第五色 つらく、濁った人生
目の前の彼は、見ず知らずの私にたくさんのことを教えてくれた。
それに私の心は揺れ、彼がもたらす希望に縋りそうだった。
それでも私は、バカな私は、彼の言葉を認めたくなかった。
彼がもたらす希望から、少しでも目をそらしたかった。
ここまできて、何をムキになっているのだろうか。
「私は、その誰かのために、苦しみ続けなければいけないの?他人のために、生き続けなければならないの?いつ終わるともしれない苦しみを、他人のために抱えて生きていかなければいけないの?」
「そんな訳ねえだろ」
呆れたような彼の声が、だんだんと弱くなってきた雨の中で、静かに響く。
「お前さ、もっと自分のために生きなよ。もっと自分勝手に、もっと自分本意に」
「そ、そんなの無責任じゃないですか」
私はなんとか口を開く。心のどこかで、柔らかい彼の言葉を止めたくないと思いながら。ずっとずっと、聴いていたいと思いながら。
「いいんだよ。無責任で」
彼はいつになく優しい口調で応える。彼の醸し出す穏やかな雰囲気に、私は呑まれているようだった。
「人間は、誰かのため、何かのためにって考えて行動する。息をしている。それはすごいことだと思うよ。温かくて、美しいことだと思う。だけどさ、それってすごく、変なことだと思わないか?」
私は何も言えない。
「お前が、誰かのために、何かのために生きるなら、一体誰が、お前のために生きてくれるんだよ?」
鼻の奥がツンとして、目に涙が浮かぶ。
考えたこともない言葉だった。
じんわりと、何かが胸の辺りに広がっていく言葉だった。
「自分のために生きられるのは、やっぱり自分しかいないんだよ。それなのに、お前にとっての唯一の自分が、他人ばかりを優先してちゃダメだろ。自分の思いを押し殺すって、すごくつらいことだろ」
「そうだよ!」
涙を流しながら、いつのまにか私は叫んでいた。
「つらいんだよ!もううんざりなんだよ!喧嘩し続ける両親にも、見てるだけで何もできなくて、心配されてる自分にも!」
彼は、何も言わない。私の言葉を、思いを、最後まで受けてくれるような気がした。
「これ以上生きるのが、しんどいんだよ!自分を責め続けるのに、自分の気持ちに蓋をするのに、もう、疲れたんだよ……」
私は街の方を向く。
「だから、私はもう生きられない。これ以上苦しむぐらいなら、いっそのこと、終わらせた方がマシだよ!」
私は柵に手をかける。
「あなたの言葉、少しは私の心を楽にしたよ」
私は先ほどの感動を思い起こす。心が、体の芯が、震える感覚。
「けど、私はもう、ダメなんだ……」
言葉では治らないほどに、私はもう壊れている。
人の優しさに応えられないほどに、私はもう終わっている。
震える手に力を込める。
怖い。怖いけど、こんな濁り切った人生よりマシだ。
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