9.想い
「あっ、お疲れ様です、先生」
文芸部の部室のドアを開けると、
「……先生はやめてくださいよ」
「えー、だって書籍化作家様なんだから、何もおかしくないでしょう?」
「そんなことはな――ある? いや、やっぱないですよ」
「とりあえず座ったら?」
敦子先輩は、長机を挟んで敦子先輩の向かい側、いつもの僕の席を指さす。
僕が鞄を椅子の脇に置いて腰かけると、
「そんなことあるのよ。だって、銀賞なんだもん」
と敦子先輩は声のトーンを少し落として言った。
改稿に改稿を重ね、刊行まであと少しになった。
たった一文、たった一単語を直すのに何時間もかかって、ここ最近の頭の稼働量のほとんどを費やしている気がする。
もうどのくらい文字を打ったかわからないけれど、少なくとも初稿を書いたときの何倍も文字が生まれていた。
もし今後も商業出版を続けることができるのであれば、これが日常になるのかと思うと、楽しいだけじゃないんだなと改めて実感が湧いた。
「どんな調子なの?」
「今回の改稿でOKが出れば、あとは校正ですね」
ノートパソコンを立ち上げ、オンライン上に保存してある原稿を開く。
さすがに改稿を重ねるごとに修正量は減ってきて、どうにかして今日中に修正が終わりそうな見込みだった。
「そっか。ところで、
敦子先輩は分厚い文芸誌を広げて、目で活字を追いながら訊いてくる。
「この間、公園にいたでしょう?」
「えっ?」
「広いグラウンドの隅っこのベンチで、
敦子先輩の視線は文芸誌に固定されたままで、淡々とページをめくっている。
「あ、えっと、はい。敦子先輩もあのとき、近くにいたんですか?」
「いたんですか、ですって?」
そう言って、ばたん、と文芸誌を閉じる。
彼女の顔には微笑みが浮かんでいるが、目の奥が笑っていない。
――待て。
そこはかとない恐怖を感じる。
あれ、僕、何か悪いことしたっけ……?
「そうね、私はたまたま通りかかっただけよ。旬くんたちの数メートル先だったかな」
別に、と敦子先輩は続ける。
「旬くんが誰と一緒にいようと、それは旬くんの自由だもんね? 私なんかが口を挟めるようなことじゃないし」
「えっと、敦子せ――」
「ぴったりと肩を寄せ合って、お互いのことしか視界に入ってなくて。だから私が通りかかったことにも気づいてなかったんだもんね? 何の話で盛り上がってたのかしら。やっぱり小説? それとも別の何か? 進路の話とか? 同学年だもんね、一足先を行く私より相談しやすいのは当然よね」
「あの――」
きわめて淡々と語る敦子先輩の声に、だんだんと胃の辺りが締めつけられるような感じがしてきた。
「別に悪いことでもなんでもないし、そもそも旬くんがどこで誰と何をしていようとそれは旬くんの自由だし」
「あの、敦子先輩」
「何かしら?」
「えっと、
「何かあったか、ですって?」
敦子先輩の声のトーンが上がる。
どうやら僕はつくづく間が悪いらしい。
「ないわよ、何も。一切何も、パーフェクトに何もないわ。私とあの子が話したのは、この間旬くんと三人で顔を合わせて以来、一度としてないわ。どうして旬くんは、私とあの子に何かがあったと思ったのかしら?」
「えっと――」
「もしかしてだけど、私があの子のことを意識してるとでも? まさかとは思うけど、もし旬くんがそんなふうに感じているとしたら、それは誤解よ。これっぽっちも意識なんてしてないわ。あんな、ちょっとばかり笑顔がふわっと可愛らしくて、クールな印象だけどたまに仕草がなんだか愛らしくて、旬くんがいかにも好きそうな聡明な顔立ちでちょっと猫っぽい雰囲気が
……僕が思っている以上に、敦子先輩は何かをこじらせているのかもしれない。
この人は思慮深くてどちらかというと内に秘めるタイプだけれど、一体何があったのか。
「まあいいわ、旬くん」
敦子先輩は足元の鞄から何かを取り出す。
長机の上に置いたのは、ライトブルーの包装紙に包まれた長方形の箱だった。紺色のリボンが施されている。
「今日はこれを渡したかったのよ」
「僕に……?」
「そうよ、開けてみて」
促されるままにリボンを解き、包装紙のテープを外す。
出てきたのは、万年筆の箱だった。
「敦子先輩、これ……」
「受賞祝いのプレゼント」
「えっ、いいんですか? これ、けっこう高いやつですよね」
「旬くんのために買ったんだもの、受け取ってくれる?」
「ありがとうございます、いやホント、うれしいです」
「よかったわ。本当は、あのときに渡したかったけど」
「あのとき?」
僕がそう言うと、敦子先輩の表情に陰りが見えた。
――きっと、僕と真莉愛が公園で一緒にいたときだ。
僕一人でいたとしたら敦子先輩はたぶん――そう察して、僕はすぐに「いえ」と言葉を上書きした。
「なんでもないです、すみません」
「ううん、大事にしてもらえるとうれしいな」
「もちろんです、神棚に飾っておきます」
「うふふっ、使ってもらえるともっとうれしいけど」
敦子先輩はいつものように笑った。
***
下校中、高校近くのコンビニでよく知った顔を見つける。
向こうも僕の姿に気づき、笑顔を向けて近づいてきた。
「旬くんじゃん」
敦子先輩とあんな話をしたあとだから、なんとなく気まずい。
そんな様子を察してか、真莉愛は、
「どうしたの?」
と僕の顔をのぞき込んでくる。
「何かあった?」
「いやっ、何も?」
「ふうん」
真莉愛がつぶらな両目を真っすぐ向けてくる。
逃れるように僕は、
「行こうよ」
と思わず彼女の手を取って店を出た。
彼女にあの目をされると嘘をつけないというか、僕の内側を眺め回されるような気持ちになってしまう。
もとより嘘をつくつもりなんてないけれど、なぜだか直視できない。
でも、不快とかではなくて、丸裸にされたような気分になるというだけだ。
恥ずかしいという表現がぴったりかもしれない。
「ちょっと、旬くん」
「えっ?」
真莉愛の声で立ち止まる。
気づかないうちに自宅とは真逆の方向、駅のほうまで来ていた。
「こっちじゃないでしょ?」
そう言う彼女は、口元をほころばせている。
「あっ、ごめん」
ぱっと手を離す。
無意識に強く手を握っていたらしい。
――この僕が?
女子の手を?
「ううん、別に。嫌いじゃないよ」
真莉愛は駅前のコーヒーチェーン店のほうへ顔を向ける。
「でも、なんだか喉渇いちゃったなー、引っ張り回されちゃったからなー」
そして彼女は、ちらっと僕のほうを見る。
「……好きなやつでいいよ」
「やった!」
今度は、無邪気に喜ぶ真莉愛に手を引っ張られる番だった。
彼女は迷わず新作のアイスラテをトッピングもりもりで注文した。
料金よりもその圧倒的なボリュームに驚きを隠せない。
店を出て、元来た道を戻る。
途中、先日の公園を通りかかり、敦子先輩の顔が一瞬思い浮かんだ。
思わず辺りを見回す。
「どうしたの?」
真莉愛はラテを片手にご満悦な様子で訊いてくる。
「ううん、何もないよ」
「ふうん。ちょっとさ、座らない?」
僕と真莉愛は公園内の図書館近くへ移動し、どうやら敦子先輩は近くにいないであろうことを確認して、手近なベンチに腰掛けた。
「ていうか、旬くんってさ」
ストローでアイスラテをひと口飲んで、彼女は続けた。
「ホントに嘘がつけないタイプだよね」
「えっ? そうかな」
「誰か探してたんでしょ? この間の、
「そっ」
一瞬、腰を浮かしてしまう。
無意識にこういう反応をしてしまうところが、バレバレな原因なのかもしれない。
「ソンナコトハナイヨ」
「ふふっ、そういうことにしとこっか。旬くんってさ、秋山先輩とどういう関係なの?」
「ええっ? 敦子先輩とは普通に文芸部の先輩と後輩っていう感じだけど」
「ふぅうん。普通に、ね」
このままだと敦子先輩と部室で話したときみたいに、僕の間の悪さがどんどん
逃れるように、僕は鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「そういえばこれさ、ありがと」
真莉愛から借りていた小説を手渡す。
「あっ、うん。どうだった?」
「文体っていうか、言葉の使い方がけっこう好きかも。特に擬音の使い方が独特じゃない?」
「そだね、好き嫌いは分かれるかも」
「僕はわりと好きだな。どう?」
「わたしも」
ふふっ、と彼女ははにかむ。
「そういえばさ、旬くんってどんなことが好きなの?」
「えっ? 小説のジャンルとかの話?」
「ううん、小説以外のこと。わたしたちってさ、小説の話はよくしてるけど、それ以外のことってほとんど知らないなって。普段、どういうことが好きなんだろって思って」
「好きなことか……基本、インドアだからな……普通に
「どんなの観てるの?」
「文芸系の
「へぇえ、文芸系。たとえば誰?」
「去年デビューした《くろのふみ》っていうVTuberだね」
真莉愛が少しだけ目を見開く。
「デビュー直後からずっと推しっていうかさ、ライブ配信も動画も全部観てるよ」
「――あッ」
不意に、真莉愛が手に持っていたアイスラテのカップを落してしまう。
残っていたラテとクリームが地面に広がった。
「大丈夫? かかってない?」
「うん、僕は平気だけど」
「よかった。ごめんね、水滴で手が滑っちゃった」
それにしても、と真莉愛が笑う。
「綺麗なお姉さん系が好きなんだ。そっか、だから旬くんの部屋のエッチな本もそういう系ばっかりで……」
「えっ待って、なんで知ってるの? 僕の部屋来たことないよね」
「ふふっ、そういうところだよね。キミが嘘つけないのって」
真莉愛は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そして彼女はベンチから立ち上がった。
「でもまあ、キミが推すんだったらその《くろのふみ》っていうVTuberも幸せだね」
「えっ?」
帰ろっか、と真莉愛は鞄を肩に掛ける。
僕も鞄を手に取って、歩き出した彼女の横に並んだ。
「どういう意味?」
「ないしょー」
じゃあね、と真莉愛は手を振って、途中の道で別方向へと帰っていった。
ふみふみのことは初耳っぽかったけれど、なんで見た目が綺麗なお姉さん系だって知っていたのだろう。
まあ、それも彼女一流のカマかけなのかもしれない。
受賞作の改稿もほぼ終わり、刊行が迫ってきたこのタイミングで、僕が
変に意識せず話してしまえば、案外さらっと済むようなことなのかもしれないけれど。
いつか話そうと思っていたはずなのに、気づけばタイミングを逃してしまっていた。
時間が経つごとに打ち明けづらくなり、それに比例して罪悪感が増してくる。
彼女とこんなに仲良くなれたことが奇跡のようで、だからこそ嫌われてしまうことが怖い。
人に対してこんな気持ちを抱いたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
――やめよう。
これ以上は沼にハマっていくだけなことに気づき、あともう一息の改稿のことに思考を振り向けた。
(つづく)
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