番外編 1話


 本日は御日柄もよく、とは人であろうとあやかしであろうと、慶事における常套句なのだろうか。

 穂摘がこの妖怪の隠れ里である村にやってきてから半年が経ったこの日、村人総出で志郎と穂摘の祝言の宴が行われた。

 まだ陽も高く、宴が始まって一刻ほどしかたっていない。しかしすでに泥酔者が続出しており、空になった徳利がつくしのように大量に畳間の一角を占めている。さらに徳利などでは到底足りない者たちが空けた酒樽も、庭に出されてごろごろと転がっていた。

 そんな中、穂摘は五十畳ほどのやたらと広い畳間の上座に座していた。目の前で繰り広げられている宴を見ながら、まるで他人事のようにすごいなあとのんきな感想を抱く。

 明るいうちからの祝宴でありながら、畳間はまるで百鬼夜行のようだった。

 小さな者はそれこそ手のひらに載るほどだが、大きな者はそもそも部屋に入りきらず、庭で飲んでいる。大小問わず人に近い姿をしている者もいれば、完全に人でも獣でもない姿をした者もいる。その中には、どう見ても人間にしか見えない者もぱらぱらと混じっている。けれど誰一人としてあやかしたちを恐れるでもなく、むしろ睦まじく寄り添って楽しげに酒を酌み交わし、出された膳に舌鼓を打っていた。

 そして穂摘の隣にも、人の姿をした志郎が普段は猫背になりがちな背筋をすっきりと伸ばして座っていた。

 元が小山のような大蝦蟇だが、人の形であってもやはり大きいなと眺めてると、穂摘の視線に気付いたのか、志郎は穏やかに笑った。

「尻が痛んだりはしてないか」

 両親までも亡くす火事に遭い、死に瀕するほどの大火傷を穂摘が負ったのは半年近く前の話だ。あやかしでありながら薬師でもある志郎が献身的に看護してくれたおかげで普通ならば命を落としていたはずの大火傷は跡形もなくなり、後遺症すらない。

 それでもあまりに酷い状態の穂摘を目にし、看病していたせいだろう。なんら不自由することなく日常生活を送れるようになった今でも、志郎は穂摘が少しでもよろけようものならすぐに抱き上げ、長く座っていれば尻が痛むのではないかと心配してくる。

 正座をしているために足が痺れてきてはいるが、それを言おうものならすぐに中座させられてしまうのは目に見えている。お梅がどこからか持ち出してきた華やかな羽織りの下でわずかに脚を横にずらしながら、穂摘は首を振った。

「大丈夫です」

 にこりと笑って見せると、志郎はそうかと短く呟いて視線を宴に戻した。

 志郎はとても優しい。

 火傷をした穂摘の治療をしてくれていた時から感じていたが、非常に温和で安穏としており、声を荒げたりすることは滅多にない。本性こそ山のような大蝦蟇だが、あやかしの姿をしているときも、人の姿を取っているときも、くすぐったくなるほど穂摘を大切にしてくれている。

 そう、とても大切にしてくれているのだ。

 穂摘がこの村に残ると決めたのは、志郎と一緒に生きるためだ。どうせ夫婦になるのだからと、拾われたときと同じように志郎の家で暮らしている。元々独り身だった志郎は家事はなんでも出来たが、世話になっている身であり、収入もこれと言ってない穂摘は家事を買って出た。

 しかし掃除をして回れば「まだ本調子ではないだろう」と布団を敷こうとするし、洗濯物を干そうと腕をあげていると「関節の引き攣れが痛まないか」と志郎がさっさと竿竹に洗濯物を干していってしまう。家のすぐ横を流れる川で皿など洗っていると、「冷えてしまったら大変だ」と家に引き戻される。

 最初の頃は心配をかけてしまったからと大人しくしていたが、それも毎日のことになると、さすがの穂摘も辟易してしまう。改めて二人暮らしを始めて二週間後、穂摘は呼び出されて明らかにうろたえている志郎を前に、怒っているのだとわかってもらわなければと、表情筋が吊りそうなほど眉をしかめた。

「志郎さん。俺を心配してくれて、大切にしてくれているのはわかります。でも、もう火傷も引き攣れもありません。体も元々弱いわけじゃありません。だから、俺が家事をするのを止めないでください」

「だが、穂摘。お前は両性で、月のものだってあるだろう。無理をしたら、体にたたらないか」

 縮こまらせたところで決して小さくなりはしない大柄な体をしょげさせて言い募る志郎は心配でたまらないと言った様子だ。まるで叱られた犬のようで、言い過ぎたかなと穂摘の胸は早くもちくりと痛んだが、ここでそうですねなどと頷いてしまっては本末転倒だ。明日からは家から出られなくなってしまいかねない。

 ごほんと空咳をして気を取り直し、穂摘は志郎さん、と呼び掛けた。

「大丈夫ですよ。俺だって、元々は柏木の家で馬のお世話係をしていたんです。馬のお世話って大変なんです。餌をあげて、毛を梳いて、散歩もさせないといけない。数頭いましたし、他にも水汲みだったり飼い葉の運搬だったり、やることはたくさんで……そういう仕事をしてました。だから、それに比べれば家事は楽な方なんです。むしろ、もっとなにか仕事を貰えないかなって思っているくらいで」

 家事には家事の大変さもあるが、複数の大きな馬を相手に、朝から馬糞を片付けたり、山ほどの飼い葉を何度も運んだり、ちょこちょこと動き回って馬の毛並みを整えたりするよりはずっと今の方が楽だ。それどころか時間が余ってしまうほどなので、更に仕事をと少しばかりねだると、志郎は慌てたように首を左右に振った。

「い、いや、それはいい」

「でも、志郎さんばかり働いています。俺もなにかしたい」

 家事をするほかは、訪ねてきてくれるお梅や、あやかしに嫁いでこの里にやって来たほかの人間たちと話をするしかない。それはそれで楽しいが、人の来訪を待つばかりというのはどこか寂しくもある。

 それというのも穂摘はまだ、志郎の縄張りである家と裏手の川以外は、一人での外出が許されていなかった。

「志郎さん。俺、今さら逃げたりしません。一緒に山に行ったり、畑を手伝ったりしたいだけです。だから……」

 そこまで言って、穂摘は俯いてしまった。志郎も、同じように視線を落としてしまっている。

 ここに置いてほしいと、志郎の傍にいたいのだと穂摘が告げたあの夜、志郎は縄張りの話をしていた。

 いわく、この村で自由に暮らしている人間は妖のつがいであると。

 彼らはそれぞれあやかしを伴侶とし、彼らの子を産み育てたり、子は居らずとも睦んだりしている。情を交わしあい、形は人のままだが、体の中を流れる気はあやかしと変わらない。だから村を自由に行き来しているが、穂摘はまだ志郎と出会って日が浅く、体を重ねることもしていなかった。

 経験はなくとも、穂摘も体を合わせて行う行為は知っている。怖くないと言えば嘘になるし、人とは少し違うこの体を晒すことが恥ずかしくないなどとは口が裂けても言えない。

 けれど、志郎にはこの体の全てを知られている。穂摘自身も見ることのできない背中にあるらしいほくろの位置さえ知っているそうだし、両足の深みにある、二つの性が合わさった場所も志郎は目にしている。けれど、彼がそれらを見たのは治療という名目があってのことだ。肌を重ねることを意識してしまった今となっては、それこそ顔から火が出そうだ。

 裸を見られるというだけでも十分に恥ずかしい。

 けれど、いつまでもそんなことで関係を止まらせてしまっていては、穂摘は家に引きこもるしかない。

 さらに家と周囲以外から穂摘が離れられないとなれば、必然的に村の面々にも、祝言はしたもののまだ交われてはいないということが知られてしまう。

 それは志郎の沽券にもかかわってしまうのではないだろうか。

(……それはだめだ)

 穂摘は宴で浮かれる妖たちを前にしながら、正座をした膝の上でぐっと拳を握りしめた。

 華やいだ空気の中、常と変わらず落ち着いた雰囲気の志郎だけが隣に座した幼い新妻の握りこぶしに一瞬目を見開く。穂摘はそれに気づくことなく、今日こそは初夜を迎えねばと堅く胸に誓いを立てた。




 夜も更け、ともし火代わりの火の玉や狐火が至る所でともり始めた頃、ようやく宴はお開きになった。

 散り散りに帰っていった来客たちがいなくなると、広い座敷には酒樽やら徳利やらが無造作に転がり、空になった無数のお膳がそこかしこに残った。

 主役ではあるが、宴は穂摘と志郎を祝うために行われたものだ。こんなにも世話をしてもらったのだから、せめて片付けはさせてもらおうとお膳を片付けようとしたところで、ぱたぱたとやってきたお梅に止められた。

「ちょいと穂摘ちゃん、いいのよぅ、片付けやなんかはあたしらに任せてちょうだい」

「でも……」

「でもじゃないの。なんてったって今夜は初夜だよ。旦那様と帰んな。ほらしろさん、お嫁さん連れて早く帰った帰った」

 傍でこちらものそのそと酒樽など片付けようとしていた志郎もあっという間につかまり、揃って放り出されてしまっては仕方がない。

「か……帰りましょうか」

 まだ宵の口ではあるが、すでに月だけが明かりの夜道。家まではほんの少しの距離だ。

 着せられていた上掛けは少し分厚かったし、座敷も熱気があって少し暑かった。火照った体を冷やしながら帰るのもいいだろうと歩き出したところで声がかかった。

「穂摘」

「はい?」

 振り返ったところで、いるのは志郎だけだ。忘れ物でもあったろうかと見上げると、屈んだ巨躯が穂摘を抱き上げた。

「わっ、あっ、し、志郎さんっ?」

 火傷で寝込んでいた頃からいまに至るまでさんざん抱き上げられ、今になって恥ずかしいと思うことはないが、それでもいきなり抱え上げられれば驚く。思わず声をあげて首にしがみつくと、志郎の両腕はいつも通りで穂摘を抱いた。

「志郎さん……?」

 いつもならまずは心配する言葉があって、それからひょいと抱き上げられる。無言で突然抱きあげたりはしない。

 どうしたのだろうかと影になってよく見えない顔を覗き込もうとしたところで、志郎が歩き出した。

「志郎さ……」

「舌を噛むといけない。口を閉じていてくれ」

「は、はい……」

 ずんずんと歩き出した志郎の歩幅は大きい。身長があるので足も長いが、普段は穂摘に合わせて歩いてくれるし、抱きあげて運ばれるときも、よっぽどのことがない限りはのんびりとしたものだ。それが今日は今にも走り出しそうなほど早く、涼しさに頬を冷やす間もなく家についた。

 戸をくぐっても、志郎はまだ穂摘を降ろさない。

 抱えたまま土間を二歩で歩ききって三和土をまたぎ、囲炉裏のある居間も三歩ほどで横切ってしまうと、奥の間に踏み込む。そこでようやく体を屈めたので降ろされると思った穂摘だったが、志郎は片手で頑なに穂摘を抱いたままもう片手で隅に重ねてあった布団を半ば引きずるようにして敷くと、ようやくそこに穂摘を降ろした。

 ここまで一切口をきかない志郎の意図はわからない。けれど乱暴な素振りではないし、布団の上に降ろす時もいつも通りの優しいしぐさだった。だから怖いとは思わなかったのだが、次の瞬間には目を見張ることになった。

 寝転べとばかりに穂摘を軽く押すと、その上にずいと圧しかかってきたのだ。

 人間の姿でいるときも小山のようとだ思うほど身長が高く立派な体格をしている志郎だ。威圧感はすさまじく、行灯に火も入れていないので表情もわからない。

 困惑している間に、伸びてきた大きな手が帯を解いた。

(えっ……えっ?)

 留めるものがなくなってしまえば、着物などあっさりと開いてしまう。ばさりと開かれると肌があらわになった。ひんやりとした夜の空気が肌を冷やす。恥ずかしさはあったが、もしかして、という期待が頭をもたげた。

(志郎さんも、ちゃんと初夜、しようと思ってくれたのかな)

 皆のまえで契りを交わしたのだ。共に寄り添い生きていくと。そんな決意をして、夫婦となったこの夜を、志郎も特別なものにしようと思ってくれたのかもしれない。

 そう考えると、肌は夜風に冷やされても、その下の鼓動はとくとくと早まった。

 羞恥や不安は確かにあるが、志郎ならば大丈夫だ。むしろ、この時を待っていたのだ。出してもらえる手があるなら、今すぐにでも手を付けてもらいたい。そう思って、穂摘は待っていた。

 けれど、さあっと葉擦れの音を響かせながら吹いた風が雲を動かしたのだろう。ほとんど闇だった室内に、月の明かりが差し込んだ。

 ぼんやりと白く光る月はまばゆい。志郎の肩越しに見えるそれに目を細めていると、びくっと大きく巨躯が揺れた。

「う……さ、……」

 逆光になってよく見えないが、さっきまでの少し強引な動きはどうしたのか、志郎は大きな手のひらをさまよわせたあと、素早い動きで穂摘のうえから退いた。

「えっ」

 思わず困惑が音になって口から飛び出すが、志郎はすっかり穂摘から離れてしまうと、よたよたしながら土間に向かって歩き始めた。

「さ、酒……」

 どたどた、がたん、と大きな音がする。土間にでも落ちたのかと思ったが、がさごそとそこらをあさる音もして、途切れ途切れに「酒」と聞こえた。

「し……志郎さん、なにして……」

「酒がないと……酒がないと無理だ……」

 そこから、上半身を起こしてからの穂摘の動きは機敏だった。

 情けない声が闇の向こうから響くなり、放り出されて畳に落ちていた枕をつかんで声の方向に叩きつけた。そば殻の入った麻の枕はどうやら目標にぶつかったらしく、ぼすんという音と一緒に「うっ」と詰まった声もした。

「馬鹿志郎さん!」

「ほ、穂摘?」

 暗い土間からのそりと志郎が顔を出す。手には枕と酒瓶を持っていて、そんなこともわかるほど明確に月の明かりが部屋を照らしていた。

 さっき、志郎は酒がないと無理だと言った。そして今、手には酒瓶を持っている。

 もともと志郎は酒を毎日飲むようなたちではなく、せいぜいたまに訪れる村人やあやかしを相手に軽くたしなむ程度だ。深酒をしている姿など見たこともなく、酒と見れば取るものもとりあえずという酒乱でもない。

 それなのに酒がないと挑めないということは――穂摘と抱き合うことは、それほど彼にとって苦痛なのだ。

 とたんにさっきまで期待と未知に高鳴っていた胸がすっと冷え、痛みと苦しさがないまぜになる。涙がぼろっと溢れて、その雫だけが熱かった。

「そっ……そんなにだめですか? 確かに人とは違う体です。でも、酔ってないと抱けないような体ですかっ?」

 志郎ならばと思ったのだ。体の隅々まで丁寧に看護してもらって、彼が触れていない場所などない。穂摘の体の秘密は知っているし、それをわかったうえで手を取ってもらった。

 それなのにこの期に及んでそんな態度はないだろうと怒りと悔しさと、それを遥かに凌駕する悲しさが、夜の静けさをつんざく悲鳴になった。

「お酒がないと、見られない体ですか!」

「違う!」

 ガシャン、と土間でなにかが割れる音がした。ついで、ドタドタと志郎が走り寄ってくる。手には枕しか持っておらず、酒瓶を落として割ったのかもしれなかったが、穂摘にはもうどうでもいいことだった。

「違うんだ、穂摘。俺は」

「やだ、触るなっ」

 伸びてきた手がむき出しの肩を包んだが、それも跳ねのけてしまう。

 本当はこんなはずじゃなかったのに、さっきまでは確かに嬉しさでいっぱいだったはずなのにという思いと、手を払ってしまったと悲しく思う自分もどこかにいる。けれどあふれる涙の熱さで頭がぼうっとしてしまって、穂摘は自分でも過去に覚えがないほどわんわんと泣いた。

 人とは違う体に生まれたことで悩まなかったことはなかったが、こんなにもこの体を疎ましいと思ったのは初めてだ。それなのにこの体は両親が命を懸けて残してくれたもので、志郎が治してくれた体でもある。大切なのに、こんな体でなければと思ってしまうことも嫌だった。

 涙は次々と粒を結んで止まらない。身も世もなく声を上げて泣いていると、目の前に膝をついて黙っていた志郎がおもむろに腕を伸ばし、穂摘はあらがう間もなく抱きしめられた。

「やっ……やだっ……」

 じたばたともがいたところで力の差は歴然だ。ばたばたと動いた手が志郎の胸や肩をたたいたが、分厚く頑丈な体は揺らぎもしない。次第に疲れてきて叩くのをやめると、すまない、と沈んだ声が響いた。

「違うんだ、穂摘。……その……俺は小心者で、勢いがないと一歩が踏み出せない。さっきは祝いの席で飲んだ酒の勢いがあったんだ。でも、覚めたから酒を追加しようと……」

「いっ、勢い、がっ、ないとっ、抱けない体って、こと、ですかっ?」

 ひぃっくと大きくしゃくりあげてしまうと胸どころか喉まで締まるようで、体を震わせると大きな手のひらが宥めるように背中をさすってくれる。そうするとあふれていた悔しさや悲しさや怒りがほろほろと形を崩していき、どこかほっとしてしまって、それが余計に穂摘を混乱させた。

 涙でぼやける視界で志郎をぼうっと見ていると、またさあっと風が吹いて、火照った頬を撫でていった。

「そうじゃない。抱きたくないわけがない。抱きたい。俺は穂摘を抱きたい。体のことなど、気にしたこともない。でもどう踏みきればいいか……穂摘は小さいだろう。俺が手を出したら、体を壊してしまいそうで」

 思わずぽかんと口が開いた。すぐにひっくとしゃくり声が出てしまって、拳で口を隠す。そしてもぞもぞと文句をこぼした。

「……俺が特別小さいわけじゃなくて、志郎さんが大きいんです。それに、そんな簡単に壊れないです」

 言い返したものの、穂摘はじわじわと自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

 抱きたくないわけがないと志郎は言った。穂摘を抱きたいのだと、はっきり言ってくれた。

 本当だろうか。

 そういう思いを、志郎もずっと抱えてくれていたのか。

(……嬉しい)

 重石でもされたように深く沈んでいた胸が、とたんに軽くなる。

「志郎さん」

 穂摘がばっと顔をあげると、まだ雲が月を隠していないのか、ほのかな明かりのなかで驚いた顔と視線があった。

「お酒の力なんて借りないでください。ちゃんとしらふで俺を見て。しらふで……志郎さんに抱いてほしいんです」

 自分は勢いがない小心者なのだと志郎が言うなら、穂摘が動けばいい。酒の力など借りず、穂摘が彼の背を押せばいいのだ。

「……初めてだから、俺も不安です。でも、壊れたりしないから……俺を抱いてくんふっ」

 声が途切れてしまったのは、慌てたように手のひらが穂摘の口をぱくんと覆ってしまったからだ。もちろん穂摘の手ではない。志郎の手だ。

「待ってくれ。あとは、俺に……俺に言わせてほしい」

 穂摘の顔の半分どころか大半を覆ってしまうほど大きな手がはずされて、座ったまま志郎がごそごそと後退した。すでに抱擁は解かれている。布団のうえで座り込んだ半裸の穂摘を前に、志郎は正座をして背筋を正した。

 お武家さんみたいとのんきなことを考える穂摘の前で、志郎は握りしめたこぶしを膝の上に置き、大きく深呼吸してごくりと喉の音を響かせたあと、ひとつ浅く呼吸をして、穂摘、と言った。

「大切に……丁寧にする。今宵、俺に抱かれてくれるか」

 まっすぐなその様子に、穂摘は胸が高鳴るのを感じた。けれど、同時になんだか覚えがある感じがする、とふしぎな感覚にとらわれていた。

(あれ?)

 どこかで経験したような気がする、このやり取りや言葉。

 なんだったかと考えたところで、まるきり同じではないが、志郎が自分に求婚してくれた時と似ていることに気付いた。

 あの時も志郎は言いづらそうに、けれどまっすぐな言葉をくれた。そう思うと嬉しいやらおかしいやらで、思わず口元が緩んでしまう。

 すると、背を伸ばして気張っていた志郎の姿勢がとたんにふらふらと緩んだ。

「穂摘。……こんな俺ではだめだろうか」

 情けない声がどうにも胸をくすぐる。更におかしくなってしまって笑うと、穂摘、と重ねて呼ばれて、ついには手が伸びてきた。そのまま抱きすくめられて膝の上に乗り上げると、穂摘は志郎の首に抱きついた。

「だめじゃないです。抱いてください、志郎さん。俺、ずっと待ってました」

「穂摘……」

 感極まったのか、うわずった声で志郎が呼ぶ。

 まだ月はあがったばかりで、夜は長い。

 大好きなこの声に今夜はあと何度呼んでもらえるだろうと思いながら、穂摘は目を閉じた。



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