夏を記す瞳に君のかけら

大西さん

第0話 オリジナルショートストーリー版

2130年、東京。


空は、もうなかった。


灰色の電子ドームが街を覆い、人工の光が規則正しく明滅している。私――カナミは、転送室で最終確認を受けていた。


「任務内容の復唱を」


「1980年8月、消失予定地域の風景データ収集。感情介入レベルは0を維持」


「カナミ、君は『影』だ。そこに存在しても、痕跡を残してはならない」


私の瞳に光のスキャナーが埋め込まれた日から3年。感情は記録の敵。それが鉄則だった。


転送装置が起動する。眩しい光に包まれながら、私は思った。


――「空」って、どんな色だったんだろう。



気がつくと、私は青に包まれていた。


「あ……」


これが、空。


データで見たことは何度もある。でも、この青の深さは、頬を撫でる風は――記録されていなかった。草いきれと土の匂いが鼻をくすぐる。遠くから聞こえる風鈴の音。アスファルトから立ち上る陽炎が、景色を揺らしている。


私は震える手を持ち上げ、親指と人差し指で四角いフレームを作った。光のスキャンが起動し、景色がデータ化されていく。木造の校舎、錆びた鉄棒、揺れる朝顔。


「何してるの?」


振り向くと、少年が立っていた。学ラン姿。まっすぐにこちらを見つめる瞳。


「写真? でもカメラ持ってないよね」


「……記録です」


少年は首を傾げて、それから笑った。


「へんなの」


その笑顔を見た瞬間、私の指先が震えた。スキャンエラー。初めての現象だった。


「俺、ヒナタ。陽太」


「カナミです」


「カナミちゃんか。この町初めてでしょ? 案内してあげる」


断るべきだった。でも、青い空の下で微笑む彼を前に、私は頷いていた。



「これ、飲んでみて」


駄菓子屋の前。ヒナタが差し出したのは、ラムネという飲み物だった。


彼は瓶を器用に開けると、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。夏の陽射しを浴びて、汗が一筋、首筋を伝っていく。生命力に満ちたその姿に、私の鼓動が早くなった。


2130年の人間は、こんなふうに輝かない。管理され、効率化された動きしかしない。でもヒナタは――太陽みたいに、眩しかった。


「ビー玉が入ってるんだ。でも、これは取り出せないんだよ」


「なぜ取り出せないものを?」


「さあ? でも、カランカラン鳴って、夏っぽいでしょ」


口に含んだ瞬間、舌がピリピリした。炭酸の泡が口の中で弾ける。甘さとほろ苦さ、そして鼻に抜ける清涼感。


「冷たい……!」


「当たり前じゃん」


ヒナタが笑う。その笑顔があまりにも生き生きとしていて、私のスキャンシステムが一瞬フリーズした。私も、なぜか笑ってしまう。


翌日は川へ行った。


ヒナタは躊躇なく靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって川に入った。水しぶきを上げながら石を探す姿が、あまりにも自由で――


「カナミちゃん、こっち来なよ!」


恐る恐る素足を水に浸けると、想像以上の冷たさが全身を駆け上った。川底の石がつるつると滑り、小魚が足の間をすり抜けていく。太陽の光を反射する水面。


「水切り、できる?」


私の石は沈むばかり。


「こうやって、手首のスナップを効かせて……」


ヒナタが後ろから手を添える。土と太陽の匂いがする彼の体温が伝わってきて、スキャンシステムが混乱する。


「やった! 3回跳んだ!」


「すごいじゃん」


褒められて、胸の奥が熱くなる。彼の瞳が、まっすぐに私を見ていた。こんなにも誰かに「見られる」ことが、こんなにもドキドキするなんて。



夕方、神社の階段を上った。蝉の声が響いている。ミンミンゼミとアブラゼミの大合唱。その向こうに、かすかに聞こえる風の音。


ヒナタは二段飛ばしで軽やかに駆け上がっていく。途中で振り返って「遅いよー!」と笑う。その姿が逆光の中でシルエットになって、私は息を呑んだ。


美しい、と思った。データでは表現できない、生命そのものの輝き。


「カナミちゃんって、本当に通りすがり?」


息を切らせながら追いついた私に、彼が尋ねた。額に汗が光っている。


「……遠くから来ました」


「どのくらい遠く?」


「とても」


ヒナタは追及しなかった。代わりに境内の大木を指差した。


「あの木、樹齢300年。触ってみて」


幹に手を当てる。ざらざらした樹皮。コケの湿った感触。そして、手のひらに伝わるかすかな振動――生きている証。生きている木に触れるのは初めてだった。



「かき氷、食べたことある?」


夏祭りの夜。提灯の明かりが揺れ、焼きそばとたこ焼きの匂いが漂う。浴衣姿の人々が行き交い、下駄の音がカランコロンと響く。


「はい、あーん」


言われるまま口を開けると、冷たい何かが舌で溶けた。イチゴの甘さが広がり、そして――


「つっ……!」


頭の奥がキンと痛んだ。


「あはは、ゆっくり食べないと」


「これが……頭痛……」


「大丈夫?」


心配そうに覗き込むヒナタの顔。提灯の橙色の光が、彼の横顔を優しく照らしている。


私たちは手をつないで歩いた。いつからつないでいたのか覚えていない。彼の手は37.2度なんて数値では表せない何かを伝えてきた。


「花火、もうすぐだよ」


河原に座って空を見上げる。最初の大輪が夜空に咲いた瞬間、私は息を呑んだ。


ドーンという音が腹の底まで響く。火薬の匂いが風に乗ってくる。光の粒子が夜空から降り注ぎ、川面に反射して、世界中が光に包まれる。


「カナミちゃん、泣いてる」


頬に手を当てると、確かに濡れていた。涙の塩辛さが唇に触れる。


「これが、涙……」


「へんなの。でも、そんなカナミちゃんが好きだよ」


花火の音で、聞こえなかったふりをした。でも胸の奥で何かが弾けた音は、花火よりも大きく響いていた。


その夜から、私のスキャン機能に異常が現れ始めた。ヒナタを記録しようとすると、必ずエラーが出る。



「あと2日」


廃校になった分校の音楽室。埃っぽい空気の中、ヒナタが窓の外を見ながら呟いた。


「夏休みが終わったら、帰っちゃうんでしょ」


ヒナタがハーモニカを取り出した。金属の冷たい感触を確かめるように、唇に当てる。


「君の故郷には、音楽はある?」


「データとしては」


「データとしては、か」


ヒナタは寂しそうに笑って、ハーモニカを吹き始めた。震える音色が、埃の舞う空気を優しく揺らす。


翌日、本部から最終通達が来た。


『任務完了まで24時間』


「ヒナタ君……私、明日には帰らなきゃいけないんです」


「……知ってた。君は、ここにいる人じゃないって」


ヒナタは優しく微笑んだ。


「でも、今はここにいるでしょ?」



夕暮れの屋上。オレンジとピンクのグラデーションが空を染めている。風が髪を揺らし、遠くで鳴く鴉の声が響く。


「ねえ、最後に記録させて」


私は彼に向けて指でフレームを作った。でも、手が震えて――


「カナミちゃん」


ヒナタが私の震える手をそっと支えた。彼の手の温もりが、震えを止めていく。


「今度は、ちゃんと撮れるよ」


不思議だった。彼に触れられていると、震えが止まる。


私は改めて、両手の指で四角いフレームを作った。その中に、夕陽に照らされたヒナタを収める。


光のスキャンが起動する。でも――


『エラー。対象を記録できません』


「やっぱり……君を記録できない」


「いいよ」


「よくない!」


「カナミちゃん。記録と記憶は違うでしょ?」


ヒナタは私のフレームの中で、優しく微笑んだ。夕陽が彼の瞳を黄金色に染めている。


「俺のこと、君が覚えててくれたら、それで充分だよ」


涙が溢れて、私は彼に抱きついた。学ランの硬い生地の感触。彼の鼓動が伝わってくる。


「ずっと覚えてる」


「うん」


「ヒナタ君……好き」


「俺も好きだよ、カナミ」


夕陽が、二人の影を一つに重ねていた。


私は、もう一度だけ指でフレームを作った。今度は記録のためじゃない。この瞬間を、心に焼き付けるために。



2130年、東京。


報告書の提出を求められた。データフォルダには風景だけ。


「人物データが一件もありませんが?」


「記録する必要がないと判断しました」


「どういうことです」


私は胸に手を当てた。


「大切なものは、ここにあります」


処分は地上勤務への配置転換だった。


電子ドームの管理施設。時々、隙間から本物の空が見える場所。


今日も、わずかな隙間から青が覗いている。そこから流れ込む風が、どこか夏の匂いを運んでくる。


私は静かに指を持ち上げ、フレームを作った。あの日と同じように。


「君が見ていた空は、今もここにある」


記録には残らなくても、私の中で、あの夏は永遠に輝いている。


ラムネの炭酸の刺激も、川の冷たさも、かき氷の頭痛も、花火の振動も、そして――君の手の温もりも。


データじゃない、かけがえのない記憶として。


私の瞳に映る青は、今日もあの夏の色をしている。


君と見た、1980年の夏の空の色を。


―― fin ――

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