この夏、二度目の殺人を

狗間るか

第1話 新月のおまじない

 魔法の呪文を知っていれば、誰でも一度は唱えてみたくなる。


 だからこの夏、僕は彼女の好きな人を殺して埋めた。


 滴る汗。満足げな笑顔が夜の闇にぽつんと浮いて、僕を見つめていた。



 一


 蝉の声が朝から耳にまとわりついている。地面が揺らいで、吐き気がした。縁側に座ると、いつもこうだ。胸がムカムカして、脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚。


 幼い頃は、この庭にいる幽霊のせいだと思っていた。何かが僕の中に入ってきて、身体中を掻き回しているのだ。汗が全身を覆う。呼吸ができない。お母さんは「熱中症なんじゃないの」って肩をすくめていたけど。

 熱中症の症状に吐き出しそうなほどの恐怖心は含まれているのだろうか。


「これ、おかわりないの?」


 凛とした声が思考を止める。


「なんて?」

「だから、スイカ。おかわりある?」

「……ごめん。それで最後」


 真白さんはシャリ、と最後のスイカを食べ終えた。扇風機が彼女の艶やかな黒い髪を揺らす。彼女は顔にかかった髪を、鬱陶しそうに振り払った。


「そ。ごちそうさま」


 風鈴が蝉に対抗して冷たい音を鳴らした。真白さんは扇風機に顔を当て、ああああと意味のない言葉を発している。白い肌に反射した日光が眩しくて、僕はそっと視線を落とした。胸がムカムカする。


 こうして彼女がうちに入り浸るようになったのは、この夏休みが初めてのことだ。宿題を一緒にやろうと頼まれて、結局勉強せずに空や草木を眺めて帰る。僕はただ隣で座っているだけ。声をかけられたら返事をする。ただ、それだけ。


 吐き気のする縁側で、彼女だけが花のように揺れている。浅い呼吸を繰り返す僕の視界の端で彼女の影が動く。ゆっくりと揺れて、僕の影と重なった。


「ねえ」


 綺麗な黒髪が僕の腕を撫でる。それがくすぐったくて、少し体を傾けた。


「何?」

「新月のおまじない。知ってる?」

「いや……どんなおまじないなの?」


 真白さんは、鋭い目をゆっくり細めた。


「新月に好きな人の死体を埋めるの。で、一晩だけその上で寝ると——」


 勿体ぶるように僕を見つめるから、「寝ると?」と続きを促す。

 彼女は囁くように言った。


「その人が永遠に自分のモノになるんだって」

「本当に?」

「うん」


 だからさ。彼女は扇風機にかき消されてしまいそうな声で続ける。


「私の好きな人、悠飛くんの家に埋めさせて」


 耳元で蝉が大声で鳴いている。真白さんの冷たくて甘ったるい声と混ざり合って、耳の裏を汗が伝った。酸素が脳に届いていない。今にも吐いてしまいそうだ。


「どうして、僕の家なの」

「だって庭が広いし。遠出するのめんどくさいでしょ?」

「意味が分からないよ……」


 日光が僕を焼いて、目眩がした。全身が重い。庭を勝手に掘り起こしたりしたら、お母さんに怒られるに決まってる。それに、ここは何か——

 思考を遮るように、真白さんは口を開く。


「もう殺しちゃったから、お願い」

「ええ?」


 腕に当たる髪の毛が痒くて仕方がない。機械的に「そうなんだ」と口に出して庭を見つめた。


「好きな人って誰?」

「同じクラスの、中原くん」


 中原透。クラスの端で本を読んでいるような、特に印象に残らない人だ。


「どこが好きだったの」

「落ち着いてるところ」


 だって、うちのクラスうるさい人多いじゃん? と真白さんは呆れたように笑った。そして、顔の目の前で大袈裟に手を合わせる。


「お願い悠飛くん。一生のお願い」

「……一生のお願いは先月に使ってたよ」

「そうだっけ? とにかくお願い」


 祈るように僕を見る真白さんは、どこかの物語に出てくる女神みたいだ。とぼんやり思った。


 おまじないが失敗すれば、きっと僕のことを見てくれるかも知れない。僕はただ、彼女と2人で静かに過ごしたいだけだ。ざわつく胸から目を背け、僕は努めて冷静を装って「いいよ」と頷いた。





「重た」


 太陽が完全に沈んだ頃。キャリーケースに肩を引っ張られながら、僕は自身の家へと歩いていた。


 真白さんは、今日の新月に合わせて既に中原を殺していたらしい。一体彼のどこにそこまでさせる魅力があるのか。それを確かめる前に、彼は狭い箱に人形みたいに詰められてしまった。


 家の前の砂利道で、音を立てないようにキャリーケースを持ち上げる。真白さんは忍足で僕の後ろを歩いて「泥棒みたい」と笑った。暗いせいで、彼女の笑顔が見えなくてもどかしい。


「誰か起きてるの?」


 庭にキャリーケースを置く。真白さんがカーテンの下から漏れる光を見て小声で言った。


「お父さんがテレビ見てるんだと思う。いつもすごい酔っ払ってるから、気づかないよ」

「ならいいけど」


 そっとジッパーを引く。体育座りするみたいに詰められた中原は目を閉じている。「殺した」と言われなければ、ただ眠っているようにしか見えない。瞼の下で、彼の目がぐるりと動いた気がして、僕はすぐにジッパーを閉め直した。


「じゃあ、まず穴を掘らないとね」


 そう言って真白さんがスコップで土を叩く。


「昼間に軽く土を柔らかくしておいたから、比較的簡単に掘れると思う」

「意外と不審に思われないものなんだね」

「目の前の人が人を殺してるかもなんて、普通思わないよ」


 頬を伝う汗を拭って、僕は地面を抉った。


「……僕も、真白さんが人を殺してるだなんて思わなかったしね」

「確かに」


 彼女の口元が、ほんの少しだけ持ち上がる。僕もそれに合わせて、口角を持ち上げた。


 蝉の音も消え、父親の笑い声と土を削る音だけが聞こえ始める。近年上がり続けている夏の気温が、僕たちを罰するように熱し続けた。


 事前準備をしていても、人間1人を隠す深さまで土を掘るのは簡単なことではない。真白さんは早々にリタイアして、ハンディファン片手に項垂れている。汗ばんだ肌が光に反射して、キラキラと僕の目を灼いた。


 彼女と目が合って、慌てて逸らした。地面がさっきより暗い。見えないままに必死に土を掘り進める。しばらくして、カーテンの隙間から漏れていた光が消えた。いつしか父親の笑い声もなくなっている。


 真白さんの肌が闇に溶け込んで見えなくなった。僕は彼女の方に視線を向けて、汗を拭う。


「これくらいでいいかな」


 掘ったのは1メートル前後。これ以上は僕の腕が限界だ。既に小刻みに震える腕を反対の腕で押さえる。


 小さな足音と共に、体温が近づいてきた。暗闇の中でうっすらしゃがみ込んだ真白さんが見える。


 彼女は細い腕を穴に入れて、大きく動かした。


「うん。完璧だと思う」


 埋めたことないから分からないけど、と笑った。


 暗闇の中でも一際暗い穴の中を見ていると、胸のむかつきがさらに強くなる。底知れぬ恐怖が喉を駆け上がり、今にも叫んでしまいそうだ。ガチガチと脳に響く音で、自分が震えているのだと分かった。


「どうしたの、悠飛くん」


 真白さんの視線が僕に注がれる。


「怖いの?」


 怖い。僕はこの穴が怖いのだ。入って出られなかったら。たったの1メートルが果てしなく高い壁のように感じて、地面が溶けて僕を飲み込んでいく。そんな想像が頭を支配した。


 目の前の彼女の顔からは、一切の笑顔が消えている。失望されたのかもしれない。


「早く埋めよう」


 彼女の視線から逃げるようにキャリーケースに駆け寄り、ジッパーを引いた。中原を取り出すため、彼の腕に手を当てた。


 空気とは違う、生温かい温度が手のひらに広がった。掴んだ手首が小さく脈打っている。


 耳元で呼吸音が聞こえた。荒い息遣いが鼓膜を揺らす。僕の呼吸だ。

 酸素を取り込めず、二酸化炭素と窒素だけを無意味に吐き出す。うるさい。呼吸がうるさい。この音が家族に、近所の人に、町中に届いてしまいそうで僕は息を止める。


 死んでいる。中原は死んでいるのだ。第一、真白さんの隣は僕の席だ。譲ったりするものか。


 彼がそっと体を引っ張り出す。地面の上を引き摺るようにして、ゆっくり穴の中に中原を寝かせた。


 気持ちが悪い。酸性の液が喉を焼いている。


 僕は彼に土をかけた。ひたすらに。ついに顔が土で覆われた瞬間、口の中がじゃり、と音を立てた。穴を掘っている最中に、土が口に入ったのだ。


 不快感から逃げるように、僕は震える腕で必死に土を戻した。


 何もない。何もしてない。歯がガチガチと音を立てて脳を揺らす。


 いつもの姿に戻った庭で、僕は震える足で玄関へ向かった。喉の奥が熱い。限界だった。


「誰も来ないように、見張っててね」


 背中で小さな声がした。閉まりかけのドアの隙間から、満足げな笑顔が夜の闇にぽつんと浮いて、僕を見つめているのが見えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る