第5話

 ホテルから車で数分の、静まり返った住宅街。レンガ造りの、こじんまりとしたコンドミニアム。そこに蘇我は、一人の女と共棲していた。


「紹介するよ、俺の恋人だ」


「こんにちは」


 黒髪が美しく、背の高いスレンダーな美女が、まるで一輪の黒百合のように、頭を下げた。


「……はじめまして」


 ブラーボも、静かに頭を下げた。蘇我という男が、まさか、こんな若い、純粋な魂を持つ女といるとは。それは、彼にとって、ある種の、残酷な意外性であった。


「どうぞ上がってくれ」


「お邪魔します……」


 ブラーボは、玄関で靴を脱ぎ揃え、部屋へと入った。


「何か食べるものを用意してやってくれ。こいつは、長旅で何も口にしていないんだ」 


 蘇我は、女に命じた。


「わかりました。では、何か作りますね」


 女はエプロンを締め、キッチンに立った。


「おい、そんなところに突っ立っていないで、座れよ」


 蘇我に促され、ブラーボは、彼の隣に腰掛けた。


「まずは、一杯やろうじゃないか」


 ビール缶を渡される。プルタブを引くと、解放の音が、夜の闇に響いた。グラスに注ぎ、一口、喉の奥へと流し込んだ。


「東京から来たんだよな? 長い旅路だったろう。この地には来たことがあるか?」


「いえ、はじめてです」


「そうか。じゃあ、名物のうどんも食べたことがないのか?」


「はい。いつか食べてみたいと願っていたんですけど、なかなか機会がなくて」


「美味い店があるんだ。うどんの真の美しさは、釜揚げという名の、無垢な姿にある。茹でたての麺をそのままざるにあける。小麦粉の膜が麺の表面を覆って、ツルっとした、陶器のような食感になる。それが、この世で最も美味い。それをツユにつけて、一気にすする」


「ぜひ、その美しさを味わってみたいですね」


「天ぷらなどの具材は、すべてを壊すノイズでしかない。かえって、その清らかな風味を損なうからな。薬味として、大根おろしがあれば充分だ」 


 やがて、料理が運ばれてきた。


「どうぞ召し上がれ」


 ブラーボが、餓えた獣のように、ただ黙々と食べている姿を見て、蘇我は、彼の魂の飢えを喜ぶかのように、嬉しそうだった。会ってから、冗談を言うときも、感情の欠片もないポーカーフェイスか、眉間のシワを深く刻むことが多かったが、今は、まるで子供のような、無防備な笑顔を見せている。


「こいつは料理が上手なんだ」


 蘇我は、まるで自らの功績であるかのように、パートナーの自慢をした。


「本当に美味しいです!」


 ブラーボは、その感想を、偽りのない、魂の言葉で述べた。


「ありがとうございます。たくさんありますから、遠慮しないで、どんどん食べてくださいね。あたし、そろそろ仕事に行かなくちゃ。ごゆっくりしてね」


 女はそう言って、家を出て行った。


「ここからは、気兼ねなく、仕事という名の、甘美な謀議ができるな」


 蘇我は言った。


「馬原の行動パターンを教えてくれませんか?」


「ああ。奴の趣味は、毎朝の日課であるランニングから始まる。たっぷり時間をかけて、一時間半、走り続ける」


「随分と、健康的な生活ですね」


「奴はまだ若い。生命力が、その肉体から、過剰なまでに溢れ出ている。そして部屋に帰り、朝食を取り、仕事に行く。仕事は夕方に終わり、後は夜の街にて、快楽の淵で遊びに興じ、帰宅する。それが、彼の一日のすべてだ。厄介なことに、常に護衛を、二、三人引き連れている。まあ、君にとっては、殺れないことはないだろうが、その命を奪うのに、無駄な時間がかかってしまう。そこでだ、奴が、唯一一人になる瞬間が、ジョギングの時なんだ。護衛も併走できないくらい速く走るので、誰もついてこられない。途中でコンビニに寄り、ミネラルウォーターを買い、隣の公園で軽く柔軟体操をする。そして、園内の公衆トイレで用を足す。その時こそ、彼の生という名の、蝋燭の火を消す、最も完璧なタイミングだと考えている」

 

 ――なんて、完璧なまでの、死の「下調べ」だろうか。それは、まるで芸術家が、傑作を創造するかのような、執念に満ちた調べだった。


「なんせ、一週間みっちりと見張ったからな。おかげで、早起きの習慣が身についたよ。とりあえず、成功の美酒を祈り、ワインでも開けよう。あれ? ワインオープナーがないな。テーブルに置いたはずだが……。ちっ、仕方ない」


 蘇我は立ち上がり、コンロの火をつけ、コルクの根元を、焼き尽くすように炙った。膨張したコルクは、ポンと、小さな勝利の音を立てて飛び出した。生活の知恵という、儚い爆発だった。


「で、いつ殺る?」


「今晩、夜明けを迎えたら殺りますよ」


「早いな。明日以降にしようと思っていたんだが、まあいい、君の美学に任せよう。で、俺はどうしたらいい? 手伝おうか? それとも足手まといか? 不要な存在か?」


「一緒に来てください」


「わかった」


 グラスを手に取り、カチンと、乾杯の音を鳴らした。


 それは、彼らの間に結ばれた、共犯関係という名の、優雅な死の契約を意味していた。

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