第二章 影なき来訪者
朝の光が障子を透かし、淡く室内を染めていた。
庭を渡る風が白い花びらを運び、鳥の声が夜の名残を押し流していく。
澪花は寝所の天井を見つめたまま、昨夜の光景を追い払おうと瞬きを繰り返した。
廊下の闇、ぬらりと伸びる灰色の腕、骨ばった指先……あれは本当に現のことだったのか。
襖を開けると、すぐに侍女が膝を折る。
「お目覚めでございます。旦那様は早くにお出かけになられました」
やはり——婚礼の翌朝であっても、隣に夫の姿はない。
侍女の声音は変わらず丁寧で、それだけに澪花の胸には薄い冷たさが残った。
朝餉は静かだった。膳に並ぶ品は上等だが、祝いの彩りは見当たらず、
箸を置いても心の空隙は埋まらなかった。
食後、屋敷の案内を受けることになった。
廊下を歩くと、障子の陰に控える女中や下男の視線がふと動く。
視線の奥に漂うのは、好奇の色と、針のように細い警戒。
澪花は足音を乱さぬように歩きながらも、背中にその重みを感じた。
渡り廊下を抜けると、白砂を敷き詰めた庭が現れた。
風が砂紋をやわらかく崩し、霊桜の枝先から花びらが舞い落ちる。
その花陰に、ひとりの少年が立っていた。
十五、六ほどの年頃。浅葱色の着物に、長い髪が風に揺れている。
だが、その足元には影がなかった。
澪花は一歩、無意識に足を止める。
陽の光の中、金と翠が溶け合うような瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いてきた。
「……新しい花嫁、だね」
柔らかな声色なのに、響きはどこか人のものとは異なっている。
「あなたは……?」
問いかけに、少年はゆっくりと口元を綻ばせた。
「ここでは、君のような“生き霊脈”は珍しい」
胸の奥がひやりと揺れる。昨夜、颯真の口からこぼれたばかりの言葉。
何なのかも分からぬまま、再び耳にすることになるとは——。
「怖がらなくていいよ」
少年は花びらをひとひら受け止め、指先で弄んだ。
「僕は……君に害を成すつもりはない。ただ——興味がある」
「……興味?」
「そう。生き霊脈は、世界の底を流れるものと繋がっている。
君が歩くだけで、地の底の水脈が微かに揺れるんだ」
澪花は返す言葉を見つけられず、唇を噛む。
「それは……良いことなの?」
問いかけに、少年の笑みは形を変えなかった。
「見る者によるよ。昨夜のように惹かれる者もいれば……守る者もいる」
風が吹き、花びらが彼の手から離れる。
その瞬間、少年の姿も花と共に淡くほどけ、霞となって消えた。
「……澪花様?」
侍女の声に振り向けば、そこにはただ霊桜が揺れているだけだった。
―――――――――
夕刻、颯真が戻った。
書類を抱え、廊下を歩む姿は隙なく整っている。
「婚姻は形式だ。互いに干渉しない、それが条件だ」
その声に澪花は息を呑む。
「……もし、私に何かあったら?」
「そのために、本棟に移した」
冷たい響きの奥に、一瞬だけ影のような感情が揺れた気がした。
だが澪花がその意味を尋ねるより早く、彼は踵を返し去っていった。
残されたのは、影のない少年の瞳と、二度も耳にした「生き霊脈」という言葉だけ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます