夏を記す瞳に君のかけら
大西さん
第0話 オリジナルショートストーリー版
2130年、東京。
空は、もうなかった。
灰色の電子ドームが街を覆い、人工の光が規則正しく明滅している。私――カナミは、転送室で最終確認を受けていた。
「任務内容の復唱を」
「1980年8月、消失予定地域の風景データ収集。感情介入レベルは0を維持」
「カナミ、君は『影』だ。そこに存在しても、痕跡を残してはならない」
私の瞳に光のスキャナーが埋め込まれた日から3年。感情は記録の敵。それが鉄則だった。
転送装置が起動する。眩しい光に包まれながら、私は思った。
――「空」って、どんな色だったんだろう。
*
気がつくと、私は青に包まれていた。
「あ……」
これが、空。
データで見たことは何度もある。でも、この青の深さは、頬を撫でる風は――記録されていなかった。草いきれと土の匂いが鼻をくすぐる。遠くから聞こえる風鈴の音。アスファルトから立ち上る陽炎が、景色を揺らしている。
私は震える手を持ち上げ、親指と人差し指で四角いフレームを作った。光のスキャンが起動し、景色がデータ化されていく。木造の校舎、錆びた鉄棒、揺れる朝顔。
「何してるの?」
振り向くと、少年が立っていた。学ラン姿。まっすぐにこちらを見つめる瞳。
「写真? でもカメラ持ってないよね」
「……記録です」
少年は首を傾げて、それから笑った。
「へんなの」
その笑顔を見た瞬間、私の指先が震えた。スキャンエラー。初めての現象だった。
「俺、ヒナタ。陽太」
「カナミです」
「カナミちゃんか。この町初めてでしょ? 案内してあげる」
断るべきだった。でも、青い空の下で微笑む彼を前に、私は頷いていた。
*
「これ、飲んでみて」
駄菓子屋の前。ヒナタが差し出したのは、ラムネという飲み物だった。
彼は瓶を器用に開けると、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。夏の陽射しを浴びて、汗が一筋、首筋を伝っていく。生命力に満ちたその姿に、私の鼓動が早くなった。
2130年の人間は、こんなふうに輝かない。管理され、効率化された動きしかしない。でもヒナタは――太陽みたいに、眩しかった。
「ビー玉が入ってるんだ。でも、これは取り出せないんだよ」
「なぜ取り出せないものを?」
「さあ? でも、カランカラン鳴って、夏っぽいでしょ」
口に含んだ瞬間、舌がピリピリした。炭酸の泡が口の中で弾ける。甘さとほろ苦さ、そして鼻に抜ける清涼感。
「冷たい……!」
「当たり前じゃん」
ヒナタが笑う。その笑顔があまりにも生き生きとしていて、私のスキャンシステムが一瞬フリーズした。私も、なぜか笑ってしまう。
翌日は川へ行った。
ヒナタは躊躇なく靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって川に入った。水しぶきを上げながら石を探す姿が、あまりにも自由で――
「カナミちゃん、こっち来なよ!」
恐る恐る素足を水に浸けると、想像以上の冷たさが全身を駆け上った。川底の石がつるつると滑り、小魚が足の間をすり抜けていく。太陽の光を反射する水面。
「水切り、できる?」
私の石は沈むばかり。
「こうやって、手首のスナップを効かせて……」
ヒナタが後ろから手を添える。土と太陽の匂いがする彼の体温が伝わってきて、スキャンシステムが混乱する。
「やった! 3回跳んだ!」
「すごいじゃん」
褒められて、胸の奥が熱くなる。彼の瞳が、まっすぐに私を見ていた。こんなにも誰かに「見られる」ことが、こんなにもドキドキするなんて。
*
夕方、神社の階段を上った。蝉の声が響いている。ミンミンゼミとアブラゼミの大合唱。その向こうに、かすかに聞こえる風の音。
ヒナタは二段飛ばしで軽やかに駆け上がっていく。途中で振り返って「遅いよー!」と笑う。その姿が逆光の中でシルエットになって、私は息を呑んだ。
美しい、と思った。データでは表現できない、生命そのものの輝き。
「カナミちゃんって、本当に通りすがり?」
息を切らせながら追いついた私に、彼が尋ねた。額に汗が光っている。
「……遠くから来ました」
「どのくらい遠く?」
「とても」
ヒナタは追及しなかった。代わりに境内の大木を指差した。
「あの木、樹齢300年。触ってみて」
幹に手を当てる。ざらざらした樹皮。コケの湿った感触。そして、手のひらに伝わるかすかな振動――生きている証。生きている木に触れるのは初めてだった。
*
「かき氷、食べたことある?」
夏祭りの夜。提灯の明かりが揺れ、焼きそばとたこ焼きの匂いが漂う。浴衣姿の人々が行き交い、下駄の音がカランコロンと響く。
「はい、あーん」
言われるまま口を開けると、冷たい何かが舌で溶けた。イチゴの甘さが広がり、そして――
「つっ……!」
頭の奥がキンと痛んだ。
「あはは、ゆっくり食べないと」
「これが……頭痛……」
「大丈夫?」
心配そうに覗き込むヒナタの顔。提灯の橙色の光が、彼の横顔を優しく照らしている。
私たちは手をつないで歩いた。いつからつないでいたのか覚えていない。彼の手は37.2度なんて数値では表せない何かを伝えてきた。
「花火、もうすぐだよ」
河原に座って空を見上げる。最初の大輪が夜空に咲いた瞬間、私は息を呑んだ。
ドーンという音が腹の底まで響く。火薬の匂いが風に乗ってくる。光の粒子が夜空から降り注ぎ、川面に反射して、世界中が光に包まれる。
「カナミちゃん、泣いてる」
頬に手を当てると、確かに濡れていた。涙の塩辛さが唇に触れる。
「これが、涙……」
「へんなの。でも、そんなカナミちゃんが好きだよ」
花火の音で、聞こえなかったふりをした。でも胸の奥で何かが弾けた音は、花火よりも大きく響いていた。
その夜から、私のスキャン機能に異常が現れ始めた。ヒナタを記録しようとすると、必ずエラーが出る。
*
「あと2日」
廃校になった分校の音楽室。埃っぽい空気の中、ヒナタが窓の外を見ながら呟いた。
「夏休みが終わったら、帰っちゃうんでしょ」
ヒナタがハーモニカを取り出した。金属の冷たい感触を確かめるように、唇に当てる。
「君の故郷には、音楽はある?」
「データとしては」
「データとしては、か」
ヒナタは寂しそうに笑って、ハーモニカを吹き始めた。震える音色が、埃の舞う空気を優しく揺らす。
翌日、本部から最終通達が来た。
『任務完了まで24時間』
「ヒナタ君……私、明日には帰らなきゃいけないんです」
「……知ってた。君は、ここにいる人じゃないって」
ヒナタは優しく微笑んだ。
「でも、今はここにいるでしょ?」
*
夕暮れの屋上。オレンジとピンクのグラデーションが空を染めている。風が髪を揺らし、遠くで鳴く鴉の声が響く。
「ねえ、最後に記録させて」
私は彼に向けて指でフレームを作った。でも、手が震えて――
「カナミちゃん」
ヒナタが私の震える手をそっと支えた。彼の手の温もりが、震えを止めていく。
「今度は、ちゃんと撮れるよ」
不思議だった。彼に触れられていると、震えが止まる。
私は改めて、両手の指で四角いフレームを作った。その中に、夕陽に照らされたヒナタを収める。
光のスキャンが起動する。でも――
『エラー。対象を記録できません』
「やっぱり……君を記録できない」
「いいよ」
「よくない!」
「カナミちゃん。記録と記憶は違うでしょ?」
ヒナタは私のフレームの中で、優しく微笑んだ。夕陽が彼の瞳を黄金色に染めている。
「俺のこと、君が覚えててくれたら、それで充分だよ」
涙が溢れて、私は彼に抱きついた。学ランの硬い生地の感触。彼の鼓動が伝わってくる。
「ずっと覚えてる」
「うん」
「ヒナタ君……好き」
「俺も好きだよ、カナミ」
夕陽が、二人の影を一つに重ねていた。
私は、もう一度だけ指でフレームを作った。今度は記録のためじゃない。この瞬間を、心に焼き付けるために。
*
2130年、東京。
報告書の提出を求められた。データフォルダには風景だけ。
「人物データが一件もありませんが?」
「記録する必要がないと判断しました」
「どういうことです」
私は胸に手を当てた。
「大切なものは、ここにあります」
処分は地上勤務への配置転換だった。
電子ドームの管理施設。時々、隙間から本物の空が見える場所。
今日も、わずかな隙間から青が覗いている。そこから流れ込む風が、どこか夏の匂いを運んでくる。
私は静かに指を持ち上げ、フレームを作った。あの日と同じように。
「君が見ていた空は、今もここにある」
記録には残らなくても、私の中で、あの夏は永遠に輝いている。
ラムネの炭酸の刺激も、川の冷たさも、かき氷の頭痛も、花火の振動も、そして――君の手の温もりも。
データじゃない、かけがえのない記憶として。
私の瞳に映る青は、今日もあの夏の色をしている。
君と見た、1980年の夏の空の色を。
―― fin ――
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