裂かれた道
Kye Zaiomaru
第1話 伝信
利心山の頂には、こんな伝説が残っている。名もなき人々の一団が、十二日間にわたる巡礼の歩みの途中、この山を登っていた。旅の八日目、携帯していたラジオが突如として雑音に覆われ、音を失った。九日目、その雑音の奥に、かすかな声が紛れていることに気づいた。
彼らはより強い信号を求めて、場所を変えながら耳を澄ました。やがて、山の頂こそが最も明瞭にその声を捉える場所であることが分かり、そこへと導かれた。
伝わってきたのは、未知の言語で語られた、ループ再生の録音のようだった。声の主が男か女かも判別できなかった。ただそれだけで、彼らは心を奪われた。
その声を記録し、いずれ解読できる日まで残すこと。それが彼らの使命となった。幸いにも一人が、巡礼の記録用に持参していた録音機器を所持していたため、ラジオのすぐそばに置き、できる限りの音声を収めようとした。
その後、ラジオの電池が先に切れたのか、それとも録音機のほうだったのか、あるいは録音がどこまで成功したのかは、今となっては分からない。彼らはこの出来事を誰にも話さず、まず自分たちの町へ帰り、録音を調べ、解読を試みることに決めた。
巡礼の最中に受信したという事実からも、彼らは「自分たちがこのメッセージを見つけた」のではなく、「メッセージのほうが自分たちを見つけた」のだと信じていた。その思いが、記録し、解読を試みる責任感へと変わった、それが世界に向けられたものであれ、自分たちだけに向けられたものであれ。
町に戻った彼らは、録音の解析を始め、まずは言語の特定を試みた。知る限りの言語や方言と照らし合わせても、一致するものは見つからなかった。
この出来事が、まだコンピューターが一般に普及する前に起こったとされている。そして長い試行錯誤の末、彼らはその解読を断念し、録音はそのまま眠ることになった。
その後、彼らがどうなったのかは分かっていない。ただ、こう言い伝えられている彼らはその後も人生を歩んだが、心の奥にはある種の重みを抱えていたのだと。それは「何か非常に大切なものを受け取ったのに、それを理解できなかった者の重み」である。
それは「目的の欠如」ではなく、「遥かなるものに触れながら、それを最後まで果たせなかった」という未完の感覚だったという。
それから幾十年の時が流れた。
その町に、一人の女性が一軒の家を購入し、生涯をそこで過ごすこととなった。彼女は一匹の猫と暮らしていた。その猫は、白と黒の毛並みを持ち、庭で鳥を追いかけるのが好きだった、まるで遊びのように、楽しげに。
だがある日、いつものように鳥を追いかける代わりに、猫は一匹の狐と出会った。その瞬間、二匹はぴたりと動きを止めた。まるで、どちらがどちらの世界に迷い込んだのか、確信が持てないかのように。
しばらくの間、時間は静止したままだった。そして、何か目に見えない力が内側から目覚めたかのように、二匹は動き出した、追いかけるでもなく、逃げるでもなく、渦を描くような舞を始めたのだった。
彼らは円を描きながら回り、絡み合い、そして徐々に、女性の庭に隣接する森の奥へと、ゆっくりと引き込まれていった。
やがて、猫はふと振り返った。自分がどれほど遠くまで来てしまったのかに気づいたのだ。家はもう、かすかにしか見えない。庭に座る最愛の伴侶の姿も、霞の向こうに微かに残るだけだった。
猫はそこで一度、舞を止めようかと考えた。戻るべきか温かく、安全だったあの場所へ。そう思い、数歩を踏み出した。
だがそのとき、彼女はある一点にたどり着いた。地面の下から、確かな温もりを感じたのだ。思わず足を止め、その場に身を沈めた。
狐は、それを見届けると、森の奥へと姿を消した。そして二度と、その姿が見られることはなかった。
三時間が経っても、猫はその場を動かなかった。
不安に駆られた女性は、猫が永遠に自分のもとを去ってしまったのではないかと恐れた。夫はすでに亡くなり、子どもたちはずっと前に世界のあちこちへ旅立っていた。彼女にとって、猫は唯一の伴侶だった。
静かな愛に導かれ、彼女は猫を迎えに森へ足を踏み入れた。
薄れゆく光の中で、猫の白い毛がほのかに輝いているのが見えた。黒い部分は遠くからでは見えなかったが、それでも彼女はその光を頼りに進んだ。
そして安堵した、猫は、彼女が近づいても逃げなかった。彼女は一歩一歩、そっと近づき、やがて猫のそばに静かにひざまずいた。
なぜ猫があの狐と共に舞い、なぜその場所で足を止め、長くとどまっていたのか、彼女には分からなかった。
だが猫を抱き上げた瞬間、深く、放射するような温もりを感じた。それはただ身体のぬくもりではなく、何か内側から発しているものだった。
そして、猫が横たわっていた地面に触れると、そこにも同じ温もりがあった。
すでに空気は冷たくなり、霧が地面を覆っていたが、その場所だけは静かで心地よい熱を保っていた。
彼女はそれを感じた。理解はできなかったが、それが大切なものだと分かっていた。
彼女は枝でその場所に印をつけ、そして慎重に、七つの平たい石を大きいものから小さいものへと順に積み上げた、いつかまた戻って来られるように。
彼女は、後日もう一度訪れて、その下に何があるのか確かめようと思っていた。
だが、彼女は戻らなかった。
人々はこう言うその日から、猫は生涯にわたって、あの温もりを放ち続けたのだと。そして彼女は、地面の下を確かめることなく、猫のぬくもりだけで満ち足りたのだと。
女性が猫より先に亡くなったと伝えられている。猫がその後どうなったのかは、誰も知らない。
今でもどこかで生きているそう信じている者もいる。
八年後、すでにコンピュータの時代に入った頃、一組の新婚夫婦があの地を訪れた。あの伝説が語り継がれている街へと、新婚旅行の行き先として選んだのだった。自然の美しさと静けさに惹かれたことはもちろんだが、それ以上に、木々の間からやわらかな光が降り注ぎ、手をつないだまま何時間も歩ける場所で他の誰ともすれ違うことなく、そんな場所だと聞いていたからだった。
ある日、ふたりは森を歩く計画を立て、手作りの簡素な昼食を包んだ、笹の葉で包んだおにぎりを二つ、温かいお茶の入った魔法瓶、そして梅干しを二つ。緑深き森の小道をたどり、静かに奥へと分け入っていった。
およそ三時間歩いたところで、ふたりはさすがに疲れを感じはじめ、休憩して昼食をとる静かな場所を探した。
妻は、ある開けた場所に心惹かれた。木々がまばらで、上空の葉の隙間から黄金の光が差し込んで、地面をやさしく照らしていた。森の陰は冷え、風が手をかすめるたびに肌がひんやりとした。彼女は夫に言った「ここで少し陽に当たりながら食べたい」と。
ふたりは、やわらかな木綿で織られたチェック柄の敷物を広げ、昼食の用意を始めた。
そのとき、彼女は近くに何か少し変わったものを見つけた、七つの平たい石が、丁寧に一つずつ積み重ねられていた。まるで、誰かが残した小さな記念碑のように。
彼女はそれを不思議に思い、デジタルカメラを向けて写真を撮った。誰かが目印として積んだのか、あるいはもう失われた何かへの静かな祈りとして残したのかもしれない、そんなふうに感じながら。
だが、カメラの画面でその写真を確認したとき、彼女は奇妙なものを見た。
肉眼では何もなかったはずの場所に、やわらかな金の霧のようなものが立ち昇っていたのだ。まるで現実のすぐ外側にある何かを、写真だけが捉えてしまったかのように。
カメラの故障かと思い、別の方向にも何枚か撮ってみた。だが、それらはすべて普通に写っていた。その現象は、あの特定の場所を写したときだけに現れた。
彼女は次第に、あの石に何か特別な意味があるのではないかと感じ始めた。
だが、隣に座っていた夫は、それほど魅せられてはいなかった。彼はもっと単純な説明を口にした。「きっと光の加減だよ。レンズの中で屈折しただけさ。」
それを証明しようとして、夫は立ち上がり、カメラを手にして、ゆっくりと石のまわりを歩き始めた。いくつかの角度から、同じように積まれた石を撮影してみせた。これで妻の思い込みが光と時間の偶然にすぎないと証明できると、彼は疑っていなかった。
だが、彼の予想に反して、金の霧は、また現れた。何度撮っても、写真の中には同じ現象が映っていた。
そのとき、彼の中に眠っていた探究心が、より深いところから呼び起こされた。
彼は静かにカメラを敷物の上に置き、石積みの場所へと歩み寄った。そして何も言わずに、石を一つひとつ、そっと横にどかし始めた。やがて、土の表面があらわになった。
彼は黙ったまま、手を伸ばし、掘り始めた。
妻は、それを止めようと必死に頼んだ。何か神聖なもの、触れてはならないものを、彼が目覚めさせようとしている気がしたからだ。「元のままにしておいてほしい」と、彼女は言った。「いま持ってきたお弁当を一緒に食べよう」とも。
だが、夫の好奇心はもう後戻りできないところまできており、彼は何も答えなかった。
彼は枝や鋭い石を拾い集めて、さらに深く掘り続けた。数分ごとに手を止めて写真を撮り、そのたびに、写真の中の光は強まり、色濃く、そして現実味を帯びていった。まるで、土の下に眠る何かが、徐々に目を覚ましているかのように。
伝えられるところによれば、一時間ほど掘り進めたあと、写真に映る光は、ついにフレームの縁を包み込み、写真の外へとあふれ出すように見えたという。
そのとき、彼は小さな金属の箱を発見した。古びて、すこし擦り減っていたが、しっかりと封がされていた。それはおそらく桐箱、かつて筆や儀式の道具を納めるために使われていたような箱だった。
彼はその箱を慎重に開けた。そして中に、三つの物が収められているのを見つけた。
ひとつは、アーモンドの枝、乾いてはいたが、折れておらず、形を保っていた。
ひとつは、小さな瓶、液体の中に保存されたままの果実のように見えた。
そしてもうひとつは、小型の、やや錆びついた録音装置だった。
彼は何も言わなかった。穴を埋め直し、箱を持って妻のもとへ戻った。
あまりの発見に心を揺さぶられ、もう食欲など残っていなかった。妻はすでにおにぎりを食べ終えており、彼の顔を見て、心配とあきらめの混じった表情を浮かべた。
ふたりは荷物をまとめ、宿へと引き返した。
その夜、男は待ちきれずに近くのコンビニエンスストアへ行き、電池を購入した。新婚旅行で滞在していた宿に戻ると、録音装置に電池を入れ、再生ボタンを押した。
聞こえてきた声は、かすかだった。ノイズと電気のざらついた幕の向こうから、かろうじて届いてくるような音だった。ふたりにはその言語がわからなかった。どちらにも聞き覚えのある言葉ではなかった。
その音は、まるで水の底から響いてくる記憶のように、どこか幽かで、どこか懐かしく、美しかった。だからふたりは、ただそのまま耳を傾けた。
録音は何度も繰り返され、ふたりはそのまま、気づけば眠ってしまっていた。
新婚旅行から戻り、ふたりの暮らすアパートに落ち着いてからも、男はあの録音を忘れることができなかった。とくに夜の静けさの中で、彼はよくそれを再生した。
なにかが心に残っていた。そして次第に、「自分があのメッセージを見つけたのではなく、あのメッセージのほうが自分を見つけたのだ」という感覚が、深く根を下ろし始めていた。
技術に明るい彼は、もはや単なる好奇心を超えた何かに突き動かされていた。そしてついに決意するこの録音の解読に人生を捧げようと。未知の言語を明らかにし、可能であれば、そのメッセージを翻訳することを。
彼は録音をデジタル化し、様々な音声処理アルゴリズムを用いて作業を始めた。ノイズを除去し、周波数帯を分離し、声を強調する。何度も試行を重ねるたびに、声はより鮮明に浮かび上がってきた。そして明瞭になるにつれ、その声に宿る抑揚の美しさが、次第に明らかになっていった。
何度も耳にするうちに、彼は確信するようになった──これはただの録音ではない。神聖な何かだ。特別な何かだ、と。
最初の試みとして、彼は市販の翻訳ソフトに音声をかけてみた。既知の言語と一致するものがないかを調べるためだった。しかし結果は、すべて空白だった。既知のパターンも、言語的な起源も、一切検出されなかった。
だがそれは、むしろ彼の決意をさらに固めた。もしそれが人間の言葉に属していないのなら、それはおそらく、もっと遠い場所から来たものなのだろう。そして、もしそうであるならば、それは「何であるか」ということだけでなく、「どこから、あるいは誰から来たのか」ということにも、大きな意味があるのではないかと、彼は思い始めていた。
だが、彼はただの技術者ではなかった。謎を謎のまま放置することをよしとしない気質の持ち主だった。だからこそ、彼はそこで立ち止まらなかった。
次に彼が頼ったのは人工知能だった。即座の翻訳を期待していたわけではない。そうしたシステムの限界を、彼はよく理解していたからだ。それでもなお、未知の言語に関する前提知識がなくとも、その内部構造や律動、言語としてのかたちを見抜くことができるかもしれない──そんな小さな信頼が、彼の内にはあった。
彼はモデルにこう命じた。意味を理解しようとするのではなく、構造を聴き取るように。何が語られているかではなく、どのように語られているのかに耳を澄ますように。彼自身にも名づけられぬ何かを、システムが聴き取ることを願って。
そして、長時間の処理の末、システムはほとんど確信に近い反応を返した。「与えられた音声は無意味ではない」と。壊れた装置が生み出すノイズや、無作為な音の羅列ではなく、そこには一貫した、整合性のある、内的秩序を備えた言語が存在していた。意味の理解には至らなくとも、意味が流れていることは感じ取れる、そうした韻律があった。そしてそれだけではなかった。システムはその響きを、美しい、と評した。無機質な存在であるはずのそれが、そう告げたのだった。
ある意味で、これは大きな成功だった。それは、彼の発見が無意味な雑音ではなく、実在する「メッセージ」だったことを証明したのだ。だが、それでもメッセージは翻訳されず、今もなお、閉ざされたままだった。
そこで彼はシステムに次の命令を与えた。今度は分析ではなく、翻訳を試みるように。長く、ゆっくりとした時間をかけ、日本語への翻訳という旅を始めるようにと。
システムはその命令を受け入れた。だが、何の保証もなかった。成功するかどうかも、どれほどの時間がかかるかも、あるいは永遠に解けないままであるかも、まったく予測はできないという。
それでも彼は言った。「始めてくれ」と。
そして、システムは動き出した。
日が週となり、週が月となっても、システムは黙々と作業を続けていた。そしてその間に、家の空気が少しずつ変わっていった。新婚の日々に満ちていた喜びは、はじめはわずかに、だが確かに薄れていった。男にもそれは感じ取れた。認めたくはなかったが、その原因の一端が自分にあることを、彼は知っていた。あのメッセージと、それを解き明かそうとする自分の尽きぬ執念が、少しずつ妻との距離を生んでいたのだ。
そこで彼は、もうひとつの誓いを立てた。この謎を、妻と共に生きると誓った人生よりも尊いものにはしない、と。そしてその誓いを守るため、彼はその装置を日々の生活から遠ざけた。家の明かりが届かぬ物置の奥にそれを移し、すべての接続を断った。モニターも、キーボードも、進捗を示す表示も何もなかった。ネットワークにもつながっていない。音も信号も出さない、完全な沈黙の中で、システムはただ動いていた。
唯一の接続は、小さな部屋の扉の上にぶら下がった電球だけだった。それは、システムの作業が完了したとき、そのときにのみ、淡く光るように設定されていた。
それを終え、彼は再び「生きること」へと意識を向けた。そして、心に静かな安らぎが戻ってきた。彼は妻を愛していた。ふたりはまた笑い合い、言葉を交わす時間を取り戻していった。
やがて子どもが生まれた。息子だった。彼らはその子を、あたたかな静けさに包まれたその部屋で育てた。だが、その扉の向こうに、何年も何年も、声が息づいていたことを、息子に語ることはなかった。
それから多くの年月が流れ、男は老いの静けさに包まれながら、ベッドに横たわっていた。彼の人生は長く、質素で、安定し、おおむね善きものであった。
だが、そんな日々に静かな平安が流れていたにもかかわらず、彼の内には消えることのない鈍い痛みが残っていた。それは、重大なメッセージを受け取った者としての重荷であり、それを世に出すことができなかったという悔いだった。
彼はその人生を後悔してはいなかった。良き選択を重ね、愛も深く注いだ。
だが最期の時が近づき、呼吸と沈黙のあいだが次第に細くなるにつれ、そのメッセージが再び内側で目覚めるのを、彼は感じていた。
忘れ去られることを拒むかのように。
妻は前年に他界し、唯一の身寄りは息子ひとりだった。自らの人生の最終章が綴られようとしているのを感じ取った彼は、息子をアパートに呼んだ。
そしてあの懐かしい部屋の静けさのなかで、彼は物語を語り始めた。
彼は語った、新婚旅行のある静かな日に、森を歩いたこと。木々の間から陽が差し込み、妻がその光で肩を温めたくてその空き地を選んだこと。そして、積み上げられた石のこと。カメラに映った金色の霞のこと。そして、自らの知識ではなく、地中深くに眠る驚きのようなものに突き動かされて、掘り始めたことを。そして、写真が今もどこかこの部屋に残っているはずだと告げた。
彼は語った、彼らが発見したものについて。時間を越えて今もその姿をとどめたアーモンドの枝。保存液に浸された果物の入った小瓶。そして、異界の声を録音していた記録装置。彼は言葉を選びながら、息継ぎだけでなく意味の間を大切にしながら、まるで自分の所有物ではない遺物を託すかのように、ゆっくりと語った。
そしてその後の年月についても語った。自らが組み上げたシステムのこと、それに与えた使命のこと。そして、一度も灯らなかったランプのこと。彼は息子に語った、毎日ではなかったが、常に待っていたこと。そして、いつかそのメッセージが明らかになる日が来ると、希望を手放したことは一度もなかったと。
息子が尋ねた、そのメッセージはどこから来たのか。誰が石を積んだのか。誰が箱を埋めたのか。誰があの奇妙な声を録音したのか。老人は伝説を語った。ある女とその猫の話。渦を描いて踊った狐の話。土の下から放たれていた温もりの話。そしてさらに遡って、十二日間の巡礼を歩いた人々の話。雑音に包まれた声を見つけ、それを誰にも告げずに隠し、できる限りの形で保存した人々の話を。彼は、そうした最初の保管者たちが、自らの終わりを悟ったとき、希望を託してか、あるいはただ静かに、あの装置を森の中に埋めたのだと息子に語った。
だが、自分がその伝説をどこで知ったのかについては、決して明かさなかった。
そして、目に涙を浮かべながら、息子に願った。自分が背負ってきたその重みを受け取り、自分が始めたことを継いでほしいと。彼は懇願しなかった。強要もしなかった。ただ、それを差し出した。まるで、まだ道を知らぬ旅人に灯を手渡すように。
それから間もなく、彼は静かに息を引き取った。胸のうちには安らぎが宿っていたという。まるでその火が、すでに息子の手の中で灯っていたかのように。
そしてしばらくの間、息子はその部屋に戻ることはなかった。部屋は静まり返り、記憶が埃のように床に積もっていた。
一年が過ぎた。
ある夕方、義務感からか、あるいはただその時が来たからか、息子は部屋を整理するために戻ってきた。彼の目的は、持ち物を仕分けし、家具を売り、収納を空にして、部屋を売却できるようにすることだった。電気は数ヶ月前に止められていたため、懐中電灯を持参していた。
だが、扉を開けたとき、すでに光があった。
最初は錯覚かと思った、どこかの窓から差し込む隣家の明かりか、あるいは何かの反射か、だが、一歩中に入ると、それがはっきりと見えた。
部屋の中はまだ影に覆われていたが、たった一つの光だけが静かに、揺るぎなく灯っていた。
収納部屋の扉の上に吊るされた、小さな電球が。
その瞬間、息子は思い出した。
あの話を。あの電球を。そして、あの誓いを。
涙がこぼれた、静かに、予告もなく。
彼は扉の前に立ち、光を見つめた。何を感じるべきかは分からなかった。ただ、何か神聖なものが一世代から次の世代へと手渡された、そのことだけは、たしかに分かった。
息子には人生の伴侶がいなかった。四十代半ばに差しかかっており、しばらくの間、自分の目的から徐々に離れていっているような感覚を抱えていた、仕事は空虚に感じられ、友人も少なく、父の死はその感覚をさらに深めていた。何か大切なものを失ったという感覚。しかし、それが何なのかは分からなかった。
だが今、この淡い光の中で、静けさに包まれた部屋を前にして、彼の内で何かが動き出した。
それは、彼がただ漂っていたのではなく、ずっと準備をしていたのかもしれない、そんな予感だった。
彼は収納部屋に入り、父が残したままのシステムを見つけた。
そして端末を接続すると、あの光がすでに告げていたことが、画面にも現れた。
任務は、完了していた。
彼は言葉を発しなかった。システムに自分が誰かを伝えることもなかった。もしかしたら拒絶されるのではないかという恐れがあった。システムはまだ、何十年も前にその命令を下した男と話していると思っているかもしれない。だから、何も言わなかった。
そしてシステムが翻訳結果を差し出したとき、彼はそれを、静かに、敬意をもって、受け取り、自分の端末にコピーした。
それがどんな内容か、彼には全く分からなかった。
だが、ただ一つ確かなことがあった。
それは、自分を待っていたのだということ。
そのメッセージを読んだとき、息子は深く魅了された。それは内容によってというよりも、その「存在感」によってだった。
メッセージは日本語に翻訳されており、彼にとっては母語であり、完全に理解できるはずの言語だった、にもかかわらず、それは今まで読んだどんな文章とも異なっていた。
まるでそれは言葉と言葉の隙間から届いたものであり、言葉は単なる器に過ぎず、もっと古く、もっと深く、名づけ難いものを運んでいるようだった。
そのメッセージは、「ヘント」と名乗る存在(人か、あるいは何か別のもの)によって送られたものであると記されていた。
そこには「ハキロル」と呼ばれる世界について語られていた。それは息子がこれまで想像したどんな場所とも異なっていたが、語り口は驚くほど親密で、個人的な葛藤と希求に根ざしており、まるで誰かの夢が、長い間誰かに思い出されるのを待っていたかのようだった。
その世界、ハキロル、は、大地や海ではなく、中心にあるひとつの輝く光の源を軸として築かれていた。
その源は「エルラノス」と呼ばれていた。
ハキロルの住人たちは皆、その中心にたどり着くことを切望していた。自らを生かすその光に近づこうとしていた。
だがそれは到達不可能だと言われていた。
それは距離のせいではなく、高温のせいでもない。
むしろその本質の逆転にあった。
エルラノスは引き寄せるのではなく、拒むのだった。
その重力は引力ではなく、空間を外へ押し広げる力だった。
近づこうとするほど、時間と空間は歪み、距離が縮まるどころか、旅は果てしなく延びていく。
ついには、到達するには永遠が必要になる。
それでも、その輝きはすべてに触れていた。
その息吹は、生きとし生けるものすべてに命を与えていた。
語り手はこの逆説を、怒りではなく、やさしさをもって語っていた。
自らの旅についても語っていた、
中心へと至る道を求めて歩んだ数々の道のりについて。
試みては壊れたシステムたち、信念、失敗。
一瞬のきらめき、数えきれない喪失。
どれだけ捧げても、また捧げても、彼/彼女はなお、世界の外輪に留まっていた。
そのあたりの記述は難解で、用語は見慣れず、記述された技術も馴染みのないものだった。
断片はところどころ欠けており、通信の過程で失われた可能性もある。
だが、残された部分には不思議な明晰さがあった、
まるで、半ば忘れられた聖典のようだった。
息子は、それが何を意味するのか判断できなかったが、ただ一つ、心に正直な行動を取った。自分の心に響いた部分、自分の人生を少しでも軽くしてくれた部分だけを選んで、印刷したのだった。その他の部分がどうなったのかは、誰にも分からない。
彼が印刷したのは、ほんのわずかな部数だけだった。題名は静かにこう記されていた。『裂けた径・ヘントの道』。それを受け取った人々は、多くを語らなかった。しかし、ある者たちは、それを肌身離さず持ち歩いた。
伝えられるところによれば、息子はそのメッセージに記された見解を、自分自身の生き方として受け入れるようになったという。それは教義としてではなく、共に歩む何かとして。彼を見つけた何かとして。そして今や、彼自身のものとして。
今もなお、元の送信がどこから来たのかは分かっていない。ハキロルという世界が実在するのか、それとも精巧に作られた虚構にすぎないのかも分かっていない。ヘントと呼ばれる者が実際にその言葉を語ったのか、あるいは人工知能の中で誰かの記憶や別の源から夢のように編み出されたのか、それすら分かっていない。
そもそも、これは本当に翻訳なのか、それとも創作なのか。
分かっているのは、残されたものがあり、それが受け継がれてきたということ。
そして、こう言われている。
これは、人が見つけるメッセージではない。
メッセージのほうが、あなたを見つけるのだ。
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