第13話『第十二章:過去からの声』



小説『存在しないわたし!と存在するわたし』

第十二章:過去からの声


監房での日々は、単調な繰り返しだった。

起床、食事、点呼、消灯。

そのサイクルは、まるで精密な機械のように、一分の狂いもなく繰り返される。


しかし、「0001」にとって、それは苦痛な時間ではなかった。

彼女は、この単調さの中に潜む、無数の情報を貪欲に吸収していた。


食事の配給口から聞こえてくる、遠くの食器の音。

そこから、他の囚人のおおよその数を推測する。

(…少なくとも、30人以上はいる)


廊下を巡回する看守の足音の数と、その間隔。

そこから、警備体制のパターンと、手薄になる時間帯を割り出す。

(…深夜2時から4時の間。巡回は一時間に一度。ルートは常に同じ)


彼女は、与えられた法律書を、ただ読んでいたわけではなかった。

その分厚い本のページを、一枚、また一枚と丁寧に破り、支給される水の僅かな湿り気を利用して、壁に貼り付けていったのだ。

条文、判例、そして彼女自身の思考の断片。

監房の壁は、いつしか、巨大な思考実験のためのホワイトボードへと変貌していた。


『目的:システムの完全掌握』

『手段:①内部協力者の確保 ②管理者権限の奪取』

『障害:堂島(物理的支配)、鬼頭(情報的支配)』


彼女は、もはや囚人ではなかった。

この島のシステムという、巨大な城を内側から攻略しようとする、孤独な戦略家だった。


その様子を、監房に設置された監視カメラのレンズが、冷ややかに捉えている。


管理棟、看守長室。

堂島は、モニターに映し出される「0001」の姿を、苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。

壁に貼り付けられた、無数の紙片。

その前で、まるで何かに取り憑かれたように思考を続ける、灰色の囚人服の女。


暴力は、彼女を屈服させなかった。むしろ、覚醒させてしまった。

ならば、どうする。


(弱点…あの女の、弱点はどこだ?)


堂島は、鬼頭から引き渡された「0001」のパーソナルデータに、再び目を通した。

輝かしい経歴。圧倒的な支持率。そして…一枚の写真。

10歳くらいの、愛らしい少女と、幸せそうに微笑む、若き日の早見瑤子。


【家族構成:長女・生花(13)】


(これか…)

堂島の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

だが、娘を人質に取るのは、最終手段だ。事を荒立てすぎれば、東京の鬼頭が何を言ってくるか分からない。

もっと、静かに、じわじわと精神を蝕む方法はないか。


堂島は、さらにデータをスクロールした。

【職歴:テレビ局アナウンサー】

そこに、彼女がかつて担当していたニュース番組の録画データが、アーカイブとして添付されていた。


(…ほう)

堂島は、名案を思いついたとばかりに、ほくそ笑んだ。

プライド。それこそが、あの女を支えているものだ。ならば、その源泉を汚し、過去の栄光を、現在の惨めさを際立たせるための拷問道具に変えてやればいい。


彼は、部下を呼び、短い命令を下した。

「全監房のスピーカーに、この音声を流せ。一日中、繰り返しだ」


監房で、思考を続けていた「0001」の耳に、ふと、ノイズが混じった。

壁に埋め込まれたスピーカーから、何かが流れ始めている。


それは、音楽ではなかった。

人の声だった。


『――こんばんは。『ニュース・フロンティア』、早見瑤子です』


その声を聞いた瞬間、「0001」の動きが、ぴたりと止まった。


忘れるはずもない。

若く、張りのある、理知的な声。

かつて、日本中のお茶の間から信頼を集めた、完璧なまでのアルト。

それは、10年以上も前の、アナウンサー時代の自分自身の声だった。


『次のニュースです。政府は本日、新たな少子化対策を発表し…』


スピーカーから流れる、淀みない、美しい声。

あの頃の自分は、光の中にいた。

スポットライトを浴び、人々の期待を背負い、正しい情報を伝えることに誇りを持っていた。


しかし、今、その声を聞いている自分はなんだ?

名前もなく、番号で呼ばれ、薄汚れた監房の壁に、法律の切れ端を貼り付けている、一人の囚人。


『…以上、今日のニュースをお伝えしました。担当は、早見瑤子でした』


過去の栄光と、現在の絶望。

その残酷なまでのコントラストが、鋭い刃となって、「0001」の精神を切り刻み始めた。

これは、堂島の仕掛けた、新たな心理戦だ。

暴力よりも、遥かに陰湿で、効果的な。


(やめろ…)


彼女は、耳を塞いだ。

だが、声は、頭蓋骨の内側に直接響いてくるようだった。


(やめてくれ…!)


冷静だったはずの思考が、乱れ始める。

壁に貼り付けた紙の城が、ガラガラと音を立てて崩れていくような感覚。

「0001」として確立したはずの自己が、過去の亡霊によって、侵食されていく。


彼女は、床にうずくまった。

膝を抱え、ただ、過ぎ去った日々の残響に耐えるしかなかった。


堂島は、モニターの前で、その光景を見て、満足げに頷いていた。

「そうだ。思い出せ。お前が、どれだけ惨めになったのかをな」


支配の天秤が、再び、大きく揺れ動いていた。

静かな監房に響くのは、かつての栄光を語る声と、一人の女の、押し殺したような嗚咽だけだった。

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