首なき覇王
湊 マチ
第1話 山崎の密命
雨上がりの京は、土の匂いと血の匂いが、同じ湿り気で鼻に絡みつく。
山崎の戦のあと、羽柴の陣は勝鬨の余燼をまだ抱え、煮えた粥の湯気にまで鉄の味が混じっていた。
呼び出しは夜半であった。だが通されたのは、夜明け前の味噌蔵だ。
堀井政景は扉の内側で一瞬だけ目を閉じ、鼻で確かめた。味噌の塩は音を吸う。密談には向いている。
そして、塩は湿りを好む。——今夜は長くなる。
「政景、座れや。膝、固なってるぞ」
紺の直垂に汗ひとしずくも見せぬ男が、樽の上に胡坐をかいた。羽柴秀吉。
笑っているが、目だけが笑っていない。いつものことだ。
「承り候」
政景は袖を押さえて膝をつく。脛の泥はあえて落とさずにいた。外を歩いてきたばかりだと相手が思えば、余計な問いを減らせる。
「単刀直入に言う」
秀吉は味噌樽に置いた扇で、三度だけ空を切った。三は“内密”の合図。
「信長公の首を——探せ」
政景は頭を下げたまま、蔵の空気の流れを読む。扉の隙間から風は入らない。背後には見張りの気配なし。
つまり、この場の言葉は羽柴本人の本心だ。見せたい誰かのために語る言葉ではない。
「弔いのため、にございまするか」
あえて表向きの言葉を先に置く。
「そうもある」
秀吉は扇を閉じ、膝に立てた。「が、信長公の死を、天下に『定める』ためでもある。首は証文じゃ」
証文。政景は胸の内でその二字を反芻した。
死は噂で足がつく。だが権力は、噂では動かない。
——首は札判だ。誰が家督を継ぐか、論の前に札を出した者が勝つ。
「ただし見つけても騒ぐな。わしの耳にだけ入れよ。他の誰の耳にも入れるな」
「はは」
政景は秀吉の足袋に目をやった。白。泥は薄い。さっきまでは板間にいた。
だが、秀吉の右袖口に細かな黒い粉が付いている。灰だ。それも、灰の粒が細かすぎる。木ではない——漆の灰だ。
昨夜、何か漆塗りのものが焼かれた。陣の旗竿か、箱か。
首を入れるなら、箱だ。
「政景」
秀吉が声を落とす。「三条に“首”が晒される噂が流れとる。朝には人が集まるやろ。——見に行け」
「承知」
政景は下がろうとして、あえて一歩だけためらった。
「なお、ひとつだけ拙き推量を」
「言え」
「首がもしすでに京を離れておれば、この密命は『探す』ではなく『追う』に変わりましょう。されど殿は『探せ』と仰せ。すなわち、首は——今この京畿に在る、と殿は読んでおられる」
秀吉の口端に、魚の骨を見抜いた猫のような笑いが走った。
「おのれ、口が立つのう。ええか、首は在るか無いか、その間もまたある。わしが欲しいのは“定め”や」
——在るか無いか、その間。
政景は深く頭を下げ、蔵を出た。
◇
夜明けの露は冷たいが、京の空気は温い。
三条大橋に近い辻には、夜明け前だというのに、もう人の気配がある。噂は足が速い。政景はそれより速く歩いた。
露店の男が火を起こしている。火の手元に、赤く焼けた鉄。焼印だ。
政景は素知らぬ顔で近づいた。焼印は「足軽組」の印。晒しものに印を押すためのものだ。
露店の男はすぐに目を伏せた。政景の身なりを見て、武家と悟ったのだ。
「今朝は何か、晒しが?」
「は、はあ。なんでも……」
男は声を落とした。「信長公の首が、来るとか来んとか」
「首が来るなら、何ゆえ焼印がいる」
政景は火の近くに立ち、鼻をかすかに鳴らした。香の匂いが強すぎる。白檀ではない。沈香——しかも上等。
晒し者に焚く香としては、過ぎている。死臭を押さえるといっても、これは“人に見せる香り”だ。
「う、上からの命で……」
露店の男は額の汗を袖でこすった。「早朝に、町方が印と香を用意せいと」
政景は焼印の柄に残った灰を指先で払った。細かい。これは昨夜焼かれた漆だ。
焼印が昨夜使われたなら、今朝使うというのは「前例」の偽装にすぎない。
——今朝の“首”は、見物を集めるための舞台装置だ。
ほどなく、ざわめきが川の流れのように押し寄せた。
担がれてきた木箱。四角い、黒塗り。銀釘が四辺に打ってある。
銀。腐敗を抑えるために使うことはある。だが、役人が用意する箱に銀釘はぜいたくだ。
「箱を降ろせ」
町奉行配下の同心が声を張る。政景は列から二歩下がり、人並みの肩越しに細部を見る。
同心の草鞋は濡れていない。川縁にいたなら濡れるはず。つまり、箱は川からではなく、陸から運ばれた。
陸から来たのに、箱の底には藻が付いている。藻の色は黒ずみ、生乾き。昨夜のうちに水に浸けられ、今朝には乾ききらぬ。
——これは「水から来たように見せる」ための偽装だ。
箱の蓋が、ぎり、と鳴った。沈香の香りが一段と立つ。
布。白。布目は細かい。堺縞。堺の出。
布をほどく同心の左手が、わずかに震えた。香が強すぎるせいで、目に沁みている。
晒された首は、たしかに信長の顔をしていた。あるべき威がある。
群衆が息を飲み、次いで悲鳴とも歓声ともつかぬ音が広がった。
政景は、目ではなく鼻で確かめた。
血の匂いが薄い。切断が新しければ鉄の匂いが立つ。昨夜のものとしても、もう少し。
代わりに立つのは油の匂い。髪に塗られた油が過ぎる。髷の形は「具足の下に結う形」ではない。
——これは戦装束の日の髷ではない。
政景は群衆の中の一人に声をかけた。
「そなた、昨夜はどの寺の鐘を聞いた」
「え? 九つ……いや、八つ。雨でよく聞こえず」
「九つなら四更。八つなら三更。時刻が違う」
政景は微笑んだ。「この“首”を京に入れた者は、雨の音を知らぬ」
奉行の同心が、ちらと政景を見た。目が合った瞬間、同心は視線を逸らす。
その袖にも、漆の灰が薄く付いていた。
——町方は関わっている。しかし主導は町方ではない。もっと上だ。香、銀釘、堺の布。金の匂い。堺の匂い。
政景は橋のたもとを離れ、人の流れを逆らって歩いた。
人の視線が首に吸い寄せられている今、背中は空く。尾行するならこの瞬間が楽だ。
角を二つ曲がったところで、予想どおり、草鞋の音が一つ増えた。
右の踵を少し擦る足音。土間では気づかないが、石畳では目立つ。
政景は茶店の軒先で立ち止まり、振り返らずに言った。
「勝家の方か、徳川の方か。どちらである」
沈黙。
やがて、背後の男が乾いた笑いを洩らした。
「さすがは羽柴の書記よ。見当はずれにしては上々だ。——勝家の六左と申す」
声に揺れはない。腕に覚えのある声だ。
政景は手を袖に入れ、紙片を一枚取り出した。昨夜、陣の焚火で作った潮汐の控え。
この季の淀川は、未明に下げ潮。上流から舟で運ぶには悪い時刻だ。
「今朝の“首”は、水からではなく、陸から来た。ゆえに、信長公の首ではない」
政景は紙片を袖に戻し、軽く会釈した。「六左殿、偽物に刀を抜くのは、刀に対して不敬にござるぞ」
「抜かずとも斬れる口を持つか」
「物の重さと匂いで、嘘は斬れまする」
六左はしばし黙り、やがて肩をすくめた。
「ならば、斬ってみせよ。本物はどこにある」
「それを斬るのは、殿に先んずる無礼」
政景は背中で笑い、歩いた。六左の足音は追わない。追えば尾になる。尾は時に“導き手”にもなる。
◇
陣に戻る前に、政景は堺の商人宿に顔を出した。
帳場の男は目ざとい。政景の袖口の灰に目を止め、「お客人も三条で?」と笑った。
「噂は早いのう」
「ええ、商いの命で」
帳面の端に、銀釘の売上が並ぶ。昨夜、一時に銀釘を大量に求めた記録。買い手の名は伏せ。だが、印の筆跡は、宗久の店が使う伝票の写しに似ている。
政景は言葉を飲み込み、代わりに帳場の燭台に目をやった。油は胡麻油ではない。鯨の油だ。南蛮渡来。
——堺の匂いは、いつも海から来る。
「明朝、堺へ下る船はあるか」
「おや、早い。昼の便なら。明朝は潮が悪いですぜ」
政景はにこりとした。「潮が悪い時こそ、悪いものが動く」
◇
味噌蔵。
秀吉は昼餉の前にもかかわらず、もう一度政景を呼んだ。呼びの速さが、この密命の重さを物語る。
「どうじゃ」
「晒された“首”、偽物にございます。香と銀釘と布、そして時刻。どれも、見せるための道具立て。三条の露、箱の藻も、昨夜の付け焼きにて」
「ほう」
秀吉は笑い、扇で蔵の空気を撫でた。「わしが見たのと同じや。——で、誰の策や」
「堺の匂いがいたします。宗久殿が直にではなくとも、その筋。町方を巻き込み、人を集め、京に『定め』を作る心づもり」
「つまり、わしの“定め”を横取りに来おった、いうわけか」
「されど、殿。これは殿に利も」
政景は静かに続けた。「偽物が先に流れれば、本物は潜らざるをえません。潜ったものは、潮の流れで浮く。——堺へ」
秀吉の目が細くなった。猫が障子の向こうの雀の動きを読む目である。
「堺に行け。潮の悪い時に悪いものが動く、言うたな。……よし、わしは京を煮えさせとく。おぬしは潮を見ろ」
「はは」
政景は立ち上がる。
蔵を出る間際、秀吉がふと声を投げた。
「政景。おぬしの“首”、どこにあると思う」
政景は振り向かずに答えた。
「殿が『定め』を望まれる限り、首は、殿の言葉の先にございまする」
背で笑い声が弾けた。
雨上がりの陽が、蔵の外で薄く伸びている。
潮は引き、やがて満ちる。
首もまた、どこかで満ち引きしている。
——堺へ下る。
政景は足袋の紐を締め直した。刀の柄に手は置かない。必要なのは、鼻、目、耳、そして舌だ。
舌で、嘘の味を見分ける。
剣を抜かずに、真相を斬るために。
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