第3話 お父様への報告

「お帰りなさいませ、ミュリーナお嬢様」


 執事のセバスチャンが玄関で出迎えてくれて、いつものように恭しく頭を下げる。その丁寧な仕草が、いつもと変わらぬ日常を感じて無事に屋敷に戻ってこれたと思えた。


「お父様は書斎におられますか?」

「はい、先ほどからお待ちしております。何かございましたか?」


 執事の鋭い眼差しが、私の表情を見抜こうとしている。長年仕えてくれているセバスチャンには、私の様子がいつもと違うことがすぐに分かってしまうのでしょう。


「王宮での会議のこと、すぐに報告しないといけません」


 私は立ち止まることなく、急ぎ足で屋敷の奥へと向かった。真っ直ぐ帰ってきたので、まだ当主であるお父様の耳にも入っていないはず。だからこそ、私の口から直接お伝えしなければならない。


 書斎の重厚な扉の前で、私は一度深呼吸した。手が少し震えている。今日まで十九年間、私はお父様を失望させないようにしてきた。王妃候補として完璧であるよう、常に努力してきた。


 だけど今日、私は婚約を破棄すると宣言した。それも大勢の大臣や貴族の前で。この事を、お父様はどう判断されるでしょうか。怒られるかもしれない。失望されるかもしれない。それが一番怖かった。


 手を握りしめて震えを止めると、扉を軽くノックする。


「入れ」


 低く落ち着いた、いつものお父様の声が響く。私は扉を開けて、書斎に足を踏み入れた。


 アルバート・ローズウェル公爵――私の父は、大きな机の向こうから私を見つめていた。深い青色の瞳は私と同じ色をしている。机の上には政務の書類が山積みになっており、王様のご病気以来、お父様も忙しい日々を送っていることが分かった。


「戻ってきたか、ミュリーナ」


 お父様は羽根ペンを置いて立ち上がり、私を椅子に促した。その動作にいつもの威厳と優しさが込められている。


「王太子殿下からの呼び出しは、どのような内容だった?」


 お父様は私の表情を見て、すぐに察したようだった。


「その顔を見る限り、良い話ではなかったようだが」


 私は頷いた。それから、先程の出来事について話し始めた。王太子殿下がカーラという平民の女性を正妃にすると宣言したこと。私に第二王妃になれと要求したこと。私から王子に婚約を破棄してくれと申し出たこと。


 お父様は黙って聞いていたが、話が進むにつれて表情は次第に険しくなっていった。特に私が「第二王妃になれと言われました」と述べた時、お父様の眉がぴくりと動き、拳が軽く握られるのが見えた。


「第二王妃だと? 正式な婚約関係だった我がローズウェル家の娘に向かって、そのような侮辱的な提案を?」


 低く抑えた声に、明らかな怒りがにじんでいる。


「はい……」

「続けろ。最後まで聞こう」


 滅多に見ることのない、お父様の怒り。自分に向けられていないことは理解できるけれど、怖いと思った。声が震えないように気をつけながら、報告を続けた。


 私は最後まで話した。大臣たちの前で婚約破棄を宣言したことも、ケアリオット殿下の狼狽した反応も、カーラという女性の計算高い様子も、すべて正直に報告した。事実を捻じ曲げないように、自分の主観を入れすぎないように気をつけながら。


 話し終えると、書斎には重い沈黙が流れた。お父様は手を額に当て、深いため息をついた。


「なるほど、事情はよく分かった。まさか、そのような馬鹿げたことになっているとは……」


 お父様の声には呆れと怒りが混じっていた。そして少しの悲しみも。


「申し訳ありません、お父様。婚約破棄を申し出るなんて、勝手なことをしてしまって」


 私は深く頭を下げた。婚約を破棄するというのは、私だけの判断で決めることではなかったかもしれない。ローズウェル家の政治的立場にも影響する重大事。お父様に相談せずに決めてしまったことは、早まってしまったかもと後悔があった。もっと冷静に状況を考えて、うまく立ち回るべきだったかも。


「顔を上げろ、ミュリーナ。お前の判断は何も間違っていない」


 今まで聞いたことのない、とても優しい声。私は驚いてお父様を見上げた。


「我がローズウェル家の娘が、第二王妃などという屈辱的な立場に甘んじる必要は微塵もない。お前は正妃になるために生まれ、そのために最高の教育を受けてきたのだ。その責任を背負い、誇りを持って生きてきた。ならば、それ以外の立場など認める必要はない」


 お父様の言葉に、私の胸の奥で何かが温かくなった。理解してもらえた。認めてもらえた。それだけで、今日の決断が無駄ではなかったと思える。


「よくぞ毅然とした態度を取った。私の娘らしい、実に正しい判断だ。誇りに思う」

「ありがとうございます、お父様……」


 抱えていた不安と緊張が、一気に解けていくのを感じた。




「婚約破棄の手続きは、私が責任を持って進める。大臣や貴族たちの前で宣言したのなら、中途半端なことはしない。王太子が何を言ってきても、絶対に撤回はしない。それでよいな?」

「はい、お願いいたします」


 撤回なんてするものか。向こうが謝罪してきたとしても、必ず実行してもらう。


「しばらくの間、お前は屋敷で大人しくしているように。王妃教育の時間もすべてキャンセルだ。社交界の誘いなども全て断れ。もしかしたら、向こうが余計な干渉をしてくる可能性もある」

「承知いたしました」


 安全な場所で状況を待つ。当主としての的確な判断。その指示に従う。


「それから」


 お父様は机に戻りながら、少し表情を和らげて言った。


「この件、案外良い方向に転ぶかもしれん。王太子の愚行ぶりを見たのであれば、王国の重鎮たちも考えを改めるだろう。我々だけでなく、多くの貴族が同じ思いを抱いているはずだ」


 その言葉は私の不安を和らげようとする慰めなどではなく、ローズウェル家の当主であるお父様の鋭い政治的直感から導き出された事実を述べているのだと感じた。だからこそ私は、心から安心した。お父様の判断なら間違いないでしょう。きっと、悪いことにはならない。そう信じられた。


「ミュリーナ。今日は、ゆっくり休むがよい」

「はい、お父様。失礼いたします」


 これからしばらくは、屋敷で静かに過ごすことになる。けれど、不安はない。

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