ルナーレイズ
@c0797
第1話 プロローグ
僕には、もう三十年以上経っているのに、忘れられない女性がいます。そんな輩は僕だけではないと思いますが、ジェンダーレスな世の中になったらそういうことも形を変えていくのでしょうか。それはともかくとして、そういう相手はむしろそれほど深い関係に至らなかった場合が少なくないのではないかと勝手に思っています。僕もその人とは会っていたのもひと月足らずで、二人で話はたくさんしましたがまともに手すら握っていませんし、写真一枚残っていません。なのに忘れられないどころか、事あるごとに思い出されて繰り返し記憶の刷り込みが行われるので、いつまでも鮮明にその顔や仕草を覚えてしまっているのです。多少自分に都合良く美化されている可能性は大きいですが。
今更会いたくないと言ったら嘘になるかもしれませんが、もう一度そこへ戻ってやり直したいとかその人と一緒になっていれば今以上の幸せが手に入ったとか、そういうことを言っているのではありません。それはそれでそれなりの形はあったでしょうが、その代わりに今の生活で得られたような幸せはなかったろうと思うと、それも惜しいと思えるくらいに。
ただ、その後色々な経験を積んで、今の妻と巡り逢って長く一緒に過ごせたのも、その女性と出会えたことが、間接的にではあるものの少なからず影響しているのではという気がしているのです。価値観は違っても誠実で強い信念を持ったその人に、同様に誠実に接し続けた穏やかな時間は、少しの勇気を出して手に入れた尊い大切な経験であり、自分の誇りでもあり、その後の自分の生き方の原点になったそんな日々を、自分を見失わないように持ち続けて行きたかったのです。それが今に繋がっているとしたら、その人と対照的に冗談好きで向日葵のように明るい僕の妻も赦してはくれないでしょうか。
そもそも人間は、身を守る一つの術として、痛みを伴った辛い経験の生々しい感覚を忘れる能力を持っていると思っています。そうではないということは、その人と過ごした日々は決して悪い思い出ではなく、年を重ねるにつれいよいよその重みを増していったものと思われます。あの時僕は紛れもなく、その後の人生の方向付けをされるような一生に一度の出会いをしたのです。こんなことはまだこれからも何度かあるのだろうし、ひょっとしたら彼女ともまたどこかで会えるのではと、決して高を括っていたわけではないけれど、無理矢理次の方向を向いた若い頃の浅はかな自分を、今では少し嘆きたくもなります。
あれからあなたはどう生きて、今どうされているのでしょうか。“あなたのことは一生忘れません”と言ってくれましたね?少なくとも僕は一生あなたのことを忘れることはありませんでした。
「あたしね、決めたの。四月から東京の歯医者さんに勤める」
「え、ホント?今の勤め先はいいの?」
「大丈夫、今の先生の紹介なの、だから、三月末にはそっちに引っ越す。国分寺だって」
「国分寺なら割りと近いや」
「うん、森くん家から近いの?よく分からないけど、良かった、知り合い誰もいないし」
六畳一間の、トイレと狭い後から付けたようなシャワー室のある下宿は、入り口は別だったが今時珍しい大家さんの一軒家の二階。隣は空き地になっており、実質駐車場として使われていた。俺は左手で固定電話の受話器を握りながら、右手で小さくガッツポーズを取った。みゆきちゃんは中学の同級生。詳しくは知らないが事情があって小学生の低学年の時に北関東のうちの街に越してきた子で、明るく社交的で美人というのとはちょっと違ったが、誰の目にも可愛いらしいと映るのはいつも笑顔を絶やさないからか、とにかく人気者だった。中三で同じクラスになった時に知り合ったが、別々の高校に行って、お互い電車通学だったから地元の駅で偶然会ってからは、時々待ち合わせして一緒に家まで帰る程度だった。まあその頃から俺はほんのり惹かれ始めていたわけで、まだ携帯の番号も知らなかったがタイミングを見計らっていた。付き合っている人がいるという噂も耳にしていたし。彼女はその後高校を出て、夢だった犬のトリマーを結局諦め、地元の歯科医院で歯科衛生士として働いていた。そして俺は一年前の春から晴れて東京の大学に通い、一人暮らしを始めていた。みゆきちゃんとは実は一回別れている。いや、付き合っていたわけではないので、別れたというのは正確ではなく、タイミングが来ないまま俺が家の事情で高一の冬引っ越しをして家が遠くなり、偶然の出会いも無くなり、連絡を取らない期間が三年くらいあったから、途切れていたというのが正しい。そして今も付き合っているわけではない。一浪して大学に入って迎えた成人式の後の同窓会をきっかけに再会し、初めて携帯の番号を交換し、しかし肝心なことは有耶無耶にしたまま、定期的に連絡を取り始めていたに過ぎない。
「親は良いの?」
「別に良いよって、何かあっても姉ちゃん夫婦が近所にいるから」
「そう、分かった、また引越しの日取りが決まったら教えて?その、片付けるの手伝いに行くよ」ちょっと声が上ずった。
「うん」良かった、断られなかった。山を越えるような大事なセリフは意外と何気ない流れの中で語られるものだと思った。
「ところでまだスマホ直らないの?」続けて出て来た彼女の言葉で話題が次に移ってくれて正直ほっとしていた。実は一週間前くらいに道で落として以来、当たりどこが悪かったのか急に電池の減りが早くなり、ついには電源が入らなくなってしまい、今、修理に出している。
「うん、買い替える金も無いし、でも思ったより不便じゃ無い」
「そう、そうなんだ‥ところで、少しは元気出て来た?」また話題変わった?
「何が?俺はいっつも元気だけど」
「その、東京の叔父さん、残念だったね」
「ああ、もう、だから前も言ったように何て言うか実感無くてね、自分でも驚くくらい悲しくなくて、俺、冷たい人間なのかな、ま、そんな訳で、ずっと元気だよ?」
「そう、冷たい人間だとは思わないけど、まだ実感湧かないんだね。あたしも、昔お世話になった人が亡くなった時、何も感じなかった、小さい頃だったからかな」
そんな電話があったのは、南向きにある小さなベランダから満月が綺麗に見えた、三月の初めのことだった。昼過ぎから雲が出たせいか時折月が隠れたが、少し経つと雲間から月明かりが差し込むような幻想的な景色が見えたのは、運良く近くの街灯が故障していたせいか。
「満月綺麗だね?そっちでも見えてる?そう言えば今日夕方ね、常磐ヶ丘で天使の梯子見えたよ、朝雨降ってて、昼から晴れたでしょ?」
「ああ、東京は降ってないけど、あれ、天使の階段って言う人もいるよね、正確には薄明光線って言うんだってこないだ大学の先生が言ってた」
「そういう言い方、夢が無いね、でもすごいね、勉強してんだ」
「あ、ごめん、でもすごかないよ、仕事して税金納めてるみゆきちゃんの方が世の中の役に立ってる」離れていても同じ満月を見ていることに、何かほっとするものを感じた。
「もう三月だね」しみじみ彼女が言った。
「そうだね」
「あたしこの町来たの三月だったから、何かいろいろ思い出す。こないだも前の街の近所の人に遊んでもらってる夢見た」
「ふーん、三月だったんだね」思えば、彼女のこと,俺は何も知らないな。いつも場当たり的にその時の会話を繋ぐだけで、その日もそんな調子で電話は終わった。はあ、それにしても今日も言えんかった。異性間の友情というものに懐疑的だった俺は、もう白黒はっきりさせて、限りなく可能性の高い黒ならきっぱり区切りを付けようと、年明けくらいから考えていたのに。でも東京に出て来るって、白の可能性もあるってことか?
慕っていた叔父さんがすい臓がんで急逝したのはちょうど同じ頃、昨年十二月のことだった。まだ五十代半ばで、結婚はしていたが子供はおらず、兄の子で甥に当たる俺に、時には本当の親のように、また時には兄貴のように接してくれた。だから俺も、親には言えないような相談をよくしたし、仲の良い先輩みたいだった。映画好きになったのも、中高と陸上部で短距離をやったのも叔父さんの影響だったが、今思えば部活は何か球技をやれば良かったと思っている。とにかく本当に急だったので、悲しいというより茫然としてしまって、何か自分の体の一部が突然抜け落ちてしまったような違和感と少しの虚無感だけが残った。一浪して天下の東大の理系に受かっていたので頭の良い人だったのだろうが、尊敬していたというのとはちょっと違い、可愛がってもらったので、単純に良い印象しかなかったし、何かと波長が合うというか、話していても黙っていても一緒にいる空間での間が合った。卒業してからはそれほど有名でもない会社にこつこつ勤め、普通にサラリーマンをしていて、偉くなったという話も聞いたことがなく、兄に当たるうちの親父などは、苦労して良い大学に入ったのにもったいないとよく言っていた。良い学校出て有名な会社で働くというのと、違う価値観で生きているような人だった。今ではそれも普通のことだったが、親父や叔父さんの若い頃はバブルとか言われていたようだし、その後訪れた泡が弾けて就職難になった時も含めて、今よりもっと脂ぎった時代だったのだろう。とにかく実際学歴を自ら口にする事は無く、もちろん鼻にかけたり周りを見下しているところも無く、物知りで話は分かりやすく、穏やかで静かな人で、かと言って無粋なわけでもなく人の良さそうな遠慮がちな笑顔を絶やさず、一緒にいると妙な安心感があった。成功体験のある人というのは、ひねくれていないものなのだろう。この世から居なくなったあの日以来、どこか世の中の色が鮮やかさを失い、褪せて見えるようになった。
ま、みゆきちゃんが出て来たら、また色彩が豊かさを取り戻すかもしれない。笑顔で迎えよう、今のところまだ「昔の同級生」として。
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