第5話 結
帰ってからが忙しかった。一週間洗濯してなかったから汗臭い服しかなく、取り敢えず着ているものを全部脱いで中古で買った小さな洗濯機に投げ込むと、そのままシャワーを浴びてジャージに着替える。その間、宮地に電話して、もう一度明日の追試のことを頼んだ。
「わっはっは、任せとけ!」本当に頼りになる。俺の頭の中に浮かんでいた、天使さんと叔父さんのことを話そうかと思ったが、こんな慌ただしい状況でついでみたいに言う話でもなく、もう少し整理して慎重な言葉で伝えるべきと考え、思いとどまった。
洗濯機が止まると、乾燥機は無いので明日着るものをその中から選んで、駅の方に少し歩いた先にあるコンビニの向かいのコインランドリーに持っていく。コンビニで弁当買って一旦部屋に戻る。明日着ないものを部屋干しして、弁当かき込んで、三十分後にはまたコインランドリーに回収に行く。それにしても寒いな。急に北風が強くなってきた。何やかんや段取りが悪い上に途中でうたた寝したりテレビを見たりしていたら、十二時を回ってしまった。ふと窓から外を見ると、小雪がちらついていた。ええ!?雪かぁ。慌ててテレビのDボタンを押して天気予報を見ると、都心は曇り時々雪。雪かぁ。もう一回言ってみた。
金縛りに遭う間もないくらい、途切れ途切れの睡眠だったが、早朝目が覚めろくに寝た感じがしなかった。それでも気持ちはハイだった。窓の外には相変わらず小雪がちらついていたが、積もってはいない。重苦しい灰色の空に時間の感覚が無くなった。もそもそこたつ布団から這い出て、昨晩乾かしたばかりのティーシャツ、ジーンズ、ポロシャツを身に纏い、白い靴下を履いた。一人暮らししてからめっきり食べる回数の減った朝飯を食おうと、流しの下の戸棚から田舎から送ってもらったレトルトのお粥を出して鍋にお湯を張り温めた。朝ゆっくり出来ると、気持ちに余裕が出来る。テレビから流れるモーニングショーからは、当たり前だが、現代の話題が流れていて、それを見ていたら少し不安になった。本当にこれから、あの八〇年代の人たちに会って、今はやっていない映画を見られるのか。でも昨日、天使さんは何の疑いもなく、会えると言っていた。大丈夫だろう。俺をこの不思議な世界に巻き込んでいる“意志”に、悪意が無いことを感じていた。理由は分からないけど。ならばそれに身を任せればよい。でも一緒に行くのは俺で良いのか、まあ良いのか。
のんびりしていたら、あっという間に時間が経過してしまいそうだったので、少し早いが、俺は立ち上がった。出掛けに安物のパーカーを羽織り、首元までチャックを上げた。フードが付いているから、小雪くらいならこれでいい。そして何気に本棚から聖書を出すと、鞄に入れた。さあ行こう。ドアを開けると、雪は止んでいた。ひいい、寒。
途中、角のサンドイッチ屋さんをちらっと見たが、いつもの初老の店長が店の中と外を忙しそうに出入りしていた。
向かう電車内は、車両に十数人は立つ程度の混み具合で、思いのほか混んでいた。このままだと十一時前には着いてしまうだろう。少し学内でもぶらつくかなどと呑気に考えていたら、途中の駅でドアが閉まる瞬間、緊張が走った。ぎりぎりで乗れずに斜め前の硝子越しに舌打ちが聞こえてきそうなその男の顔。あの”気流改善装置“のオジサンだった。向こうは俺に気付いていない。ここで会うか。しかし、営業のくせに今日も車でなく電車なのか、どこへ行くつもりだ?まさか。でもそう思い始めると、もう嫌な予感しかしなかった。この時間帯は少し電車の間隔が空く。俺の方が五分以上は早く着くのは間違いない、それからはもどかしく、車内で走りたくなった。ああ、やっぱりお互いスマホが無いと不便だ。ここからチャチャっとショートメッセージでも送れればと思いつつ、何か視線を感じて辺りを見回したが、特にこちらを見ている視線とは合わなかった。
そこから大学の駅までの十分あまりが、一時間近くに感じた。電車を降りて西口の階段を駆け下り改札を出ると、見覚えのある公衆電話を見つけた。そしてあのポストイットを探したが、見つからない。あれ?どこかのタイミングで落としたか?んー、仕方ない。俺は既に記憶している宮地の携帯に電話した。
「何や、非表示やったから出んとこと思ったけどお前か、ちゃんと試験受けたるよ」
「今、どこだ!」
「どうした?いや、部屋居てもダラつくから、学校の図書館でやるかなって、もう入るところや」俺は事情を話した。
「奴らがあそこへ行くとは限らんしたまたまってこともあるけど、その、予定の時間早めたくて、ちょっと俺、あそこの電話番号失くしちゃって」
「そらいかんな、俺のスマホに履歴あるから俺から連絡しとく、変なことにならんと良いな」
「いや、番号教えてくれるだけでいいよ、俺から連絡する」
「ええからお前、早く行け、この時間がもったいない」
「ありがとう」
また世話になってしまった。受話器を置いて、ちょっと心配し過ぎかなと思いつつ振り向いた瞬間、三人の学生風情の男たちが俺を囲んでいた。
「ちょっとお時間良いですか?」そのうちの一人、あの天使さんを囲んでいた時に見た男が真っ直ぐ目を見ながら言った。
「何で…」と言いつつ、両サイドも固められ、距離を詰められすぎて身動きが取れない、抵抗出来る状況でないことを理解した。彼らの肩越しに見えた有人改札。あ、変わった。その先の道端に、一台の黒いバンが止まっていた。そこまで行って後部座席のドアが開けられると、そこにあのオジサンがいた。うわ。それはあの、うちに来た時の頼りなさ気な中年ではなく、想定する中で最悪なラスボス登場だった。あの駅で電車に乗れなかったところから、車に切り替えたのか。電車内で感じた視線、この脇を固めた奴らの誰かが乗っていたのか。尾けられていた?どこから?そして押し込められるようにその横に座らされた。学生風情たちはドアの外で番犬よろしく立っており、運転席にも誰もおらず、俺とオジサンだけ。たまらん。
「嘘はいけないね?」俺の方を見ようともせず、オジサンは静かに声を発した。俺は黙っていたというか、どう言葉を返していいか分からなかった。
「でもそれは良いとして、君は彼女、手石さんと親しいのか?いつから会ってる?」手石さんと特定されるようなことを言われたら、とぼけて白を切るほど大人ではなかった。却って具体的で情を挟まない質問に救いを感じた。
「親しくはありません、会ったのも今月の頭くらいで」
「そうか…私と同じだね、でも不思議なんだよね、彼女、ここにいるはずないんだよね」
「と、言いますと?」これは白を切ったのとは違って、もっと先を知りたかったからというか、オジサンもその先を話したかったことを感じたから。
「昔、それこそ私が君くらいの頃、彼女は僕らの仲間だった。真面目で信仰心も深くて、あのルックスだろ?まあ古臭い言い方だけどみんなのマドンナみたいな存在だった」
「はあ、マドンナ」言いつつ俺は、このオジサンが学生の頃の姿を想像出来ないでいた。でも、そういうことだったか。
「それがある日、急に抜けられてね」ま、知っていると言えば知っている話だった。
「はあ、何か違うと思ったんですかね」
「いや、そうなら仕方ないんだけれどね、それきり彼女は戻ってこなかったし、何度説得に行っても。でも彼女、一緒にいる時は理想に共感して充実して楽しそうにしていたんだよ?」
「だからそれはやっぱりそのぉ、理想ってのが、何て言うんでしょ」どう言ったら気分を害さないか気を遣っている自分がおかしかったが、オジサンは聞こえないように続けた。
「ただ、それを助けた奴がいてね、私たちの方からは、そそのかして引き剥がしたように見えた。だとしたら悔しいし、残念じゃないか」何かそう話すオジサンは、少し寂しそうだった。そして”助けた奴“という言葉が心にのしかかった。
「助けた奴って」
「ま、いいや、その辺は話すと長くなる、でも何週間か前に彼女の姿を見かけてね、驚いた。しかもあの時の姿でね、こっちはこんなオッサンになってるのに、何でそうなっているか理由は分からないけど、でもいるならもう一度説得できないかなと」
「その、長くなるお話を出来れば手短に…」
「あの頃はみんなも組織も若くて、理想に燃えてた。それが今は、組織を守ることにばかり力を注がざるを得ない状況だ。彼女はあの頃の活き活きしていた私らのシンボルみたいだった」
「あ、いや、その助けた奴って」と言い掛けたところで、オジサンの目つきが変わり、初めてこちらを直視してきた。
「君がどういう関係かは知らんが、会うことを拒否されない立場にいるなら、一役買ってもらいたい」
「え?無理です!勝手に皆さんで説得に行ってください、その辺のことは俺だってよく分からな・・・」
「ドアを開けて彼女を呼び出すだけで良い、乱暴なことはしない、話がしたいだけだ、私たちだけではそれすら出来なかったから、頼むよ」乱暴なことをする奴は必ずそう言う。だいたいそんな、きっと本人が望まないだろうことの片棒担ぐようなこと出来るかい。とは思ったが、ちょっと何を考えているか、そして何をしでかすか分からないこのオジサンがこのまま何の成果も無く俺を解放するとは思えなかったし、その表情は、確かに少し懐かしそうな穏やかな表情であり口調だった。閉められたドアの向こうには、きっちり三人の男が立ち塞がっている。宮地の連絡で、彼女らが危険を察知してくれているかもしれないという淡い期待もあった。
そんなわけで、彼らを従えてというか、先頭に押し出された露払いのようにマンションに向かったのは、十一時半過ぎだった。ああ、また小雪が舞い始めた。寒い。振り向くと1mくらい離れてオジサンと三人の学生が付いて来ていて、何でこういう緊迫した状況でそんなことが頭に浮かんだか分からないが、それはまるで吉本新喜劇の舞台のようで滑稽ですらあった。何でこうなる?こんなの想像していなかった。二階までの階段を重苦しく上がった。ああ、ドアを開けたら鈴木さんが出てくれないかな。しかしさっき有人改札があったから、無理か。しかし助けた奴ってまさか。
ドアの前に立つと、俺はもう一回憂鬱そうに振り返った。彼らは鬼気迫る表情で、行け!と無言で手を振った。既に乱暴になりかけている。俺は観念したようにインターフォンを押した。出て来るな、居留守を使え。ちょうど目の前に小さな覗き窓のレンズが見えた。俺はそれに向かって声を出さず“出るな”と口だけを大げさに動かした。そこでバンと、勢いよくドアが手前に開いて、頭をぶつけそうになった。
「あ」
予想もしていなかったその顔に思わず声が出た。
「あ、お前」背後からも声が上がった。
正確に言えば俺の知らない顔。そこに立っていたのは白髪も皴もない、森隆だった。思わず一瞬目線を下げると、そこに踵を踏まれたゴンバースのスニーカーがあった。すると頭越しに首根っこをつかまれ、強引に部屋に引き込まれドアが閉められた。
「お、叔父さ...」混乱した頭で絞り出すように出しかけた言葉を遮って、彼はささやくように言った。
「二人は下にいる、ベランダの避難梯子で一階に降りろ」あのいつも穏やかにのんびり話してくれていた俺の知っている実年期の彼ではなかった。若くて血走ったような、粗削りだけど気勢のある顔。急に心拍数が上がった。
「いや、でも」
「君が来ることは聞いていた、早く!」君?って。彼にすがり付いて色んなことを聞きたい衝動に駆られた。目の端に、壁に掛けられたあの1988年のカレンダーが入っていた。
「その、俺はあなたの将来の・・・」言い掛け、どう見ても同年代の彼を目の前にして、続けて言おうとしていることに自分自身で違和感を感じた。俺が生まれる前の叔父さんが、俺を知らないのは当然の話で、甥だということを説明しているほど長い時間も与えられてはいない状況。
「いいから早く!」ドアを外からバンバン叩く音が聞こえた。
「でも」
「行きなさい」行けではなく行きなさいという言葉に、ひょっとしたら察しているのかなという思いが過った。
「分かった、また後で」
後ろ髪引かれる思いでベランダまで行くと、既に床面から避難梯子が下の階のベランダに降ろされていた。それを下りる手前でもう一回振り向いたが、そこで叔父さん、若い叔父さんは、チェーンをしたままドアを少し開けて、声を上げた。
「お引き取りください!」その勢いに押されるように、俺は梯子を下り始めた。
「何でお前がいるんだ?今だに!」オジサンの声が響いた。その瞬間、頭上が何か大きな光に包まれて、静寂が訪れた。何だ、何が起きた?でも引き返す気にはなれなかった。そして下に降りると、一階のベランダのサッシが開き、出て来た見知らぬおばさん、鈴木さんでもないおばさんが、オーライオーライよろしく梯子に手を延ばしていた。
「どうもどうも、あの子ら、その先にいるから」え、知り合いか?近所付き合いは大事だな。一階のベランダまで降りると、そこのベランダはまるで門のように開いて、上って来た階段とは90度違う細い横道の前に降り立った。ちょっと気になって、表の通りを覗き込んだが、来る前に連れ込まれた黒いバンはいないようだった。どこ行った?消えた?
「ありがとうございます、何か光りましたよね、上」
「さあ、雷じゃない?ほら、そっち」見知らぬ一階のおばさんにそう言われて振り向くと、そこに二人がいて、俺は一礼してそちらに向かった。
「天使さん、早紀さん」俺は二人に近付くと、少し抑えた声で声を掛けた
「遅いぞ!」早紀さんも抑えた声で笑っていた。それを天使さんがその雰囲気を制するように言った。
「ごめんなさい、あたしのせいでみんなを巻き込んで」
「誰もそんなこと思ってません、とにかくここを脱け出そう、ところで・・・」
「そーだよ、天使ちゃん、みんなあなたを助けたいんだよ」
天使さんは恐縮したように目を伏せた、そんな表情を見せられたら自分の聞きたいことは二の次になった。
「分かったでしょ、昔は知らないけど、あいつら最後はああやって力づくでもあなたを連れ出そうとする連中ですよ、今では」と俺も分かったようなことを言ってしまったが、俺よりも彼らを知っている彼女には、俺には分からないまた別の感情もあったかもしれない。天使さんも少し落ち込んでいるように見えたので、それ以上は言わなかった。それにしてもあのオジサンに会ったら、天使さんは気付いたのだろうか。あ、いや、一番聞きたかったのはオジサンではなく叔父さん。
「ところで、あの部屋にいたあの人・・・」
そこにタイミング良くというか悪く、一台のタクシーが止まって俺の質問はまた中断された。
「お、絶妙だね、さすが」早紀さんがちょっとほっとしたように声を上げた。そして後部座席から出て来たのは宮地だった。
「え、なんでお前」
「いや、俺も電話で早紀さんに頼まれてな、何や分からんうちにアプリで頼んで、心配やから来てしまった」何だ?全員集合だ。
「いやでもお前」
「すんごい雷やったな、近いぞあれ、春雷春雷」本当に雷だったか。
「え?ああ、でも試験」
「大丈夫、試験まであと一時間あるし、お前の方が時間無いやろ、行って来い」宮地は面倒臭そうにそう言うと、笑いながら俺を手招きした。そして俺の首に手を回すと、耳元で囁いた。
「天使ちゃん初めて見たけど、なんや、綺麗な人で安心したわ」俺は一瞬、今言うか?という顔をしかけたが、でも、すぐ冷静になった。
「だろ?でもありがと」
早紀さんが後部座席の奥に座り、俺が真ん中、最後に天使さんが座ってドアが閉められた。
「渋谷って聞きましたけど、公園の方から入りますね」運転手が落ち着いて言った。
戸惑う俺をよそに、“お願いします”と早紀さんも落ち着いて返した。そして俺の方を見て、「きれいなお姉さんたちに挟まれていいね?」と言った。天使さんはともかくとして、自分のことそう言うか?と思いつつ、俺はこの短時間で起きた訳の分からない展開に混乱しつつ、後ろを振り返った、すると、手を振る宮地の上、あの二階のベランダから一人の男が手を振っているのが見え、俺は固まった。この世界を生み出し俺に追経験させたのは、あなただね?同世代の俺に語れなくなった代わりに。俺はカーッと目頭が熱くなり、思わず下車して駆け出したい衝動に駆られた。しかし両サイドをがっちりガードされて身動きが取れない。そしてその両サイドは振り向きもしなかった。あたかも全て承知の上とでもいうように。
「あの人・・・」絞り出すように俺は声を出した。
「天使ちゃんを抜け出させてくれたのは、あの人だよ、天使ちゃん推しのナンバーワン」独り言のように早紀さんが呟いた。
「でも、亡くなっていませんよ」天使さんが静かに続けた。
「ああ・・・」この人たちを包んでいるのは過去の空気。その後何が起きたのかは知らないということか。
”叔父さん、今日お彼岸だね、でもこっちに帰ってくるのはお盆だよ、お彼岸に帰って来ちゃだめだよ“
“そうなの?”と返してきた気がした。
俺は黙っている二人の間で、目の端から涙がこぼれそうになるのを感じた。でも拭いたら泣きそうなことがばれると思って、手を動かさなかった。そして必死に、鼻をすするのを我慢していた。俺と同い年の時、あなたはそんなすごいことしてたの?
顔を上げると、車は奥渋辺りを走っていた。少し前から小洒落た隠れ家的に流行っていた場所だったが、貧乏学生がふらっと立ち寄れるような店は無く、まあ通りを歩いて雰囲気を楽しむ程度の場所だったから馴染みもなかったが、確かに憧れはあった。この、住宅街と隣接するような生活感は観光地のような異世界化している渋谷の駅前には無い。あれ?でもやけに普通の通りだな。カフェや飲み屋も少なくなってきた。
「この辺で良いです」早紀さんが運転手に言った。前方に、見慣れない中途半端に高いビルがあった。
「あんなもんありましたっけ?」
「あ、東急本店じゃない?ね、天使ちゃん」天使さんは黙ったまま頷いた。ん?確か取り壊されて新しいビルが建つと聞いたけど・・・普通にデパートの入り口から出入りする人々は一見、何かが変わっているようには感じられない。駅からであろう無料の青いシャトルバスも自然に景色に溶け込んでいる。そもそも現代の渋谷だってそんなに頻繁に来ているわけではないので、変化に鈍感なのは致し方なかったが、どこかで時代が変わったのか。
タクシーを降りると、また小雪がちらつき始めた。ああ、でもまだ“文化村”は無いのか。東急の角の右を見ると、古びた通りが延びていた。
「昔、ハチ公飼ってた上野先生の家、この辺にあったそうよ?」呑気そうに早紀さんが言った。
「え、そんな昔も知ってるの?」
「知ってるわけないでしょ、聞いただけよ!」そう言って俺の後頭部を軽く叩いた。痛くはなかったが、その叩かれた感触でこれが夢でないことを確認しつつ、鈍い灰色の空を見上げると、息が白く空に流れ、首筋から冷気が入って来た。そして二人に先導されるように人込みのセンター街へ入ると、程なくPARCOに繋がるスペイン坂の入り口があった。さっきは気付かなかったが、よく見ると確かに違う。誰もスマホどころか携帯すら持っていない。髪型も服装もうまく説明出来ないが、古いというのとは違うのだがどこか違和感がある。そのくらい微妙な違いか、三〇数年なんて。そんな俺を、時々振り返りながら二人は少し楽しそうな視線を向けてきた、
坂の上のビル。確かにそこに、映画館があった。きっと今は無いはずの。窓口には、それほどでもないが数人が行列を作っている。そこに期待に顔をほころばせるキラキラした目の若者たちが集っている。やっぱりシネコンと違ってこういうの、趣がある。いいなあ。俺が窓口に並ぼうとすると、天使さんが寄って来た。
「指定券、三枚買っといたからぁ」そう言えばさっきから、口を開くのは早紀さんばかりで、黙りこくっていた天使さんから声がしたのにちょっと驚いた。
「ああ・・・え?それはいけません!」俺は慌てて頭を戻した。面目丸潰れだ。いかに貧乏学生とはいえ、こういう場面では一昔前のように男が全部出さないにしても自分の分くらい出さんと。俺は財布を引っ張り出した。
「後でね」早紀さんが笑った。
席に着くと体が暑くなり汗が噴き出した。それを隠すのとせめてもの罪滅ぼしに、俺は三人分の飲み物を買って来て、両隣に渡したら二人はえらく恐縮していた。三人とは言え、女性と映画に来るなんて、いつ振りか。思いながら、初めて会った時からの、天使さんの色んな表情が思い出された。この表情は、叔父さんが見ていたものなのか。どうして俺に見せようと思ったのか。別れた相手の安否を確認してほしいというならわざわざ過去の姿で登場させないで、年齢を重ねた今の彼女とどこかでばったり鉢合わせにすればいいのに。
“あなたの中にも、神様はいるんですよ?”
よもや俺をクリスチャンにしようと思っているのではあるまい。自分がそうならなかったからといって。いや待てよ、あのオジサン達のような連中を撲滅させる為?いやいや、俺はそんな武闘派じゃ無いことは、叔父さんもよく知っているだろう。
彼女の横顔が画面の光に照らされて、半分明るくなり、思わず近距離からそれに見とれた。
そうじゃない。聖書に挟まれていた一枚の映画のチケットを思い出した。こんな風に、したかったのだろうか、普通に恋愛を。その時予告が流れた。
「あ、ベルリン天使の詩・・・」天使さんの表情が変わった。この人だってそう思っていたんじゃないかな。
「次は、これ見に行きたいね?」咄嗟に言葉が出た、
「ありがとう」そう言って彼女もこちらを見た。笑っていたが、少し寂しそうだったその陰りのある顔を見た瞬間、何故だか涙が出そうになって慌てて前を向いてストローをくわえた。
しかし、映画が始まると、ちょっとまた別の意味でハラハラした。黒人差別の意外とどぎつい内容だった。暴力的なシーンになる度、天使さんは「ひどい」と、小声で言っては顔を伏せた。選択間違えたかなとか、画面に向かって“これ以上やるな!”と無意味に念じてみたり、あまり集中出来なかった。それにしても、優しい人なんだな、こういう人、本当にいるんだな、いやいたんだな。ハラハラしながら、この映画がずっと終わらなければ良いのにとさえ思った。上映時間の半分くらい、俺は天使さんの横顔を見ていた気がする。まるでそれが今すべき正しい行為のように思えて。そして今自分の中に、ゴンバースを履いて颯爽とした叔父さんがいることを感じた。
映画が終わった後、さっき来た道を、逆方向に三人でとぼとぼ歩いた。雪は降っていなかったが、相変わらず寒々とした曇り空だった。スペイン坂やセンター街の途中途中の雑貨や服の店に、特に買うでもなく見入る二人は、普通の女子大生だった。あまりこの辺りに来たことが無かったので、今でもやっている店なのかどうか分からない。この人達を包む空気ごと時代が変わっているとしたら、この人たちも俺のことを同時代の人と思っているのだろう、あの人の甥とも知らずに?何の偶然か俺もスマホのような現代を象徴する機器を持ち合わせていないし。この人たちとの時間的ギャップを知って余計に言葉が慎重になって、何を話していいやら分からなくなったが、そんな様子を見ているだけで、何かほっこり満足した気分になれた。そう言えば昼を食っていない。異様に腹が減った。と思ったら三人同時に腹が鳴って笑った。あの時間だから、みんなそうだったのか。
「ちょっと早いけど、何か食ってきますか」東急本店のところで辺りを見回したら、道玄坂の方のビルの看板が目に付いた。“ベトナム料理ブーゲンビレア”俺は二人を見てそこを指差した。ベトナム料理は何度か行っていたので、味は確か、しかも高過ぎず、女性にも人気。
「え?ベトナム料理?おいしいの?」天使さんが警戒するように言った。
「近くのコンビニの店員さんがベトナム人で、一度紹介された店に行ってみたら結構いけました」
「いい情報持ってるね、ナンパとかしてそう、森くんベトナムとか好きそうだしね」」早紀さんはちょっとからかうように言った。どういうイメージなんだ?
「ナンパなんかしてませんよ、いや、今時コンビニの店員なんてほとんどベトナム人…」言いかけてやめた。そうか、まだそんな時代じゃないんだ。
「まあまあ」と二人を階段の方に誘った。“ほんとにナンパなんかしてませんからね”と俺は天使さんにこそっと言ったら”知ってます”と笑っていた。
ちょっと煙草臭い薄暗い店内だったが、タバコの臭いは嫌いではなかった。親父も叔父さんも吸っていたからかな。俺も一時期ちょっと吸っていたが、高くなり過ぎて、貧乏学生には手の届かない贅沢品になった為、辞めざるを得なかった。席に着くなり、片言の日本語の店員に手早く生と揚げの春巻きを頼んだ。
「あのね、渡すものがあるの」天使さんが伏し目がちに言った。
「あらあら、あたしは席外そうか?」早紀さんがからかうように言った。
「いいの、早紀ちゃんもいて?」もちろん席外したところで行くところもない早紀さんは、安心したように席に収まっていた。
「何でしょうか?」俺も改まって居住まいを正した。
「栞です」小さなチェック柄の紙袋を差し出しされた。
「ああ…、覚えていてくれたんですか…」薄暗い店内がぱっと明るくなったような気がした。
「開けてみてごらん?」無言の天使さんに代わって早紀さんが楽しそうに言った。軽く天使さんに頭を下げて中から取り出すと、明らかに手書きで白い百合の花が書かれた素朴な栞だった。端に開けられた穴に黄色いリボンが通されている。
「聖書っていろんなサイズあるから、持っているのとサイズ合うか分からないけど」やっぱり恥ずかしそうに目線を合わせようとしない。俺は鞄の中の聖書を探した。
「え、今持ってるの?」早紀さんが少し大きな声を出した。天使さんもその横で少し驚いたように口を半開きにした。俺は得意そうに笑みを浮かべてそれを取り出し、挟んでみた。
「おお、ぴったりっす」
「よかったぁ」二人は顔を見合わせて手を合わせた。正にぴったりだった。まあこういうものはそんなに色んなサイズがあるとも思えず、偶然というほどでもないのだろうが、何かで自分の嬉しさを素直に表現したかった。栞でなくても飴粒でも、いや小石一つでも、もしそれにこんな一月も会っていない相手への惜別の気持ちが込められていたら、同じ感情だったろう。
「ありがとうございます」深々と頭を下げると、恐縮したように二人も頭を下げた。
「やっと一つ渡せたね」早紀さんが天使さんの方を見て笑った。
「一つ?」もう一つあって、もう一人渡したい相手がいるということか。この人の頭の中はどうなっていて、どう聞いたらいいのだろう。自身を包む過去の世界に入り込んで来た俺も過去の人間という扱いか。であれば叔父さんは現在進行形。
「叔父さん、あ、森隆は、その、どんな人?」早紀さんが答えようとしたが、天使さんが制した。
「落ち着いていて、芯が強くて、それでいて優しい人です、もどかしいくらい」
「そう、やっぱり。森隆の中にも神様はいる?」
「間違いなく」その確信めいた言い方に少し妬いたが、相手の格が違った。そもそも俺がそういう感情を抱いちゃいけない相手なのだ。同格の扱いを受けられる立場を頂けただけで感謝なのだ。
「そんな人知らないって言ったくせに」
「でも亡くなったあなたの叔父さんとはきっと別の方」その声は少し震えているように感じた。それに、まだ亡くなっていない、俺と出会う前の叔父さんだから、別人というのはある意味正しいのかもしれない。
「これから戻ったら、あの人に会える?」
「今日は会えないと思う」
「そうなんだ」それ以上、何を聞いたらいいのか、本当に分からなくなった。
運ばれてきた料理の味は、よく分からなかった。“これで巻くんですよ”と俺はレタスの葉っぱに揚げ春巻きと香草や米の麺を挟んで魚醤を薄めて唐辛子が浮かべられたタレに漬けて食べてみせた。“生春巻きの方は、こっちの少し甘みのあるピーナッツの入ったタレに付けて食べるといいっす”二人は初めてだったにも拘らず、おいしいおいしいを連発していた。
「初めて食べたわ、これ、お米の皮?中国の春巻きと違うんだね?」早紀さんがバクバク食べていた。今時生春巻を知らない女子も少数派だと思うが、この頃はまだ知らない人の方が多かったのかな。
「時々、聖書読んでね?」天使さんが言った。
「あの、もう行ってしまうんですか?」
「うん、実は明日には、ここを離れようと思うの」
「明日!」驚く俺の目の前で二人は申し訳なさそうにまた伏し目がちになった。
「実家に帰るんですか?家手伝うとか」
「うん、まだ帰らない、親ももう少し好きにして良いって言ってくれてるし」
「じゃあもう少しあそこにいればいいのに、俺また行くよ」
「ありがとう、でも、最後に楽しかった」天使さんが穏やかな笑顔で真っすぐこちらを見た。最後という言葉を聞いて、それまで諦めがついて落ち着いていた気持ちにまた火がともった。顔の内側から堪えていた何かが猛烈に噴き出しそうで、顔がぱんぱんになるような感覚に襲われ、頬から口元が震えた。
「関係は、永遠だって、言ったじゃないっすか」
「もちろんそれは変わりません、でも、こうして会えるのは明日までです」意味が分からなかった。
「きっとあたしらじゃ、どうにもなんないのよ、こればかりは」見かねたように早紀さんが呟いた。
「これ以上いるとね?天使ちゃん」早紀さんが天使さんに振ると、天使さんは軽く頷いた。
それからは、いよいよ何を食ってもろくに味がしなかった。酷なシナリオを書いた脚本家を少し呪った。厨房から、鳥がさえずるようなベトナム語が虚しく響いていた。
朝の雪が嘘のように雲が晴れたが、それもゆっくり暮れて、天気のあまり関係無い夜が訪れようとしていた。そしてマンションの前に着いた。
「今日は、ありがとうございました」そう言って、俺はチケット代をそっと差し出したが、受け取ってもらえなかった。さっきのご飯も割り勘だった。
「ゲスなことしないの、綺麗なお姉さんたちに奢られたと思って」早紀さんが笑った。まあこうなることは予想出来た。またお姉さん“たち”と言ったのがちょっと引っ掛かったが。
「森くんの良いところは、少し納得がいってなくても一旦は現状を受け入れる素直さですね」天使さんが穏やかに笑ったので、妙に照れてしまった。
「何かただのアホみたいで、災害時には真っ先に死ぬタイプだね」自嘲気味にそう言葉が出た。
「違うの、理屈に左右されることなく、感じるのを待つってこと、大事なことです」余計によく分からなくなってしまったが、褒められているようで気分は悪くなかった。
「すんません、でも、明日発つなら、色々準備大変でしょ?」
「もう準備は出来てますから」天使さんが言った。
「そうですか」あれこれ詮索する気にはならず、俺は二階を見上げた。今朝の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
「あの人、いないんすよね?」
「うん」
そして遥か空の上に、ほぼ真ん丸の月が輝いていた。マネするように早紀さんが空を見上げた。
「明日満月だね」
「そうなんすか、明日は会えますか?」
それに答えるように、天使さんが言った。
「もう一度、あの公園の景色見たいですね?」あの公園?一緒に行った公園と言えば。
「ああ、天使の梯子見たとこ?でもあれ、いつでも見られるわけじゃないから」明日も会えるのかとちょっと気持が昂ったが、わざと素っ気ない言い方をした。
「天使ちゃんが連れてって、言ってるでしょ!」早紀さんが子供を叱るように言ったので、思わず首を引っ込めた。そうか、昔叔父さんが住んでいた街だし、それで天使さんも行ったことがあったのかな。
「分かりやした、じゃ、出来たら夕方が良いっす」
「駅に着いたら電話するね、番号教えて?」そう言う早紀さんに、俺は特に抵抗もなく部屋の固定電話の番号を教えた。前よりは状況が分かってきたが、やっぱりよく分からない。
「じゃあ、明日」天使さんが笑顔で手を振った。
きっと現代に戻った帰りの電車で心地よい疲れに身を任せながら考えた。叔父さんは彼女が抜けるのに力を貸し、今朝のようにその後の執拗な取戻しからも守り、それはきっと好意があったからに違いないのだろうが、肝心のそっちは成就しなかった。信じているふりはできないなんてかっこつけて。らしいっちゃらしいけど。天使さんにしたって、単に叔父さんにクリスチャンになって欲しいが為だけに手の込んだ栞を準備していたわけでもなかろうに。あの公園で二人で天使の梯子も見たのかな。ああ、もったいない。俺に、そんな切ない思い出を話したかった…だけ?ここまで再現出来るのなら、映画だって何も俺に行かせないで自分で行けばいいのに。一緒に行きたくて行けなかったんだろうから。どこかすとんと落ちて来ないところもあったが、何か微笑ましくもあった。でも、天使さんはこの後どうしたんだろう。普通に考えたら、大学を卒業して、やっぱり田舎に戻った?叔父さんはいなくなってしまったけど、彼女はまだ六〇前後で元気に暮らしているかもしれない。だとしたら、この春の俺の経験を共有したい衝動に駆られた。もちろん、彼女にとっては今更感が強いかもしれないし、ひょっとしたら覚えてすらいないかもしれないが。そう、これは叔父さんの記憶が作った世界だ、彼女の記憶は違うかもしれない。後は彼女らを見送ればいいの?叔父さん。ま、俺も何か良い気分にさせられたような気がするし、明日でサヨナラとなると、少し切ない気分になった。
部屋に戻って宮地に電話すると、追試は問題無く終わったらしい。俺は電話の前に正座して何度も頭を下げた。そしてこちらも首尾よくいったことを報告したら、まるで自分のことのように喜んでくれた。因みに宮地に渋谷のブーゲンビレアという店を調べてもらったが、やはりもう十年以上前に閉店している店だった。
「過去の世界で、天使さんを抜け出させたのは叔父さんらしい」
「え?」きっとその後も取り戻しに来る奴らを撃退していたらしいこと、そして今朝も、あの部屋にいたことも話した。そんなことが、彼岸を前後して起きたというのが、俺の結論だった。あいつは想定した以上に驚いていた。
「映画も、きっと二人で行く話をしていたんだろうけど、行けなかったんだろう。で、天使さんも渡したい栞を渡せず、だったんだろう」
「だろうだろうって、しかしホンマか。でも、どっちの未練も今日お前が解消したからこの話は終わるんか」
「それが全てじゃないと思うけど・・・それに叔父さんの作った世界だから、天使さんの方は未練じゃないかもしれんし、あ、そんで、もう明日にはどこかへ行ってしまうって、で、その前に、ここの公園に来たいって、お前にも話した天使の梯子を見せた公園。お前も最後に挨拶したいだろ?」
「ああ、まあ、早紀さんとはもう他人ではないからな」
「何だそれ」
その晩、シャワーから出ると、電話が鳴った。固定電話のディスプレイに出た番号で、それがみゆきちゃんの携帯からだとすぐ分かった。一月前なら、この電話をどんなに待ち焦がれていたろう。少なくともこの下宿に向こうから掛けて来たのは初めてだった。でも俺は、出なかった。何だかひどく罪悪感にさいなまれたが、とても彼女と話す気にはなれなかった。もちろん、嫌いになったわけではない。彼女が俺に何をしたっていうのか。いつまでも鳴り続ける呼び出し音に耐え切れず、俺は部屋を出た。ああ、俺はいったい何をやっているんだ。本命とも言えない付き合いをしているくせに浮気みたいなことをして。でも確かに、天使さんと二人で付き合っている姿はなぜか想像出来なかった。二人きりで映画に行ったり、ちょっとお酒の入った店に行ったり、そのまま雰囲気に身を任せたり。それは決して叔父さんに遠慮していたわけではなく、まして彼女が聖書オタクだったからでも年上だったからでもなく。もうこれ以上は”そうベトナム料理屋で言った早紀さんの言葉が浮かんだ。そして駅前のコンビニで缶ビールを買うと、路上で一気に煽った明日にはすべて終わる。そして本当に元通りになる。
部屋に戻ると、当然、もう電話は鳴り止んでいた。何回か掛けたのかも知れないが、留守電の設定にもしていなかったので、点滅もしておらず、またまた罪悪感を感じた。俺は部屋の明かりも付けず、歯だけ磨いてすぐ枕を出してこたつに横になった。疲れていたせいか、自然と瞼が閉じた。そうしたら、アレが来た。いや、寝落ちに近い状態だったので、来たのか夢なのかよく分からない。真っ暗な中、また体は動かないが目は開けようと思えば開けられそうだったし首も少し動かせそうだったが、無理に抵抗する元気も無かった。妙な何語か分からない呻き声も頭の中に静かに響き始めた。このまま寝入って、朝起きたら治っているパターンかと思っていたら、ワンルームの、顔から数メートル先の玄関のドアが静かに開いて、人の足が見えたような気がした。その足元はあのゴンバースシューズだった。彼は静かにドアを閉め、鍵も閉め、やがて部屋に入って来た気配を感じた。そして俺の枕元に座ったっぽい。目をはっきり開けていないのでぼうっとしていたが。寝ているんだか起きているんだか分からない状態で俺は語り掛けた。実際に声は出ていなかっただろうが。
“叔父さん、無事映画デート終了しました。それだけじゃない、彼女も渡したいものがあったんだよ、それも確かに受け取った。で、明日あの公園行きたいって、一緒に行ったことあるんでしょ?”彼は何も言わなかったし動く気配も無く本当にもどかしかったが、体がぐったりして動かなかった。
“あの人たち、その後どうなったの?”
それにも答えてくれなかった。そしてふっとその存在を消した。再び自由の利くようになった体を起こすこともなく、そのまま寝入った。夢かな、出て来て欲しいという願望がそんな気配を感じさせてくれたのか、よく分からなかった。とにかくあれ以来コップはプラスチックにした。
翌朝早く早紀さんから電話があり、少し遅くなるということで、駅に着いたらまた電話するとのことだった。宮地も来るよと言ったら、笑っていた。外は弱い雨が降っていた。半分寝ぼけていたので“分かりました”と言ってしまったが、落ち着いてくると、色々聞きたいことや言いたいことがあったので、もう少し早く来てはくれないかと、慌てて電話を掛け直したが、もう繋がらなかったので仕方なく二度寝をした。なので宮地に電話したのは昼過ぎだった。こちらで誘っておいての失態で、あいつは朝からずっと俺からの連絡を待っていたらしく、怒られた。
「んも、お前んとこもあっちにも電話繋がらんし、早よ、スマホ直せ!」
「え?電話くれた?気が付かなかった。うん、もうすぐスマホ直ってくるはずだ」窓から外を見ると、雨にしては明るい空だった。雀もちゅんちゅん鳴き始めている。世間はこれから春真っ盛りというのに、今日でお別れですか。ため息また一つ。そんな昔の歌を思い出した。俺はテレビのスイッチを入れるとすごすご炬燵から起きだし、流しで顔を洗った。後頭部を触ると、寝癖はそんなにひどくない。手櫛で少し髪を整えた。テレビからは昼のニュースで、この雨は昼過ぎには止んで急速に回復し、今晩は満月が楽しめそうだと嬉しそうにお天気キャスターがはしゃいでいた。
待ちきれなかったのか、宮地が昼過ぎには来た。
「連絡来たか」
「だからまだだって、遅れるって」俺は呆れたように中に通したが、もちろんこっちだって普通の心境ではなく、それまでも何度も固定電話をちらちら数分おきに見るような時間を過ごしていた。
「ところでお前、あの人が見たいっつってたその公園、なんつったっけ」
「ああ、この先の美麗ケ丘公園。歩いて五、六分だ、今日見えるかな、梯子」あいつはまるで自分の家のように横になってくつろぎながらスマホを覗き込んでいた。
「いや、それなんやけどな、あの公園、出来たの一九九五年らしいぞ」
「ああ、そうなんだ」
「いや、お前の話やと、あの人たち周りの街や空気も古めかして現れるんやろ?」
「うん、あのマンションに行く時も、あ、初回は違ったけど、二回目以降はずっと、渋谷でも町ごと変わってた。だから俺たちのような未来人に会っている意識が無いって思ってた」
「何でお前が連れてった時、この公園ずっとあったんや?」俺の言いたいことをそのまんま言ってくれた。それに、てことは叔父さんと天使さんは一緒にあの公園に行ってないってことか。
「だから、あのマンションだって初めて行った時は、まあ、急に変わったけど・・・うん、そうだな、いつもだいたいこっちがあっちの世界に入り込んでるもんだとばかり思ってたけど、違うのか?そういや、この街に来たことはあるけどあの公園は知らなかったって言ってたなぁ」
「ひょっとしてあの人ら、今がずっと先の世界だって分かってるんやないの?」
「そうなの?」
「俺に聞くな、こっちが聞きたいわ」そう言われると耳が痛い。核心を曖昧にしながら居心地の良い空気に浸ることを優先した俺のせいだ。でもここまで来たのだからそのまま逃げ切りたいというのが本音だった。
「あの公園、出来る前は何だったんだろ、何か出てないか?」
「いや、それはさすがに、出て来んなあ」言いつつ宮地は必死にスマホをいじっていたが、やっぱり出て来ないようだった。ネット社会といってもこんなどこにでもある街の昔の風景など無くて当然だった。動画を遡っても十年くらいが限界。何かちょっと胸騒ぎのようなものがした。ようやく何となく積み上がって理屈が通り始めていたことがまた根っこから崩れ始めるような不安だった。あの人たちは、叔父さんが作り出した残像じゃなくて、この話はまだ終わりじゃないのか?
「ところでお前、腹減らない?角のサンドイッチ屋うまいんだよ、買ってくるよ」そう言って俺は落ち着かない腰を上げ、一旦部屋を出た。外は雨がやみ急速に暖かくなっていて、目には見えないが湿気を伴った空気のにおいが鼻につき、少しむせそうになった。外からショーケースを指さして買うスタイルの小ぢんまりしたサンドイッチ屋さんには、いつもの優し気なお爺さんが立っているのが見えた。店構えからしてもずいぶん前からあると思われる。ちょくちょく買いに来るので、お爺さんとも何度か会話したことがあった。
「あらいらっしゃい」その穏やかな顔を見て、サンドイッチを選びつつちょっと聞いてみた。
「この先の美麗ケ丘公園って、昔は何だったんですか?」
「ああ、あそこ?古い屋敷の空き家があってね、もう雑木林みたいになってたかな」
「ふーん」ショーケースを見ながら相槌をうつと、ちょっと間を置いてお爺さんが少し言いにくそうに続けた。
「でもあそこね、公園にする前に自殺騒ぎがあってね、大きな木に首括って。結構な騒ぎになったよ、この前の道を救急車が走ってね」
「え?」俺は慌てて顔を上げた。
「発見が早かったから命は助かったみたいだけど、でもそれから首吊りの丘なんて陰で言われるようになっちゃって、ま、そんなことがあったから市が整備して公園にしたっちゅうか、ね、イメージ変えるために、綺麗な名前も付けてさ」
例えその自殺未遂した人が見ず知らずの他人であっても、近所でそんなことがあったと知れば少なからずショックな言葉だったろうが、もしそうでなかったらという一抹の不安が過ぎった。
「いつ頃ですか?」
「ずいぶん前、まだ九〇年代に入るちょっと前だったかな。可哀そうに若い女の子だったよ、事情は知らないけどね」怖くてそこまで聞けなかったことまで答えてくれたが、何か脳天から春雷が直撃したように衝撃を受け、血の気が引いた。唯一の救いは“命は助かった”という言葉だった。そんな無言で動きを止めた俺の様子に気付いたか、お爺さんは慌てて申し訳なさそうにした。
「ああ、ごめんね、嫌な話しちゃったね」
「あ、いえ、そんなんじゃなくて、聞いたのこっちだし、あ、ハムカツと卵、二個づついいっすか」
「うん、ありがとうございます、ほんとにごめんね、引っ越さないでね」
「まさか、大丈夫ですよ、引っ越す金も無いし」そう言って俺は引きつった笑いを返した。まさか、まさかね。
「偶然やろ、全く別人の話かもしれん」言いつつ宮地も顔を強張らせていた。こんな時でも好物のサンドイッチを旨く感じる己の味覚を無理に抑えたくなった。
「そうだよね、俺のタイミング的にばっちしはまっちゃっただけで、金縛りとかに逢っちゃったし」
「命助かったんやから、化けて出るのも変やろ、大体クリスチャンって自殺ダメやなかったけ」
俺もうんうん頷いていた。まあ何も化けて出て来たわけでもない。ただ、あの人はクリスチャンでもない。昨晩の夢か現か分からない状況で重苦しく押し黙っていた叔父さんのことが思い出された。叔父さんと会っていた頃の天使さん、それはまさに今俺が接している彼女そのものだったのかもしれないが、一体何を考えていたか、どんな悩みを抱えていたかなんて、何も分かっていないというか考えたことも無かったことを、改めて思い知らされた。そういえば今更ながらどこか憂いを漂わせていたような気もする。今まで見てきたことの中にヒントはあるのか。
「今日会えるんやから、そんな昔のこと気にするな、最後にそんなこと言わんやろ」
「うん、そうだよな、ところでお前は現代の人間だよな?時々昭和っぽいこと言うけど」宮地に何気に聞いてみた。
「おいおい、俺は二三年の岡田阪神の日本一も知っとるぞ」
「だよな、良かった」
そうして一通り食い終えて、それからはあまり会話もし辛い、得も言われぬ時間を二人ごろごろしながらテレビのながら見で過ごした。日が傾く頃、やっと電話が鳴った。俺と宮地は同時に時計を見て起き上がった。
「やっと来た?」
受話器を取ると、早紀さんだった。
「もう駅っすか?あの、色々聞きたいことがある・・・」努めて普通に話しつつそこまで言いかけた俺を早紀さんが遮った。
「それがね、天使ちゃんがいないのよ」
「え?それって、またあいつらが来て拉致られたとかじゃないよね?」
「違う違う、誰も来てない、ちょっと先に出るって書き置き残ってて、連絡無いよね、大体森くん家の電話番号知ってるのあたしだけだしね」
「で、早紀さん今どこ?」
「とりあえず一人で駅まで来たんだけど」珍しく少し焦った声だった。
「天使さんがいなくなっちゃって、早紀さん一人で駅まで来たって」受話器の口側を押さえて、俺は早口で宮地に言った。宮地はすぐに立ち上がった。
「すぐ行くから、南口の階段下りたところにいて」再び受話器に向かってそれだけ言うと、慌てて受話器を置き、俺も立ち上がって財布や鍵を乱暴にポケットに入れた。
俺たちはこれから何が起きるんだろうという言いようのない不安の中、駅まで走った。何なんだ、この畳み掛けるような、それこそ誰かが安っぽいシナリオを書いたような突然のネガティブな情報の波は。そこまでほんの数分、駅前の踏切の横、階段を降りたところに、早紀さんが一人たたずんでいた。
「ああ、どうも」とぼけた様に彼女が口を開いた。こんな短い距離でも息が切れるし、首筋が汗ばんでいるのが分かった。
「どうもじゃなくて、というかその前に、早紀さん、あなたの生年月日はいつですか?」
「何?レディーに歳聞くの?」もうそんな回りくどい会話を楽しむ気分にはならなかった。
「あなたはいつの時代の人なの⁉」そう言って彼女の両肩に手を置いてゆすった。
「ちょっと!どうしたの?森君、変だよ、今日」
「頼むから、もう俺たちを振り回すのはやめてくれ」
「分かったよ、二〇〇五年の十月十三日、ほら」そう言って彼女はマイナンバーカードを見せた」それは同世代の俺、いや俺たちの予想外だった。そう言えば、さっきかかってきた電話の番号が固定電話のディスプレイに出ていたが、080で始まっていた。この人は携帯を持っている。
「は?あの、じゃ、あの部屋に貼ってあった一九八八年のカレンダーは?」
「あれは、あたしがあそこに行った時から貼ってあったの、オブジェみたいなものって言ってた、あたしも天使ちゃんとは二月に会ったばかりだから、よく知らないのよ、あたしはあの下の階の部屋に母親と住んでただけ」俺はあの、スムーズに脱出を助けたおばさんを思い出した。ああ、あれ早紀さんのお母さん、だから。それにしても、オブジェと言ったということは、天使さんも今が1988年ではないと知っていたということか。
「そうだったの?」
「そうだよ!」その必死な表情は、俺たちを欺いている様子では無かった。この人は、現代の人なんだ。周りを見回したが、確かに街の景色も何も変わっていない。叔父さんが住んでた頃酒屋だったと聞いていた踏切横の店もコンビニになったままだった。今やその前提さえ崩れ始めているがこの人も俺たちと一緒の巻き込まれ型だったのか。”あたしらじゃあどうにもならないんだよね“の”あたしら“が、天使さんと早紀さんではなく、早紀さんと俺だったのかと、その時初めて気付いた。
「おかしいと思わなかったの?部屋にはビデオばかりでDVD一枚無いし、あの人スマホだって持ってないでしょ?今時、ま、俺も今持ってない状態だけど」
「思ったよ?急にいなくなったりするし。でも良い人だから、今時いないくらいピュアで、女性らしくて、話聞いてると落ち着くし、落ち込んでるあたしの話もいっぱい聞いてくれた」
「それは確かに」
「このところしきりに、“もう行かなくちゃ、あたしの力じゃどうにもならないの”って言ってたから、きっと元居たところに戻るんだろうなって」
「てっきり早紀さんも一緒にどこかへ行ってしまうと思ってたけど、でも、元居たところって・・・どこ?」
「あたしはどこにも行かないよ!天使ちゃんがどこへ行くのかも知らないよ!遠くの街か、遠くの時代か、でも、言えないんなら無理に聞く話じゃないでしょ?目の前にいる限り。ただ、あたしにとっては少しでも長く一緒にいてくれたらって人なの!」
必死の形相でそこまで言われると、それ以上質問攻めにする気にも無くなったし、それは正に俺の感情と一緒だったし、そもそも過去の天使さんの何かを知っているのではないかという期待も無くなったことになる。
「天使ちゃん、どこ行ったんだろ、まさかもういなくなったのかな、それとも先にあの公園行ったのかな」心配そうに早紀さんが目に涙を溜めながら眉をひそめた。それを聞いてやおら次の不安が首をもたげてきた。
「その、天使さんはあの公園に行って…」そう言い掛けた俺の手をつかんで宮地が制止した。
「天使さん、何か悩んどらんかった?」
「うん、時々考え事してた。あの人に抜けさせてもらったけど、抜けたのに神様のこととか考えていていいのかなとか・・・あの団体のことも、天使ちゃんは悪く言ってなかったっていうか、少し懐かしそうに話すこともあった。ひょっとしたら、戻りたいのかなって、最近あの人ともよく話し込んでいたし」
「早紀さんに会った時にはもう抜けてたの?」
「うん」
「信仰の気持ちの持って行き所に悩んどったんかな」それを聞いて、俺は初めて会った時、近所の教会に行ったりして勉強していると言っていた彼女の姿を思い出した。そういう事だったのかと思いつつ。
「おまけに叔父さ、いや、モリタカシさんからは、信じている振りは出来ない的なこと言われて・・・」
何でお前そんなこと知ってるんだというような顔で二人がぱっと俺に目を向けたのが分かって、そんな反応が来る準備もせずただ呟いただけだったので、うろたえた。
「あ、あれ?聞いてなかった?よな、っていうか、え?そういうこと?」
「とにかく、あそこ行ってみよう、手遅れになる前に」そう言って宮地は俺たちを促した。さっき、全く別人の話かもしれんと言ったのは単なる気休めで、こいつも同じこと考えていたんだと、今更ながら認識した。
「手遅れって何?」早紀さんはまた心配したように言ったが、俺たちは何も返さなかった。手遅れも何も、もう起きてしまったことは変えようがない。いやまだそれが天使さんだったと決まったわけではないのに、もうそうとしか思えない。それでも万一そうだったとして、命は助かっている。結果は分かっているのだからやっぱり手遅れという言葉はおかしい。なのに何かが駆り立てている。日が傾き始めると一気にそのスピードを早めたように、刻一刻と明るさが落ちていく。もうあそこで天使の梯子は拝めないかもしれないが、そんなことはどうでもよくなって来ていた。
駅前の通りを俺たちは南へまっすぐ無言で早足に歩いた。続く緩やかな上り坂が徐々に足に負担をかけ、暗くなる周囲の景色に思考もネガティブになる。これは、叔父さんが彼岸に合わせて単に叶わなかった過去の片想いを疑似体験させてくれたなどという、メルヘンではない。叔父さん、そこまで見せてくれなくていいよ、いや、見たくないよ、昨日まで一緒にいたあの人のそんな姿、結果命は助かると分かっていても。待てよ?そんな姿になる前に救ってくれということか?もう時間軸がどうなっているか分からないけど、まだ救えるということか?
「急ごう」俺は自分に言い聞かせるように言った。
坂の天辺の公園に着いた時はちょうど陽が沈み、人影も無かった。“夜間の利用はご遠慮下さい”と書いてあったが、入り口は施錠などなく木造の門が開いていた。街灯はあまり無かったが、大きな満月が薄暮の空に明るく上っていた。朝の雨でまだ少し湿っている土を踏み、少しジトっとしたものを首筋に感じながら、小走りし始めた早紀さんを先頭に中へ歩みを進めた。
「天使ちゃん、いるの?いたら返事して!」早紀さんが叫んだのに合わせて俺たちも声を上げた。
「おーい!」
何の返事も無かった。しかし、木立をいくら踏みしめ先に行っても視界は開けず、あるはずのあの円形広場の芝の斜面が無い。そしてうっそうとした木々がひしめくその先に、埋まるように小さな廃屋があった。これは・・・。
「まずい、変わった」俺は前を行く宮地にぼそっと声をかけた。
「変わった?時間が戻ったってことか?」
「サンドイッチ屋の爺さんの言っていた景色だ」
「まずいな、どんどんそっちの方向に話が進んでってるような」
先頭の早紀さんが、廃屋をあちこちから覗き込んだ。
「天使ちゃん、いない?いないよね?どこ?」
俺と宮地は、少し緊張しながら、周りを取り囲む木の上を見回した。いない、いや、いてくれるなよ。こうなったら、今日彼女に会えなくても良い。ああいなかったね、何か分からんが急用で会えなくなって、それでもうこれっきりでもいい。昨日一緒に映画を見て、そのまま楽しい綺麗な思い出のままで終わりにしてくれ。
あたりの木々の枝が風にそよぐ動きに、隙間から差し込む月明かりが反射して、もう全てそのようなものに見えてきてしまい、木の瘤が人の顔のように見えて一々どきっとした。
「あ、あれ!」その早紀さんの声のする方に、俺たちは一斉に目を向けた。廃屋の屋根の上に、動く人影が見えてしまった。一瞬月明かりが当たったその赤いスカートには見覚えがあった。そしてその人は、隣接する大きな楠の枝の上に手元のロープを掛けた。
「何で?だめだ!やめろ!」俺たちは枯れ枝を踏みしめながらそのすぐ下まで走った。外壁には、そこまで登るのに使ったであろう梯子が架かっていたが、屋根の上の人影がそれを手で押して地面に倒した。
「いやあぁ!」早紀さんの声が響いた。太い枝がミシっと音を立て、でも無情にもそれを支えた。
俺たちは目を背け、必死に地面に横倒しになった梯子を掴もうとしたが、震えて手につかなかった。そしてまた見上げた。
垂れた首に前髪が掛かって顔はよく見えないが、見覚えのある赤いスカートを履いた物が、ぶら下がっていた。間に合わなかったという絶望感と、早く何とかしないとという焦りが交錯して、頭がパニックになった。
「救急車!」宮地が叫んだ。
その時、薄い切れ切れの雲が月に掛かり、にわかにその雲間から月明かりが幾筋も分かれて差し込んできた。
「あ、天使の梯子出た」早紀さんが泣き声になりながら、その場に最も相応しくないと思われる言葉を発した。それはまた、何度か見た夕日のそれとは違って、あの物悲しくはあるが安心感のあるオレンジ色の光の筋ではなく、青白く幻想的で、少し心細く不安気ではあるが毅然とした光だった。その一筋の光が、ぶら下がっているものに達した。その瞬間、あたりの木立が物凄い葉音を立てながら姿を消し始め、廃屋も崩れ落ちるように姿を消し、そこから代わりに芝が広がり始めた。俺たちは腰を抜かしたようにそこへしゃがみ込むしかなかった。
「なんや!」目を開けてもいられない竜巻の中にいるような状態で宮地の叫び声が聞こえた。ほんの十数秒のことだったと思う。静けさが戻り、あたり一面に本来あるはずの、芝の斜面が広がっていた。
「戻った」
ゆっくり目を開けると、南に下がった斜面の先に、幻想的な月の薄明光線が見えた。そして数メートル離れた先に、吊るされていた木もなくなり投げ出されたように、天使さんが横たわっていた。俺は駆け寄ってその顔を見た。少しパーマのかかった髪。でも目は瞑ったまま。首には縄で出来た痣が痛々しく残っていた。俺は割れ物を触るように、そっと後頭部に震える手を回し、少しだけ首を上げた。その時、鼻からかすかに息が漏れているのを感じた。
「だ、大丈夫?」
「少し、腕がしびれる・・・」
「もういい、何も言わないで」
「天使ちゃん!」遅れて後ろから駆け寄って来る二人に、俺は遠慮がちに口角を上げて頷いた。それを見て、二人も少し表情を緩めて俺たちから少し距離を取ったところで歩みも緩めた。そして手元の頭がわずかに動き、天使さんが薄目を開けた。
「もう、馬鹿だね、天使ちゃんは、何でそんなことする前に言ってくれないの!」早紀さんが、不始末を起こした子供を叱るように言い、まあまあと宮地が宥めた。彼女は視点を泳がせつつ、軽く咳をしてから口を開いた。
「本当にバカなだね、あたし、周りの人を振り回したり、周りの人に振り回されたり」
「そんなの、みんな一緒じゃないすか」返した俺の声は震えていた。そしてその時、幾つにも散乱した月の光の一筋が自分を照らし、何かが背中にのしかかってくる感覚があった。まだ真後ろまで来ていない宮地や早紀さんでないことは分かった。体温が伝わって来ない。身動きが取れず、起きたまま金縛りに遭っているようで振り返ることも出来なかった。
「あ、森君光ってるよ」早紀さんの驚いたような声が背後からかすかに聞こえた。それが合図のように、自分の周りに何か包み込むように膜が張った感覚があった。
“何で私がここだって分かったの?”
“約束の時間に駅で待っていたけど、いつまでも来なかったから”目の前の彼女に対して返された言葉は、俺の背中から発せられた。
“ごめんなさい、病室で目を覚ましたら、家族がいて、でももうあなたは居なかった”
”僕はそこにいる資格は無いと思った”
”そんな”
その会話は、膜の中にいた俺にしか聞こえていなかったろう。
“あなたのことを受け止め切れなかった、僕の度量の狭さで”すると天使さんはもう少し広く目を開け、俺の方を見た。でもその視点は俺の頭を突き抜けた少し先で合っているように見えた。
“それは私も一緒でしたよ”そう言って力無げな笑みを浮かべた。俺の背後から俺を固定しているものは手を差し伸べるように光を伸ばしてその笑みを包み込んでいった。ちょうど俺の体を通り抜けるように。そして、光の下からあのゴンバースのスニーカーが見えた。軽い衝撃を受けたように、俺は膜からはじき出されるように後ろに振られ尻もちをついた。
雲間から再び満月が顔を出し、斜面の芝を照らした。明るくなった光に、天使さんを包んだもう一つの光はゆっくり紛れていった。
「ああ、さようならだね・・・」背後から、早紀さんのしゃくり上げるような声が聞こえた。
振り返ると、坊主頭の宮地がなぜか合掌していて、本当の僧のようだった。そして何も無くなったような芝の斜面が、月明かりにひっそり照らされていた。
その晩はコンビニで買い物をして部屋でしんみり軽飲みになって、早紀さんもサワーを口にしていて、あ、この人飲むんだと思って少し驚いた。叔父さん用のグラスはもう用意しなかったが、三人で献杯をした。この日見たことは、三人のうちに留めようということになった。言ったところで信じる人もいないだろうし。早紀さんには、俺たちの知っていたことをすべて話した。俺がモリタカシの甥だと知って驚いていた。
「発見が早かったって、やっぱりあの人が見付けたのかな」その早紀さんの問いに、答えを知っている俺はそれとなく答えた。
「そうだったんだろうね、でも、その後二人はどうなったのかな」
「さすがに、こういうことまであったんなら、もう元のようには付き合えんやろ、実際お前の叔父さん、別の人と結婚しとるんやろ」
「そうだなぁ、普通に考えたら天使さんもその後田舎に戻ったんだろうね、あ、早紀さん、福島のどの辺かって聞いてなかった?」
「海の方って言ってけど、ごめん、聞いてない」
「そっかぁ、聞いときゃよかった、でもそもそも二人は付き合ってたんかなぁ?」
「あの人あそこにはよく来てたけど、何かお互い気を遣い合ってるみたいだった、でも、どうなったら付き合ってるって言うんだろ?」その早紀さんの言葉に、はっとした。
「あ、それ、天使さんも言ってた、ああ、あの公園でだ」そんな想いであの言葉を発していたのかと気付かされ、急に胸が熱くなった。早紀さんも感極まったように目に涙をいっぱい溜めた。
「宇宙人やったゆうことにしよ、な、あれはUFOに乗って帰ったんや、きっとそういうことや。やっぱ宇宙人っているんやな!」 と必死に場のムードを和らげるような悪意の無い宮地の言葉の前で、俺は軽く笑うことしか出来なかった。もう終わってしまったことだ、何十年も前に。
それほど飲んでないのに回りが早く、途中からは“まあまあ”とばかり言っていた自分のことをかすかに覚えている。とにかくこれで本当に完結、天使が、天に帰った、いや、叔父さんが強引に回収して連れて帰った、それだけだ、と、俺は一人心の中で呟いていた。でもこの二人と共有出来たお陰で、俺が心を病んでいたせいではないことが証明されたような気がして、感謝の気持ちでいっぱいだった。記憶は薄かったが、早紀さんを駅まで送ったのは覚えている。そして戻ってきたら宮地が俺の部屋で爆睡しかけていたことも。そんな虚ろな状態で話していた。
「でも、何でお前の叔父さん、最後にお前に何も言わんで去ったんやろな、ここまで演出しておいて」それは確かに引っ掛かっていたし、単純に寂しかった。
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