第2話
「いらっしゃいませ」
落ち着いた低い声が空気に優しく溶けた。
「ようこそ、〈印〉へ。ここは、全ての宇宙の隅であり、中心。自分の行き先が分からなくなってしまった方の道しるべとなるのが、この場所の役割なのです」
「え…?あの、ここは何のお店なんですか…?」
「まあ、兎に角お掛けなさい」
「はあ…」
真帆路たちがカウンターに腰かけると、男はホットチョコレートを二つ置いた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
「あの…ここは、普通のお店ではないんですか?」
男は、手を止めて真帆路を見た。
「まさか。普通の方ではこの店にはたどり着けませんよ」
「え…それじゃ…?」
「先程もお伝えしましたが、この店は、行く先が見えなくなってしまった方の道しるべになる場所。…単刀直入に言ってしまえば、今のあなたたちは自分の居場所が分かっていない、ということです」
「居場所…」
「はい。あなたたちが行くべき場所は、ご自分達の力では行けない場所でしょう」
「じゃあ、あなたの名前は…?」
「…名などとっくに忘れてしまいました。お客様からは〈店長〉と呼ばれますが」
ミヤコワスレの色をした瞳。
薄い色が故にはっきりと自分の顔が映し出される瞳に、ずっと深いところまで見すかされていそうで、真帆路は背筋が冷えた。
「そう身構えずとも。行くべき場所へのお手伝いをするだけなのですから」
「すぐに行けるんですか?」
「はい。…まあ、時には遠回りをする事も大切だと思いますけどね」
チリリン、リリン。
扉が開いて、誰かが入ってきた。
「ふう、やっぱりちょっと疲れるわね」
そう言いながら近づいてきた女の人は、真帆路の隣に座った。
「ほら店長、見て。綺麗な花でしょ。あの子がまた供えてくれたの」
「それは良かったですね、弓香さん」
「そう。あの子、本当にいい子なの。…そろそろ親離れしてほしいけど」
少し寂しそうに笑った後、真帆路のほうを向いた。
「あら、ごめんなさいね。小さなお客様がいらっしゃっていたのね」
「ち、小さな?」
歳は真帆路たちとあまり変わらないように見える。
「え?お姉さん、何歳?ですか?」
驚いたように昂浠が訊いた。
「やだ、お姉さんだなんて。私、もう400歳くらいになるのよ」
「ええっ⁉」
「私、娘が生まれてすぐ死んじゃったのよ。あの子の子孫を見ながらここにいるんだけどね」
弓香は、店長が持ってきたコーヒーを手に取った。
カランコエの優しい香りがコーヒーの匂いと混ざって店の中に漂っている。
「え?ここにいるのに…?」
「あら、店長から聞いていないの?ここは『全ての』場所を重ねてくれる所なのよ」
〔お前は今、死と生の境目にいるんだ〕
そんな風に言われた気がして、真帆路は何だか落ち着かない心地になった。
「でも、店長は日本語をしゃべってますよ?」
「ああ、この場所に居る者の特権ですよ。全ての言語が話せるんです。弓香さんはあなたたちと同じ日本人ですがね」
「やだ店長、それじゃ某マンガのアイテムみたいじゃない」
「俺、マンガ大好き!…あ、ですよ!」
三つのカップが空になると、店長は三人を奥の部屋へと促した。
沢山の扉が並んでいる廊下をしばらく歩いて、店長は一つの扉の前で立ち止まった。
店長はジャラジャラと音が鳴るほどの重たそうな鍵束を取り出し、そのうちの一つの鍵を鍵穴に差し込んだ。
その部屋には、いくつかの円の中に紋様が描かれたようなものが六つ並んでいた。
店長はそのうちの一つを指して言った。
「こちらの陣にお入りいただければ、あなたたちの一つ目の目的地に行くことができます。弓香さんは…どうなさいますか?」
「あら、野暮なこと訊くのね。もちろん行くわよ」
「え、本当に⁉やった!」
好きなマンガで弓香とすっかり意気投合していた昂浠は、今にも飛び上がりそうなくらい喜んだ。
「子供だけを知らない場所に放り込むなんてできないもの」
「…相変わらずのお節介ですね」
「ふふ。そうかもしれないわ」
苦笑いする店長を尻目に、弓香は真帆路たちの背中を押した。
「さあ、行きましょう。もうぼーっとしてる暇はないわよ!」
「え、わっ⁉ちょ、ぶつかる…」
真帆路が壁に手をついた瞬間、紋様が光って三人は壁に吸い込まれていった。
一人になった店長は、息を吐いて呟いた。
「…さて、あの子たちはどうするのか。楽しみですね」
「きて、起きて。着いたわよ。起きて!」
「うう…」
真帆路がゆっくりと目を開けると、弓香がのぞき込んでいた。
「!びっくりした…弓香さん…」
「ええ。ほら、ここが一つ目の目的地よ」
「!」
そこはどこまでも広がる果てしない草原…ではなく、住宅街に囲まれた、小さな公園だった。
「え?ここ…」
「まずは地球みたいね」
目を覚ました昂浠は、首を傾げた。
「ここ、うちの近くの公園だ」
「え?あなたたち、この辺りに住んでるの?」
「いえ…僕は知らないです…」
ガラッ。
音がした方を見ると、真帆路と同じくらいの歳だろうか、イヤホンを付けた女の子が窓を開けて空を仰いでいた。
そして、真帆路たちに気づくと、昂浠と目が合った瞬間、弾かれたように窓の奥に引っ込んでいった。
すぐにその家の玄関が開いて、女の子が飛び出してきた。
公園に向かって走ってくると、真帆路たちの前で立ち止まった。
相当慌てたのか、息が荒い。
「こ、昂浠くん…?」
昂浠は困ったように首を傾げた。
「そうだけど…君、誰?」
それを聞いた時、ほんの一瞬、女の子は泣き出しそうな顔をした。が、すぐに真顔になって下を向いた。
「…ううん、覚えてないならいいんだ。じゃあね」
くるりと後ろを向いてまた駆け出そうとした少女に、弓香が慌てて話しかけた。
「待って!私達この辺のこと、何も知らないの。良ければ教えてくれない?」
「そうだよ。俺だって、君の事ちゃんと思い出したい!」
少女は少し俯いて、呟くように言った。
「…分かった。準備してくるから、ちょっと待ってて」
そして、少女はリュックを背負って出てきた。
「図書館に案内するよ」
歩きながら、弓香は少女に話しかけた。
「ねえ、あなたのお名前は?」
「五百旗頭マヤ…です」
「マヤちゃん。素敵な名前ね」
「ありがとうございます、あの、あなたは…?」
「私は弓香よ。弓矢の弓に、香るって書いて、弓香」
「えっ」
マヤは、ちょっと驚いたように弓香を見上げた。
「…お姉ちゃんと同じ」
「ん?」
「いえ、何でもないんです。あ、着きましたよ。ここです」
大きな図書館だった。
「ここ、ちょっと珍しい図書館で、一種類の本で2,3冊あるんです。お金を払えば借りられる個室もあって、そこにも沢山本があります。部屋ごとに置いてある本のジャンルが違うんですよ。私はファンタジーの部屋を借りてるけど」
マヤの話を聞きながら、4人はエレベーターに乗ってマヤの借りている部屋へ向かった。
「ここです」
マヤは鍵を取り出して、部屋の中に入った。
中は意外と広く、背の高い本棚がずらりと並んでいた。奥には窓に面した机があって、2,3人で座れるようだった。
「ここ、マンガ無いんだよね?俺、真帆路くんと下にいる」
「ええ、僕も?」
引きずられるように真帆路が連れていかれると、弓香とマヤは椅子に座った。
「ねえ、マヤちゃん。あなた、昂浠くんと知り合いなんでしょう?詳しく聞きたいわ」
「…昂浠くんとは、同じバスケットボールクラブに入ってたんです。…もうやめちゃったけど。それで、その…私、昂浠くんが好きだったんです。今もずっと、好きなんです。…おかしいですよね。今日初めて会ったのに、弓香さんには何でもしゃべりたくなっちゃう」
「ふふ。私は長女だからかしら。…私、そんな甘酸っぱい話、大好きなの。もっと聞かせてちょうだい」
嬉しそうに笑う弓香に、マヤはぽつぽつと話し始めた。
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