婆湯
これは江戸時代の話だ。
隣村に嫁いだ娘の様子を見に、年老いた母がやってきた。
夏の暑い盛りである。強い日差しにやられて喉がひどく渇いていた。
老婆は流れる汗をぬぐい、村で一番大きな屋敷の門を見上げた。ここなら井戸があるだろう。この年寄りに情けをかけるていどの余裕もありそうだ。
門をくぐり、曲がった腰をさらに折り曲げるように頭を下げて水を所望した。
家人の男は汚れた着物の老婆をじろじろ見まわすと、口の端をゆがめて屋敷の奥へ引っこんだ。
ずいぶん待たせた末に盆を持って男が戻ってきた。お盆にのせていたのは、湯気がもうもうと立ちのぼる湯呑だ。中身は煮えたぎるほどの熱湯である。
老婆の前に盆がドンと置かれた。
喉の渇きに耐えきれぬ老婆は、必死に息を吹きかけて冷まそうとする。
しかし、なかなか湯は冷めない。器も熱くて手がつけられず、何度も手にとろうとして、そのたびに置きなおす。「あつッ! あつつッ!」と繰り返し小さくうめく。
その滑稽にあわてふためく様を見て、屋敷の者たちは手を叩いて笑い転げた。
屋敷中からの
やがて、きっと顔を上げて屋敷の者たちを見すえた。
ぎゅっと両眼を閉じる。次の瞬間、えいやっと煮えたぎった湯を一息に飲み干した。湯飲みを叩きつけると黒い血を吐いて倒れた。
息絶える間際、こう言い残した。
「おぬしらも、同じ目にあわせてやる……」
それ以来この村では、水にまつわる奇妙な怪異が起こるようになった。
この話は、村に住む祖母から何度も聞かされていたことだ。
冷やしていたはずの麦茶が気づくと冷蔵庫の中で煮えている。
プラスチックケースの中の配達された牛乳が、いつのまにか吹きこぼれている。
そんなことが数年に一度、忘れた頃にやってくる。
朝、歯を磨いた後に口をゆすごうとコップを手に持ったら、注いでいた水がいつの間にか煮えたぎっていることもある。水を使うとき少しも油断できない。
そしてこの村で家を新築し、初めて風呂の湯をわかしたときは必ず沸騰しているそうだ。数年前に建て直した親戚の家も、温度設定をしていた給湯器のはずなのに、いつの間にか浴槽に煮え湯が溜まっていたという。
水を求めて死んだ老婆の怨念は、今もこの村に生きている。
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