第2話『第二章:偽りの凱旋』
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### 小説『存在しないわたし!と存在するわたし』
**第二章:偽りの花冠**
絶望という深い水底に沈んだ瑤子に、影山は水面に揺れる月光のように、優しい言葉を投げかけた。
「もちろん、あなたの三度目の春は、私たちが万全にお支えします。何も、ご心配には及びませんよ」
「……それは、どういった、意味でしょう」
かろうじて絞り出した声は、水に濡れた羽のようにか細く震えていた。
「あなたは、勝たねばならない。それも、誰もが祝福するような、圧倒的な春を迎えなければ」
影山の目は、まるで夜の湖のように、その奥に何を湛えているのか窺い知れなかった。
「ですから、あなたはこうおっしゃってください。『わたくし早見瑤子は、政府の進める『ゆりかご計画』に、心の底から、反対いたします』と」
「え……?」
瑤子は、自分の耳を疑った。正気ではない。この人は、自分が大切に育てている計画に、自らが選んだ守り人に「否」を唱えろと言うのだろうか。
隣に佇む鬼頭が、氷を溶かすような静かな声で言葉を継いだ。
「人々は、この『ゆ-りかご』に、まだ少し戸惑いを覚えています。その不安な心に、寄り添う方が必要です。そして、政府に唯一、愛を持って異を唱えることができる清らかな方。それが、あなたの役目です、早見先生」
脳の片隅で、その恐ろしくも美しい企みの全体像が、ゆっくりと形を結んでいった。
これは、壮大な物語。国民の不安や戸惑いは、すべて「早見瑤子」という慈愛の器に注がれ、清められる。そして、彼女が圧倒的な祝福の中で勝利することで、人々は「私たちの祈りは届いた」と安堵するだろう。
けれど、本当は、彼女はもう影山の手の中にある優しい小鳥。選挙の後、彼女が「熟慮の末、この計画の温かさを理解いたしました」と微笑めば、あれほど反対していた彼女が言うのならと、人々の心も春の雪解けのように和らいでいくに違いない。
「あなたは…この国の人々を、まるで子供のように…!」
「国を想うとは、そういうことですよ」
影山は、静かにそう言った。
「あなたは勝利という花冠を手にし、私たちは計画を滞りなく進める。あなたは光のあたる場所で喝采を浴び、三度目の春を迎える。悪いお話ではないでしょう?」
瑤子に、もう選べる道はなかった。断ればスキャンダルという茨の道。従えば、人々を偽る共犯者として、偽りの栄光をその手にする。どちらも地獄だったが、後者にはまだ、政治家として息をしていられるだけの、微かな光が残されているように思えた。
(このまま、本当に勝ってしまったら? 人々の圧倒的な想いを背中に受ければ、この人たちに逆らえるかもしれない…)
淡い、けれど抗いがたい希望。その黒い蜜のような希望が、枯れたはずの心にぽつりと芽生えた。
「……分かり、ました」
その一言を口にした瞬間、瑤子の内側で、何かが静かに壊れ、そして何かが歪な形で芽吹いた。
早見瑤子の選挙戦は、まるで熱病のようだった。
彼女は、街角に立ち、カメラのレンズの向こうにいる無数の瞳を見つめ、心の奥底からの叫びであるかのように語りかけた。
「政府の『ゆりかご計画』は、人の心を置き去りにした、あまりにも寂しい計画です! この国から、自由という名の温もりを奪ってしまいます! わたくし早見瑤子は、あなたの声の代弁者として、この身を捧げて反対し続けます!」
その姿は、悲しいほどに美しかった。大きな力に、たった一人で立ち向かう聖女。メディアは彼女を英雄と讃え、世論は彼女の優しい小舟に乗り込んだ。影山政権への冷たい風が、すべて彼女の追い風となった。
彼女は、自分が完璧な嘘のヴェールをまとっていることに、時折めまいを覚えた。聴衆の熱い眼差しが、まるで自分の欺瞞を縫い留める無数の針のように感じられた。
そして、開票の日。
瑤子は、過去最高の票数という名の花束を抱いて、三期目の春を迎えた。
テレビ局のスタジオ。万雷の拍手の中、胸に「当選確実」の真っ赤な薔薇を飾られ、彼女は満面の笑みで人々の祝福に応えた。鳴り止まない「瑤子コール」。
(そうだ、この人たちを騙しているんじゃない。この人たちの想いがあったから、私は勝てた。この声があれば、私は戦える…!)
一瞬、引きつりそうになる唇を意志の力で綻ばせ、彼女はカメラに向かって完璧な角度で深く、深く、頭を下げた。偽りの花冠。その意味が、反転するかもしれない瞬間だった。
その夜、祝賀会の喧騒が遠のいた頃、瑤子の携帯が静かに鳴った。鬼頭からだった。
「おめでとうございます、先生。素晴らしい春でしたね。早速ですが、明日の朝一番に官邸へお越しください。ゆりかご委員会の、最後の会合です」
事務的な声には、何の温度も感じられなかった。
(ここからだわ。ここからが、本当の戦い)
瑤子は自らを奮い立たせた。人々がくれたこの議席を、ただのお飾りにするつもりはない。
翌朝、瑤子は決意を胸に、官邸の扉を開けた。部屋には、影山と鬼頭、そして委員会の主要な顔ぶれが揃っていた。
「見事な勝利だったな、早見先生」
影山の言葉に、瑤子は毅然と顔を上げた。
「総理。国民は、わたくしを通して、この計画に『いいえ』と答えました。この民意という名のさざなみを無視することは、民主主義という名の湖を濁らせることに他なりません。計画の即時凍結、あるいは白紙撤回をお願い申し上げます」
これこそ、人々に選ばれた自分の使命だ。瑤子は、再び光を取り戻したかのような気さえしていた。
だが、影山の表情は、凪いだ水面のように静かだった。
彼は、まるで価値のない石ころを見るような目で瑤子を見つめると、ゆっくりと唇を開いた。
「あなたは、まだ何もお分かりでないようだ。本当に、可哀想な人だ」
「何ですって…?」
「あなたの選挙での『役目』は、もう終わったのですよ」
影山は、テーブルの上の一つのボタンを押した。壁面の大きなスクリーンに、ニュース速報の映像が映し出される。
『速報です。超大国連合E.A.P.A.、日本に対し大規模な経済制裁を発動。事実上の、経済戦争が始まりました』
アナウンサーの切羽詰まった声が、部屋の静寂を切り裂く。瑤子が呆然とする中、影山は続けた。
「我々は、E.A.P.A.との見えない戦争に突入する。この非常時において、国の足並みを揃え、内部の『不純物』を取り除くことは、もはや選択ではなく、国を守るための絶対条件となった」
スクリーンに、新たな文字が浮かび上がる。
『政府、国家非常事態を宣言。『次世代のためのゆりかご計画』の即時発動を閣議決定』
「そんな…! お話が違います! 国民は反対したはずです!」
「平時の民意など、嵐の前では何の役にも立たない」
影山は立ち上がり、絶望に顔を歪める瑤子の前に立った。
「そして、この計画を進めるにあたり、人々の心を惑わせ、国の和を乱した『扇動者』には、相応の責任を取っていただかねばなりません」
「扇動者…? わたくしが…? あなたがそうしろと…!」
「我々はあなたに、皆の心を穏やかに導く『羅針盤』の役をお願いしたはずです。ですがあなたは、人々を煽り、計画に反対するご自身の選挙に、その役目を利用された。違いますかな?」
鬼頭が、瑤子の選挙演説の映像をスクリーンに映し出す。そこには、政府を激しく非難する、聖女の姿があった。
すべてが、仕組まれていた。
選挙に勝たせることすらも、彼女を社会から消し去るための、長い長い物語の序章に過ぎなかったのだ。
彼女を「国を乱す扇動者」の象徴に仕立て上げ、非常事態を理由に摘み取る。その脚本は、最初から完成していた。
蜜は、毒だった。
羽をもぐためだけに与えられた、甘い毒。
「あなたは、もはや議員ではない。国に背いた、ただの人です」
影山の宣告が、瑤子の心を貫いた。
「鬼頭君。この方を、お連れしなさい」
鬼頭が、音もなく瑤子に歩み寄る。そして、彼女のジャケットの襟に付けられた、まだ真新しい議員バッジに指をかけ、そっと剥ぎ取った。黄金色のバッジが、小さな悲鳴を上げて床に転がった。
「どこへ…どこへ連れていくつもりですの!」
腕を掴まれ、引きずられながら瑤子は叫んだ。
「決まっているでしょう」
影山は、生まれて初めて見るような、心の底からの哀れみの目を彼女に向けた。
「あなたがその口で反対し、その手で『温もり』を加えてくれた、素晴らしい場所へですよ。あなたが、その最初の住人となるのです」
「被収容者番号、0001としてね」
偽りの花冠は、絶望の連行へと変わった。
光のあたる場所から、光の届かない場所へ。
スポットライトを浴びて『存在するわたし』は、こうして消された。これから始まるのは、誰にも知られることのない、『存在しないわたし』の物語だ。
早見瑤子という政治家が、この世から消された、瞬間だった。
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