第七章薄紅の囁き

その日の夕刻、澪花は自室の窓辺に立っていた。

空は淡く紅を含み、霊桜の梢を撫でるそよ風が花びらを宙へ解き放っていく。

ひとひらが頬をかすめるたび、肌にかすかなぬくもりと花の香が残る。

光を透かした薄紅の片は金の粒子を帯び、ゆるやかに降りるでもなく、昇るでもなく、ただ世界の中で揺蕩っていた。それは、時の糸がほどけていくような静かな景色——見惚れれば、音さえ遠のいていく。


襖の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。

床板を渡る音が、静かな夕刻の空気に溶けていく。

やがてその気配がすぐ傍で止まり、襖が、音もなく引かれる。

かすかな気配に振り返った瞳がわずかに揺れ、胸の奥で鼓動がひと跳ねする。

そこに立っていたのは、颯真だった。


その一瞬、彼の表情がかすかに揺らぎ、胸の奥を押さえる仕草が走る。

淡い紅に照らされた横顔には、ごくわずかに苦悶の影が浮かび、額に細い汗が滲んでいた。

だがすぐに背筋を正し、何事もなかったように足を進める。


影がゆらぎ、淡紫の瞳をした青年の姿が背後に現れる。

「……無理をするな、主よ」

白銀の狐の式神——朧月の低い忠告は、花びらの散る音に紛れて澪花の耳には届かない。

颯真は短く息を整え、「問題ない」と小さく吐き捨てる。

その声には、揺らぎを封じ込める固い意志が混じっていた。


澪花は軽く息を詰め、次いで吐き出す。声は出さず、長い睫毛がかすかに震える。胸奥に入り込んだ熱を押しとどめるように。


彼は奥へ足を進めることもなく、開け放たれた窓の外へと目を向けた。

庭先の霊桜は夕陽を受けて、枝先から花びらを零し続けている。

その景色の端に、澪花の姿が柔らかく映り込む。

昨日の儀式の夜——

神衣を纏い、神域の光に包まれ、ただそこに立つだけで常世と隔たる存在のように美しかった。


そして昼餉前——

慌ただしさの中で見せた、不器用なまでの可憐さと、不意に零れた艶やかさ。

白磁の肌、解けかけた帯、頬をかすめた乱れ髪。

その瞬間ごとが胸奥に降り積もり、静かな熱を孕んでいく。

呼吸を整える間もなく、唇から零れ落ちるように言葉が漏れた。


「……綺麗だな」


低く落ちた声が、空気の揺らぎとともに部屋に溶けた。

外に向けられたのか、自分に向けられたのか——澪花には分からない。


その響きが耳朶を撫でた刹那、胸の内で昼餉の一幕が鮮やかに甦る。

帯を直そうと焦る指先に重なった大きな手、襟元にかすめた吐息、うなじに触れたひややかな感触。

熱が頬を這い上がり、静かだった呼吸が乱れそうになる。

澪花は小さく顎を引き、息を整えるように視線を外へ滑らせた。

花びらの流れへと、意識ごと預けるように。


外の景色は、淡い金と紅の粒が舞う世界。

澪花の横顔をかすめた夕光が、花びらの輝きと溶け合う。

その向こう、庭の端にひとつの人影が立っていた。


逆光の中、眩しさに溶けかけた輪郭。

目を凝らすと、朝に廊下で見かけた少年の顔が脳裏に浮かぶ。

しかし、その輪郭に別の影が滲む。

霞む記憶の底から現れたのは、どこか颯真に似た面差し。

目の奥にわずかな光が宿り、それが遠い記憶を呼び起こすかのようだった。


瞬間、胸奥に冷ややかな驚きが走る。


「澪花?」


至近から声が降りる。

振り向けば、颯真が眉をわずかに寄せ、真っ直ぐに見つめていた。

心配と、言葉にできぬ何かが入り混じった眼差し。


「……なんでもありません」


わずかな間の後、そう口にした。


再び外へ視線を戻したとき、少年の姿はもうなかった。

ただ、胸には淡い残光のような感覚が残っている。

それが誰の面影だったのか——確かめる術も、確かめる勇気もなかった。


颯真は澪花の小さな変化を察していたが、何も問わない。

窓辺に立つ後ろ姿の向こう、霊桜の花景色が夕闇に溶けていく。

その肩越しに広がる景色を、二度と戻らぬ瞬間として目に焼き付けるように、彼はひとつ深く息を吐いた。その吐息は、花びらの散る音に紛れて、静かに夕空へ溶けていった。

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