焙煎室の負圧密室 — 三田村香織の事件簿

湊 マチ

第1話 開かない扉

 昼と夜の境い目。新しいロースタリー〈カガ・コーヒー〉のガラスが、商店街の薄い夕焼けを平らに返していた。

 店の奥、立入禁止の札がぶら下がる焙煎室の前で、成瀬陽菜が蒼い顔で立ち尽くしている。呼び出しの電話を受けて、私は走った。


「三田村さん、開かないんです。鍵、かかってないのに」


 引き戸の小窓越しに見えるのは、丸い焙煎機の胴と、床に散った工具。煙はほとんどない。人影は——見えない。


 管理人の小堀が共用キーを持って駆け込む。「内鍵なら外せるが……」


 成瀬が震える指でラッチを示した。施錠位置にない。

 私は取っ手に手をかける。**重い。**鍵の手応えではない。ゴムが貼り付いたときの鈍い抵抗が掌に移る。


「せーの」

 小堀と二人で引く。びくともしない。戸の下端が低く唸る。木じゃない。パッキンが何かに吸い付いている感じ。


 救急が入る。警官が手順を確認し、ガラス小窓の周囲にビニールと養生テープを貼った。ハンマーの音が二度、三度。小窓が外れる。

 中の空気が吸い出されるように、ふっと顔に当たった。かすかに豆と焦げの匂い。煙は薄い。引き戸の隙間に、薄茶色の粉が帯状にたまっているのが見えた。チャフ——焙煎で飛ぶ薄い皮だ。


「内側に人!」救急隊が叫ぶ。

 鉄の器具が咥えられ、レールと戸の隙に差し込まれる。こじ開け。細い悲鳴みたいな音のあと、急に抵抗が軽くなり、戸が数センチ走った。

 私は退いた。救急隊が中へ滑り込み、肩で息をする声、ストレッチャーの脚の音、短いやりとり。

 間もなく、遺体が出た。被害者は店主の加賀 良。顔色は白く、額に小さな傷。救急の隊長が短く首を振った。


 私は端だけを見る。

 焙煎室の隅、壁に貼られたCOアラームのランプが点滅している。鳴ってはいない。

 床に散らばるのは六角レンチ、ドライバー、軍手。転倒の跡を作るには十分だ。

 作業台の端に、口を上にしたマグカップ。中身は空。底に一周の輪ジミ。半分乾いて、半分湿っている。


 小堀が言い訳のように言った。

「COの電池、先週替える予定だったんだ。ピーピー鳴るから、消してた。あの、その……」


 私は答えない。ドアの下に膝をつき、レールの溝を覗く。薄茶の粉が室内側にだけ寄って帯を作っている。外側はほとんど空。

 流れた跡だ。向きがある。


 救急と警官が現場を閉じ、成瀬は壁づたいに座り込んだ。制服の胸ポケットから取り出した紙ナプキンを握りしめている。


「私、いつも閉店前に楔で戸を止めてて……今日は、あれ、見当たらなくて。だからそっと閉めただけで。そのあと、加賀さんが**『十分で戻る』**って言って焙煎室に入って……気づいたら、取っ手が動かない」


「楔?」

「ドアストッパー。ゴムの。ここにいつも掛けてるのに」

 成瀬が指さした壁の釘には、何も掛かっていない。足元の床にも、見当たらない。


 私は店内の古い写真を思い出す。オープン前の内装工事の一枚。引き戸の下に黒い楔が写っていた。あるはずのものが、ない。


「鍵は?」警官がもう一度確認する。

「無施錠でした」小堀が答える。「ラッチはこの通りだし」


 それでも開かなかった。鍵ではない何かが、扉を押し付けていた。

 私は目線を落とし、戸の縁のゴムを見る。薄く艶がある。新しい跡。誰かが最近、ここをいじった。


 外に出ると、通りはもう白く明るい看板だけが残っていた。向かいの大手カフェのガラス越しに、夜の人影が動く。

 その前で、誰かが立っていた。作業着に工具バッグ。沢 直樹。〈カガ・コーヒー〉の電気工事を請け負っていた男だ。


「何か、あったんですか」

 彼は視線だけで店の奥を窺った。

「たまたま、近くを通ってね。点検の相談も受けてたから」


 私は頷きだけ返す。沢の目線が一秒だけ引き戸の下に落ちる。その一秒を、私は拾っておく。


 救急車の赤が一度だけ巡り、音が遠ざかる。店の中は静かだ。

 引き戸の前に戻り、私は手で空気の流れを感じるように、そっと隙間に掌を寄せた。もう流れは弱い。遅かった。


 小堀がメモをめくる。「警察は、一酸化炭素だろうと言ってたよ。事故だ、って」

 私はうなずきも否定もしない。床のチャフの帯、消えたドアストッパー、半分乾いた輪ジミ、鳴らないアラーム。

 鍵ではない。

 空気が、ここで鍵の仕事をした。


 成瀬がかすれ声で言う。「私、閉めたとき、吸い付くみたいにぴたっとなった気がして……でも、そんなもんかなって」

「そんなもんです」私は優しく言う。「条件がそろえば」


 通りから夜風が少し入る。戸の隙間で粉が揺れ、室内側へわずかに寄った。

 私はそこで立ち止まり、店内の端だけをもう一度見た。壁の釘、空になった場所。

 **あるはずのものが、ない。**その穴が、事件の形をしている。


 帰り際、沢が軽く会釈をした。「明日、配線の件でまた来ます」

「ええ。明日、空気の話をしましょう」


 そう答えて、私は歩き出した。

 鍵は掛かっていない。それでも扉は開かない。

 今夜はそれだけでいい。違和感は、十分に残った。

 次に、その向きを数に変える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る