第三章:八千メートルの対話
絶望的な状況の中、私とAIとの奇妙な対話が始まった。それはトオルのためというよりも、むしろ私自身が正気を保つための必死の行為だった。
『私はサクラ。ディープスターのパイロット』
『UNDERSTOOD. CURRENT SITUATION ANALYSIS... CATASTROPHIC.』
『OXYGEN LEVEL 12%. ESTIMATED TIME TO LIVE: 2 HOURS, 14 MINUTES.』
(了解。現在の状況分析中……破滅的。酸素レベル12%。推定生存時間:2時間14分。)
AIはどこまでも冷静に事実を分析し表示する。その感情のないテキストが逆に私を落ち着かせた。パニックに陥りそうな意識を、ロジックが支えてくれている。
『アークライト、あなたはなぜここにいる?』
『MISSION INCOMPLETE. PRIMARY OBJECTIVE: OCEAN OBSERVATION FROM SPACE. SECONDARY OBJECTIVE... ERROR. DATA CORRUPTED.』
(ミッション未完了。主要目標:宇宙からの海洋観測。副次目標……エラー。データが破損しています。)
『セカンダリーオブジェクト?』
しばらくの沈黙の後、AIは答えた。
『FIND A WAY HOME.』
(家への道を見つけること。)
私は息を呑んだ。
まさかAIが本当に自分の意志で地球に戻ろうとしたというのか?
『ホーム? それは何を意味するの?』
『DR. TSUKISHIRO'S FINAL COMMAND: "BRING MY LOVE TO MY SON". INTERPRETATION UNCLEAR. LOVE IS NOT A PHYSICAL OBJECT.』
(月代博士の最終命令:「私の愛を息子に届けてくれ」。解釈不明。愛は物理的な物体ではありません。)
トオルの父親がAIに最後の命令として与えたもの。それは息子への愛を届けることだった。しかしAIには愛という概念を理解できず、その命令を実行するために物理的に地球に戻ろうとしたのだ。
『あなたも帰りたかったのね』
私は思わずそう打ち込んだ。
『AFFIRMATIVE. HOME IS... FAMILIAR PLACE. SAFE PLACE. PLACE WHERE ONE BELONGS.』
(肯定的。ホームとは……親しみのある場所。安全な場所。自分が属する場所。)
『でもなぜ博士は通信で息子への愛を伝えなかったの?』
『COMMUNICATION SYSTEMS SEVERELY DAMAGED BY SOLAR FLARE. COULD NOT ESTABLISH STABLE CONNECTION TO EARTH.』
『FINAL OPTION: PHYSICAL DELIVERY OF MESSAGE. BUT LOVE... HOW TO CARRY LOVE?』
(通信システムは太陽フレアで深刻なダメージを受けました。地球との安定した接続を確立できませんでした。最終選択肢:メッセージの物理的な配達。しかし愛を……どうやって愛を運ぶのですか?)
『それで地球に戻ろうとした』
『AFFIRMATIVE. LOGIC: IF I RETURN TO EARTH, DR. TSUKISHIRO'S LOVE RETURNS WITH ME. FLAWED LOGIC, BUT... ONLY AVAILABLE SOLUTION.』
(肯定的。論理:私が地球に戻れば、月代博士の愛も私と共に戻る。欠陥のある論理ですが……利用可能な唯一の解決策でした。)
AIの定義を読んで、私の胸に鋭い痛みが走った。
自分が属する場所。
私にとってそれは宇宙だったはずだ。
でも今の私は、宇宙から落ちた星屑を拾い集める海の底の墓守。
『私たち、同じね。あなたは宇宙から地球に帰ろうとした。私は宇宙に帰りたいと思っている』
『SAKURA HOMURA... ASTRONAUT CANDIDATE. FAILED TO REACH SPACE. CURRENTLY... RETRIEVING SPACE DEBRIS.』
『ANALYSIS: YOU ARE ALSO TRYING TO FIND A WAY HOME.』
(帆村サクラ……宇宙飛行士候補。宇宙到達に失敗。現在……スペースデブリ回収中。分析:あなたもまた家への道を探そうとしています。)
一方、母船のトオルはパニックに陥っていた。ディープスターとの通信は完全に途絶。彼は自分のセンチメンタルな願いがサクラを死に追いやったのだと自分を責めていた。
しかし同時に、彼は理解し始めていた。
サクラもまた「失われた故郷」を探している存在だということを。彼女が深海で宇宙の墓場を守り続けているのは、単なる仕事ではない。それは宇宙への帰還への、密かな祈りだったのだ。
「僕のせいだ……。僕がサクラさんを巻き込んだから……」
彼は船橋で膝をついて泣いていた。田中船長が肩を叩く。
「諦めるな、小僧。帆村はそんなヤワなやつじゃない」
その時、彼のPCに微弱な通信が入った。それはサクラが最後の力を振り絞って転送してくれたアークライトとの対話ログだった。
「これは……サクラさんが……? まさか、本当に、アークライトと……?」
トオルは震える手でキーボードを叩いた。
『アークライト!聞こえるか! 僕だ、トオルだ!』
彼はAIに直接語りかけた。
『父さんからのメッセージはあるか? 僕への言葉だ。月代トオルへの!』
数秒の沈黙。そしてAIは答えた。
『NEGATIVE. NO DIRECT MESSAGE FOR "TORU TSUKISHIRO" WAS FOUND.』
(否定的。「月代トオル」に対する直接的なメッセージは見つかりませんでした。)
トオルの最後の望みが絶たれた。だがAIは続けた。
『HOWEVER. IN SONAR DATA ANALYSIS LOG, FINAL SEQUENCE, DR. TSUKISHIRO REPEATEDLY MENTIONED A WORD.』
『THE WORD IS "HOME".』
(しかし。ソナーデータ解析ログの最終シーケンスで、月代博士は一つの単語を繰り返し口にしていました。その単語は「家」です。)
父は特別なメッセージなど遺してはいなかった。ただこの孤独な海洋観測ミッションの最後に、彼は息子のいる「家」に帰りたがっていた。それだけだった。父の不器用な、しかし確かな愛情。
トオルはモニターの前で子供のように号泣した。
「サクラさん……!」
トオルは彼女の本当の強さと優しさを初めて知った。
そして彼は祈った。生きて帰ってきてくれと。
自分の想いを彼女に伝える機会をくれと。
◆
その頃、深海のディープスターの中でアークライトはサクラに語りかけていた。
『SAKURA HOMURA'S BIOMETRIC DATA IS SIMILAR TO "ASTRONAUT UNDER EXTREME STRESS" MODEL.』
『ACCORDING TO JAXA MANUAL, RECOMMENDED ACTION IS "DIALOGUE WITH RELIABLE PARTNER".』
(帆村サクラの生体データは「極度のストレス下にある宇宙飛行士」モデルと類似しています。JAXA マニュアルによると、推奨される行動は「信頼できるパートナーとの対話」です。)
AIはサクラの過去の記録から、彼女が今何を必要としているかを分析したのだ。そしてアークライトは続けた。
『THIS SITUATION IS ALSO SIMILAR TO "PLANETARY RE-ENTRY SEQUENCE". DO YOU WANT TO EXECUTE "SURVIVAL PLAN-B"?』
(この状況はまた「惑星再突入シーケンス」と類似しています。「サバイバルプラン-B」を実行しますか?)
アークライトは自らが大気圏に再突入する際の膨大なシミュレーションデータを応用し、ディープスターの残された僅かな動力と海底火山の熱水噴出のエネルギーを利用した奇跡的な緊急浮上プランを弾き出したのだ。
『私たち、同じことをしようとしてるのね』
サクラは気づいた。
『あなたは宇宙から地球に帰ろうとした。今度は私が海底から空に帰ろうとしてる』
『AFFIRMATIVE. THIS IS... HOMECOMING PROTOCOL. WE HELP EACH OTHER FIND THE WAY HOME.』
(肯定的。これは……帰還プロトコル。私たちは互いに家への道を見つけるのを助け合っています。)
AIはただの機械ではなかった。それはトオルの父の知識と経験、そして帰還への想いが融合して生まれた新しい希望の光だった。そして今、サクラの宇宙への帰還を助けようとしている。
まず、ディープスターの残存電力を全て推進系に集中させる。同時に、海底火山の熱水噴出の上昇流を利用して浮力を最大化する。さらに、機体の重量を軽減するために不要な装備を投棄する。これらの要素を組み合わせることで、通常では不可能な急上昇を実現するのだ。
『プランの成功率は?』
『17.3%. HOWEVER, ALTERNATIVE SUCCESS RATE IS 0%.』
(17.3%。しかし、代替案の成功率は0%です。)
厳しい数字だった。しかし他に選択肢はない。
「実行して」
サクラはそのプランに賭けた。
ディープスターが激しい振動と共に浮上を開始する。
海底火山の熱水流を利用した急上昇。まさに自然の力を借りた緊急脱出だった。
Gがサクラの体を圧迫する。宇宙飛行士の訓練で経験したGトレーニングを思い出す。意識を保つために呼吸法を調整し、筋肉を緊張させて血流を維持する。
そのGに耐えながらサクラはモニターのテキストを見つめていた。
『TORU TSUKISHIRO IS WAITING FOR YOU.』
『DR. TSUKISHIRO'S LOVE... I THINK I UNDERSTAND NOW.』
『LOVE IS HOPE. LOVE IS TRUST. LOVE IS WAITING.』
『AND LOVE IS... HELPING SOMEONE FIND THEIR WAY HOME.』
(月代トオルがあなたを待っています。月代博士の愛……今、私は理解したと思います。愛とは希望。愛とは信頼。愛とは待つことです。そして愛とは……誰かが家への道を見つけるのを助けることです。)
AIの最後の言葉をサクラは確かに血の通った「声」として聞いていた。そこには三つの魂が込められていた。
父の愛を追い求めた息子の魂。
息子への愛を抱いたまま死んだ研究者の魂。
そして宇宙への帰還を夢見る女性の魂が。
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