弦の向こう側
あの夜から、妙に気になる。
何がって、生徒会長のことだ。
いや、正確に言うと——あの缶コーヒーを渡したときの会長の手。
冷たくて、でも指先はかすかに震えていて。
なのに顔はあいかわらず整っていて、口角は少しだけ上がってた。
あんな表情、学校じゃ見たことない。
「やべぇな」
朝の教室、窓際で煙草を吸うフリして思わず呟く。
もちろん火はつけてない。校内禁煙だからってのもあるけど、
あの缶コーヒーのときと同じように、口実がほしいだけ。
チャイムが鳴って、ざわめきが収まる。
会長——紗英は、生徒会室にいるはずだ。
授業サボっても親父のコネで許される私に、昼休みまでの時間は暇すぎる。
生徒会室のドアを開けると、紙とインクの匂いが鼻に入った。
紗英は机に向かって書類を整理している。
背筋は一直線で、髪は耳の後ろできちんと留められていて、
ペン先が紙を滑る音がやけに心地いい。
「また来たんですか」
視線を上げずに言う。声は穏やかで、でも冷たくもなく、
むしろ前より柔らかい。
「授業つまんねーし」
そう返すと、今度はペンを置いてこちらを見る。
やっぱり光の当たり方で瞳の色が少し違って見える。
夜のバーで見たときの、あの深い色を思い出す。
「コーヒー、ありがとうございました」
唐突な礼に、私は少し面食らう。
「……別に。ただ寒そうだったから」
「それでも、うれしかったです」
紗英はそう言って微笑んだ。
一瞬、心臓の鼓動がズレた気がする。
放課後、街をぶらついていると、あのバーとは違う路地で紗英を見つけた。
細身のケースを背負って、早足で歩いている。
どうやら別の店に向かっているらしい。
尾行するつもりはなかった——いや、たぶんあった。
知らないふりして距離を取ってついていくと、小さなライブハウスに入っていった。
ネオンが弱々しく瞬くその建物は、バーの静けさとは正反対。
中からは賑やかな笑い声と、グラスのぶつかる音が漏れてくる。
ドリンクを頼んで壁際に立つ。
やがてステージに紗英が現れ、バイオリンを構える。
今日はジャズじゃない。軽快なポップスをアレンジした曲だ。
会長がこんな笑顔で弾くのは初めて見る。
弓が弦を撫でるたび、観客も笑顔になる。
「……なんだよ、これ」
心の中でつぶやく。
こんな顔ができるのに、なんで昼間はあんなに完璧な仮面をつけてるんだ。
演奏後、紗英は裏口から出てきた。
私はそこで待っていた。
「……また会いましたね」
少し驚いたように、でも逃げる様子はない。
「今度は何を渡すつもりですか?」
からかうように笑う紗英に、
私はポケットからチョコレートを差し出した。
「寒い夜は甘いもんのほうがいいって聞いた」
紗英は受け取り、包装紙を指でなぞる。
「優しいんですね」
「ちげーよ、ただの暇つぶし」
そう言ったのに、彼女はまた、あの夜と同じ笑顔を見せた。
帰り道、私は煙草に火をつけた。
けど、一口吸っただけで消した。
口の中が甘かったから——チョコレートじゃなく、あの笑顔のせいだ。
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