第6話 見えない刃、崩される信頼
夜襲事件から数日が経った。
蜀軍の陣営は、表面上は平静を保っていた。しかし、水面下では、鍾会が仕掛けた情報戦が静かに、しかし確実に広がりつつあった。
それは、町の飲み屋の片隅から始まった。
酒を酌み交わす兵士たちが、ひそひそと囁き合う。
「聞いたか? 姜将軍が連れているあの白髪の娘っ子、魏の使者と通じているそうだ」
「馬具も、あれは魏から流れてきた技術だとさ。だからあんなに強いんだ」
噂は、事実と尾ひれが混ざり合った、まるで怪談めいたものだった。
飲み屋の片隅で生まれた噂は、一刻も経たぬうちに城門の警備兵の耳に入り、さらに市場へと広まっていく。魚を捌く商人が、客に半ば冗談めかして言っていた。
「あの白髪娘は、井戸の水を一晩で清めちまったそうじゃねえか。魂を吸うんだってさ」
やがて井戸端会議の女たちの口から、噂は形を変え、三刻後には駐屯地へと届く。夜勤の兵士たちが、不満を口にしていた。
「噂の馬具とやらで兵糧が減り、ろくなものが食えん。このままでは冬を越せぬぞ」
噂は、面白半分だったものが、やがて無知ゆえの恐れとなり、ついには兵士たちの具体的な不満へと姿を変えていた。
俺は何も聞こえなかったふりをして通り過ぎた。だが、噂を口にする兵士の唇は、笑っているようで笑っていない。目だけが獲物を測る獣のように鋭く、俺の動きを追っていた。
軽く笑って否定すれば、兵士たちはすぐに口を閉ざす。だが、内心では、そのささやきが氷の刃のように胸に突き刺さっていた。
魏は、俺たちとの正面からの戦いを避け、諜報戦を仕掛けてきたのだ。
軍議の席に着くと、重鎮たちの視線が、まるで俺を品定めするかのように突き刺さる。
部屋の空気は、重く、淀んでいた。紙が擦れる音、茶をすする音、そのすべてが耳につく。
「姜将軍、兵站ルートの見直しについて、一言お伺いしてもよろしいか?」
老将が、わざとらしくそう口火を切った。その声には、噂を暗に信じているような響きがあった。
その声に、装備管理官が続いた。
「姜将軍。あなたの馬具は美しい。しかし、兵士は兵糧の方が美味いと言う。噂の馬具の鋳型に使った鉄は、誰が負担するのか? その予算があれば、冬の兵糧をもう三割は増やせる。このままでは、兵士たちが飢えてしまうぞ」
利権と面子をかけた、具体的な反論だった。
俺は、論理的に反論しようと口を開いた。
「この馬具があれば、魏軍を圧倒し、逆に物資を奪うことができます」
その言葉を聞いた老将は、不敵な笑みを浮かべ、俺を遮る。
「姜維よ、言は巧なり、然れど道は危うし」
その一言で、俺の言葉は潰された。
俺をかばおうと口を開きかけた若い将校がいた。だが、老将の鋭い視線に、その言葉は喉の奥に沈黙した。
軍議の空気は、俺への不信で満ちていた。
その夜。
アカリは自分の部屋で、夜空を見上げていた。
スマホを懐から取り出し、メッセージアプリを開く。
再び、鍾会からのメッセージが届いていた。
表示は「電波なし」。
それなのに、メッセージは瞬時に届く。部屋の蝋燭の火が微かに揺れ、空気が一瞬、凍てつくように冷たくなった。
スマホの画面の縁が、古鏡のように歪んで見える。
メッセージ内容:次の北伐、兵糧輸送は北東の山道が安全。魏は手薄だ。お前たちだけが、この国を救える。
アカリは、スマホの地図アプリで北東の山道を確認する。確かに、魏の警備が薄いように見える。
アカリは、一瞬の迷いの後、俺の部屋へと向かってきた。
「ハルト兄ちゃん! 見て! これを使えば、兵糧輸送は成功する!」
興奮気味にスマホの画面を見せるアカリに、俺は違和感を覚えた。
あまりに都合が良すぎる。
俺とアカリの間で、意見が割れた。
アカリは、「未来の道具」を信じたい。
――だって、あのときもそうだった。
アスファルトの焦げた匂いと、金属が擦れる耳障りな音が蘇る。俺の掌には、あの日アカリを突き飛ばしたときの骨ばった肩の感触が、いまだ残っていた。
アカリは、スマホのGPSが作動し、病院に導いてくれたのだと信じていた。
同じ出来事、しかし、俺とアカリの解釈は違っていた。
アカリの「GPSが導いた」という信頼と、俺の「お前を押した俺の判断だ」という自負。それが、俺たちの間に小さなズレを生んでいた。
アカリはスマホを信じたい。俺は、姜維の経験からその罠を見抜こうとする。
しかし、アカリの熱意に押され、俺は北東の山道への輸送ルート変更を、重鎮たちに提案した。
その結果、軍議では俺への不信がさらに増幅した。
そして、罠は発動した。
山道に輸送ルートを変更した直後、魏の伏兵が出現。
山道の冷たい霧が、兵士たちの肌にまとわりつく。馬の白い息が、闇の中に溶けていく。足元のぬかるみが、ひんやりと冷たい。
その静寂を破り、降り注ぐ矢の雨。
弓弦を引く甲高い音。鎧に矢が当たる金属音。負傷兵の呻き声。馬の嘶き。
最後の矢羽が光を弾き、霧の中で軌跡を描いた瞬間、すべての音が消えた。
輸送部隊は壊滅的な打撃を受けた。
俺は、馬を走らせ、現場へと向かう。霧の中に、血の匂いが漂っていた。
被害の報告が蜀本陣に届くと、軍議では「内通者は姜維だ」という声が露骨に上がり、誰も俺の言葉に耳を貸さなくなった。
その日の報告書には、魏の伝令が落としたらしい小さな印章の欠片が添えられていた。その裏には、山道の土壌とは明らかに違う、赤い土がついていた。
本陣に戻った俺たちを待っていたのは、冷たい視線だった。
夜。
人気のない廊下で、ハルトとアカリが短く言葉を交わす。
周囲の兵士たちは、遠巻きに俺たちを見つめていた。その視線は、もはや同盟者ではなく、監視者の目へと変わっていた。
「アカリ、お前を信じない奴らが増えた。……だが、俺は信じる」
俺がそう告げたとき、アカリは自分の手のひらに汗がにじんでいることに気づいた。
緊張と恐怖で、呼吸が浅くなる。
「兄ちゃん……」
アカリは、俺の言葉に力強く頷いた。
そのとき、アカリの白髪が一本、不自然に輝き、俺が触れると、ひんやりと冷たかった。翌朝になっても、その毛先だけが不自然なほど冷たいままだった。
「違う、ハルト兄ちゃん。今度は、私が守る番だ」
互いに言葉では言わないが、「信じるべきは互いだけ」という共通認識が芽生えた。
その頃、魏の陣営。
鍾会は、机上にある地図に、小さな駒を置いた。
「情報は人の心に住み着く病だ。未来を知る者よ、その道具は、お前の最大の弱点となる」
鍾会は、満足そうに微笑んだ。
彼の目の前には、アカリと同じ型のスマホが置かれていた。その画面には、地図ではない、波形やノード名が羅列されたUIが浮かび上がっていた。
画面には「同期中…」と表示され、脈動する赤い点が光っていた。
その赤い点が脈打つたび、かすかな電子音が、魏の天幕だけに機械的な異質さを漂わせる。
「node13…反応よし。さて、次はnode12、node14だ。楽しみだな、姜維」
鍾会の背後に、同じようにスマホを操作する副官が控えていた。
次話、「未来対未来」の戦いが始まろうとしていた。
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