第16話 噂の令嬢 *律視点
「うわ……どうしたんですか、呆けた顔して」
「……うるせぇよ」
勤務時間外だからと部下からの呼び出しを断るも、社長に呼ばれたら出向かないわけにはいかない。久しぶりに手料理食えると思ったのに。美尊も喰いそびれたし。
怠いなと思いつつ、軽く身なりを整える。外で待つ車に近付くと、開口一番に失礼なことを言い出す運転手。仕事上の部下でもあるが。
「……もうお前が代わりに行けば」
「無理ですよ、何言ってるんですか」
「いけるいける。だから帰らせろ」
「無茶言わないでくださいよ……」
早く行きますよ、と急かされて仕方なく乗り込めば、現実の闇に引き戻されていくようで。あのわずかな時間が、束の間の夢だったみたいな。そうだとしても、深く暗い世界にいる今の方が俺の性分に合っている気もする。
呼び出した男の穏やかな笑みを携える姿が、閉じた瞼の裏に浮かんだ。月はまだ近くに見える。夜はこれからだ。
「失礼します」
「あぁ律。ごめんね、急に。一応相田くんにも迎えに行くように頼んだんだけど、」
大丈夫だった? なんて。無理やり呼んだのは誰だよ。毎回のことだから最早イラつきもしない。くるりと椅子を回転させて、あの柔和な微笑みを向けられる。整い過ぎて気味が悪いくらいだけど、変わんねぇなとも思う。
「呼んだのはその案件のため、てわけじゃないですよね」
「さっすが、よく分かってる。でも実際困ってるみたいだから、手伝ってあげてくれない?」
ついでに解決よろしくね、と余計な仕事を増やされるこっちの身にもなってみろ。この人のことだから何か裏があるにしても、たまに本当に面白がって投げてくる仕事もあるから判断に困る。何度か本気で撃ち込んでやろうと思ったことも。
「そういえばさ、鈴木財閥のご子息も手下にしたんだって?」
……今とか特に。
「……それ、どこ情報ですか」
「言ったらお前始末するでしょ」
「しないですけど吊し上げにするくらい、」
「ほらもう怖いよ」
もっと人に優しくだとか言うあんたこそ、俺よりえげつないことしてるくせに。
誰にも分からないようにさっさと始末してしまえる“裏”より、水面下で足を引っ張り合って絶望に追い込む偽りだらけの“表”の方が、俺には理解出来ない。戦略が苦手なわけじゃないけど、俺はどっちかというと平穏を保つためのものじゃなくて、破壊する方だから。
「まぁ今日来てもらったのはね、」
組み替えた脚は、話の本題に入る合図のように。交渉術のほとんどはこの人から教わった。その後に続くつなぎの言葉を聞いているだけでも、腹の底をじわじわと締め付けられているような気分になる。要はこの緊張感が嫌いだ。面倒な案件が振られる前は、大抵この間の取り方をされることが経験でわかっているから。
「お前が今家に置いてる子のことでさ」
──ドッ、と心臓が大きく動いた気がした。
一度言葉を切り、浮かべた微笑みの奥で俺の反応を見定める男。そうですか、と当たり障りのない返事をすることも、正解なのか分からない。
「彼女。実は帝華グループの令嬢みたいでね」
「……まさか、」
「そう。……あの噂、本当ならチャンスだ」
あの噂。
5年前に失踪したとされる帝華グループの令嬢を探すために、7,000万の懸賞金が懸けられた。しかし政界にまで影響力を持つようになった帝華グループの次期後継者を潰したい財閥は、その女を見つけ殺した奴に金を払う、というもの。
その額は──
「一億。……律、できるよね?」
「……っ、」
それは問いではなく、確認のための。
予想してなかったわけじゃない。美尊があの噂の令嬢だとこの男に悟られることを。パーティーに連れていった時から覚悟はしていた。でも分かった時点で殺さずに、わざわざ俺を呼び付けて言うとか。
……本当に、あんたを理解出来る日が来るとは思えないよ。
「……いつから気付いてたんですか」
「何が?」
「俺が黙ってたこと。知った上で殺させようとしてるんですよね」
「殺させるだなんて、人聞きの悪い」
どの口が言ってんだか。否定も肯定もせず、徐に立ち上がり窓から夜景を見る男は、俺が裏切らないことを信じているかのように背中をさらす。
「チャンスがあるなら掴まない奴はいない。見逃す馬鹿にはなりたくないかな」
「……でも、生きて返せば7,000万。差額の3,000万なんて帝華グループとの取引を確かなものにすれば、余裕で回収出来るでしょう」
「だけど財閥にすり寄ることも同じくらいメリットがあるって、分かるでしょ」
「ですが、」
「ねぇ。一個聞きたいんだけどさ」
言葉を遮るように振り返り、ひどく冷たい焦げ茶の瞳が制する。
「まさか僕を止める理由が、その子への情からきてるなんて言わないよね」
「それ……は、違いますけど、」
「けど、なに?」
底冷えするような視線は、尚も注がれたままだ。
信じることができないこの人だからこそ、この会社はここまで大きくなった。それは10年を共にした側近で、かつての友人にとっても同じ。
……詰めが甘かったとは、思う。
確実なメリットを示すことができたら、彼女の利用価値を見せることができたら、俺への信頼が積み上がっているのなら。全部がタラレバで想定されていた理想にすぎなかったと、今になって気付く。
「彼女の身元だって、本来ならすぐに僕に報告すべきことだったんじゃないの。勝手な判断をしたお前を赦すための措置だって分かんない? 情が沸いたことなんて知らないよ。やれ。やらなきゃ赦せなくなる、」
「………」
「僕はお前を、……手放したくはない」
感情を滅多に示すことのない彼の、少し震えた言葉尻が重く響いたことは事実。
客観的に見てみろ。会って2ヵ月程の借金背負った女と、10年苦楽を共にしてきた男と。選ぶまでもないだろうが。
「……分かりました」
一息に出した答えでさえ、詰まりそうだった。
それは覚悟か、後悔か。
明確な答えが見つからないまま、ひどく重い扉を開けた。
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