぐ?」
そう言って一歩詰め寄ると、紗英はわずかに後ずさった。
その視線が逃げ場を探しているのが分かる。
「前も言ったよね。枕じゃなくて、私を抱きしめなよ」
「……莉音さんは、ずるいです」
そう言った瞬間、一歩、二歩と私との距離を詰めてきた。
次の瞬間、彼女の腕が私の背に回る。
思っていたよりも細くて、でも意外に力強い。
髪からはあの香りがふわりと漂い、耳元で小さな息が熱を帯びている。
「……ほんと、ずるいんですから」
その囁きは、怒っているようで、どこか甘えるようでもあった。
私も腕を回し返し、その背中をゆっくりと撫でる。
「ずるいって、誉め言葉に聞こえるんだけど」
「……違います」
そう言いつつも、紗英は腕を緩めない。
静かな控室に、時計の秒針と私たちの呼吸だけが響く。
このまま何も言わなければ、時間さえ止まってしまいそうだった。
「紗英」
「……はい」
「もうちょっと、このままでいい?」
問いかけると、彼女は小さくうなずき、顔を私の肩口にうずめた。
その仕草が妙に無防備で、胸の奥が締めつけられる。
触れてはいけない領域に足を踏み入れてしまったと分かっているのに、
それでも離れることができない。
はっきりとした声なのに、耳まで赤く染まっている。
私は笑いをこらえながら、もう少しだけ腕に力を込めた。
この距離、この熱、この香り——
全部が、彼女を私から離れられなくさせる鎖になればいい。
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