第5話 20分の壁
午後、私はノートの最初のページに四本の線を引いた。
端(固定物)/縞(フリッカー)/響き(反響)/時間(人の動き)。
三本までは揃った。端と縞と響きが、宇津木の動画を別室へ押し流した。
残る一本、時間を人に戻す。
◇
ビル裏のごみ置き場。金属製の蓋が近所の風鈴みたいに鳴る。
私は手袋をはめ、昨日のレール脇から出した黒いスポンジ片(隙間テープ)と同じ質感のものがないか目を凝らした。
——あった。薄く折れた小片。片面に粘着剤、そこに極小の薄茶色の粉が嵌り込んでいる。チャフは軽くて電気をまといやすい。どこから来たかまでは言わないが、どこにいたかは示す。
私は袋に収め、レシートの裏に日時と場所を書き込む。証拠の格は持たない。ただ、向きを語る粒だ。
管理人の小堀が通りかかり、汗を拭きながら言った。
「警察からは“事故”の扱いで進むって。よほどのことが出なければ」
「よほどのことを、見えるようにするだけです」
私は笑い、焙煎室の前に戻った。
実測を足す。
引き戸の見付幅は30mm、高さ1900mm。ゴムパッキンの接触長さは周長のうち約3/4、線圧は1.0〜1.5N/mm(指での押し込み感覚と規格からの見積もり)。
排気ファンの仕様書(壁のビニールポケットに入っている)には、最大静圧 80Pa。焙煎機が止まっていてもサイクロン側の引きは残る。
ΔP(差圧)30Paとして、有効面積1.2m²(戸の半分が効くと仮定)。押し付け力=36N、約3.7kgf。
摩擦係数と接触面積、パッキンの粘着を足し引きすれば、“鍵ではないのにびくともしない”手応えは、数でも言える。
私はこの紙を成瀬用に写し替える。難しい式は使わない。
> 差圧(空気の押し付け)が3〜5kg分
> ゴムの“ぺた”が鍵の役割
> 排気ONで15秒後に確立
> 排気OFFで3秒で解除
「20分」
口に出してみる。『最大20』のダイヤル。昨夜の『19』の影。沢の『22分』の滞在。
20分の壁は、人を待たせるための長さだ。偶然の長さではない。
◇
成瀬に頼んで、昨日の店内の時系列を洗った。
17:10 加賀「外の様子見てくる。十分で戻る」——焙煎室に入る前、口頭。
17:14 裏口カメラ、沢入室。
17:20 表の客一組退店。成瀬、レジで会計。
17:23 成瀬、「焙煎の匂いが弱い」とメモ。
17:25 成瀬、戸の取っ手に触れ「重い」と独白(厨房の音声に小さく)。
17:27 「110」発信。
17:34 裏口カメラ、沢退室。
17:36 救急へ二度目の電話。
17:36。20分。
私はボールペンで17:14〜17:34に薄い帯を引き、上に**「負圧=鍵」**と書いた。
「……やっぱり私のせい?」
成瀬が、控え目に訊く。
「違う」私ははっきり言う。「そっと閉めたのはあなた。閉じたまま“鍵”にしたのは、排気。排気を**“最大20”にした誰か**」
「沢さん?」
名前は出さなかったが、声には浮いた。
「断定はしない。次章で測る。あなたの手でも、私の手でもない手で」
◇
通りの向こう、Roast&Gloryのガラス越しに沢の背中。コーヒーを飲む仕草が板についた男だ。
私は席に近づき、挨拶をした。「実演をします。ブラインドで。第三者にスイッチ権を渡し、私たちは知らない。扉が動く/動かない、いつから動く、いつ解除されるか、数だけを記録します。立ち会ってください」
沢は笑った。「安全のためなら、いくらでも」
「安全のためです」私は頷いた。「明日。警察にも管理人にも、宇津木にも声をかけます。言い訳が入らない場で」
離れ際、沢は爪を見た。「切る暇がない」と冗談めかす。
ダイヤルの傷。爪。20。
偶然は爪を伸ばさない。
◇
夜、〈エトワール〉。星野が氷を落とす音が、丘の乾いた空気に広がる。
私は紙を横に並べた。隙間テープ片(薄茶+粘着)、タイムライン、フード下の炎の角度。
澪は不在だ。この物語では、私が数を味方にする番だ。
差圧と時間、粘着と帯。端だけで作った小さな地図が、机の上で事件の形に重なる。
店のベルが鳴く。成瀬が顔を出した。
「警察、実演に立ち会いますって」
「ありがとう。宇津木は?」
「来るそうです。**『言い過ぎの落とし前』**をつけたいって」
「いい人だ」
「いい人、なんですか」
「“今ここ”を“前にここ”と言い換えられる人だ。明日はここで、今を測る」
私は最後の紙を掲げる。小さなメモだ。
> 明日:ブラインド
> ON→15秒貼付/OFF→3秒解放
> 第三者:スイッチ権
> 戸:楔不使用/隙間テープなし
> 記録:映像+秒単位
> 立会:警察/管理/関係者
星野がコーヒーを置き、「鍵は掛かっていないのに開かないってのは、怖いね」と言った。
「見えない鍵は怖い。見えれば、仕組みだ」
私はカップを持ち、輪ジミを作らないように、そっと置いた。
◇
翌日。公開実演の準備の前に、私はもう一つ、時間の穴を埋めたかった。
22分のうち、沢は何をしていたか。
私は通路の突き当たりにある小さな自販機の所有者に電話した。補充業者はカメラを持っている。硬貨詰まりの防止に、投入口を撮るのだという。
——17:31。作業着の腕が自販機に小銭を入れる。缶コーヒーが落ち、数歩で〈カガ・コーヒー〉の裏口に戻る。
缶の開け口は指で押し広げるタイプ。爪が必要だ。
私はありがとうを言い、紙に17:31を打った。
22分のうち。誰かはここで缶を開けた。
扉は開かない。鍵は空気。
缶は開く。鍵は爪。
◇
戻ると、成瀬が焙煎室前で待っていた。楔は釘に戻り、COアラームは新しい電池で確かに鳴る。
私は彼女に小さなステッカーを渡す。白地に黒字で、簡単な文。
> 排気ON中:戸を開けない/楔を使う
> 排気OFF確認:3秒待つ
「張ってください。端に。見えるところに」
成瀬はうなずき、端に真っ直ぐ貼った。
端は、現場の指紋だ。これからの指紋でもある。
◇
準備は整った。明日、ブラインドで測る。
“鍵じゃない鍵”を、誰の足も踏ませずに。
20分の壁は、扉を、人を、時間を分ける。
越えた者と越えさせた者。
次で、分ける。
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