第2話 肉と関節②


 桜の花びらが散る中、シャーッと自転車が走る軽快な音と共に、りゅうえんは坂道を下った。

 車輪が風を巻き起こして、龍円の走る軌跡の後に小さな花びらの渦を残していく。

 自転車が向かう方角、道の行く先にはS山脈が立ちふさがっている。主峰である御在所ございしょだけは、ツンと先端を尖らせロープウェーを受け入れている。

 だが、実のところ、あれは本当の山頂ではない。角度的にすこし隠れて見える、しかも低く感じられる奥のほうに見えるとんがりが、本当の頂点なのである。

 そこで三重と滋賀とが別れる。いわゆる分水嶺というものだ。

 三重県側であるこちら側に流れ込んだ水は、やがて太平洋に行き着くことになる。日本海は望めないが、太平洋は見渡せた。

 高校の最寄り駅である菰野岩駅前を左手に通過すると、遮断機をくぐって加速した。あたりには他の生徒達の姿も増えてきている。

 間もなく左手に校舎が見えてきた。

 菰野岩市立菰野岩高校。

 創立五十周年を超えた校舎は、古色蒼然という言葉で表すには世俗的すぎ、龍円の目から見たその佇まいに対して率直な感想を述べるならば、ただただシンプルに古くてボロかった。

 駐輪場に自転車を停めると、カバンを取りあげる前に左手肘のサポーターの位置を直す。腕を真っ直ぐに伸ばし、曲げ、伸ばして、状態を確認する。微かな痛みが走るくらいで、倒れたり、もんどりうったりするほどのものではない。口元を少しだけ曲げてから、カバンを掴んで走り出した。

 朝の挨拶を交わし合う学生達の姿は朗らかだ。空気自体にも、浮ついた春の気配が満ちている。昇降口に入る時、反射したガラス窓に映る自分の顔を見て、龍円の内心はうっすらと苦く沈んだ。

 すっかり髪が伸びた。長年五分刈りにしかしていなかったから、未だに鏡に映る自分の姿に慣れない。

 ニセモノ。

 失敗。

 故障品。

 終わった。

 欠陥品。

 脳裏に過ぎった、それらの言葉を振り払うようにして上履きに履き替えると、龍円は教室へ急ごうとした。

「おー、龍円、おはよー!」

 背後からかけられた声に振り返ると、にっと口角を上げて笑う眼鏡の男子がそこにいた。

「おう柊太、おはよう」

 伊藤いとうしゅう。クラスは違うが、英語コミュニケーションや数学の授業が同じAクラスに割り振られているので、顔を合わせる機会が多く、自然と親しくなった。

 リュックを右肩に抱えなおしながら、柊太は小走りに近付いてくると龍円の隣に並んだ。

「なあなあ龍円、二限の数学の宿題やってあるよな」

「ああ、やってきたけど」

「わるい、問三だけあとで見してくんない? ちょっと自信ないんだわ」

「柊太、今日そこ当たるんだっけ」

「そうそう。他の問題は絶対大丈夫なんだけどさー、肝心のヤツだけしっくり来ないっていうなー」

「あー、あるある。わかる。いいよ見てくれて。つって、オレが間違ってたら勘弁な」

「その時はもう運を天に見放された系だからあきらめるわー」

 あははっと軽快に笑う柊太に、自然龍円の心も軽くなり、口元に笑みが浮かんだ。

「シューター! おはよー!」

「おーおはよー」

「柊太、借りてた漫画持ってきたー」

「おー、あとで続き貸すわ」

 隣に並んで歩けば、あちこちからひっきりなしに柊太へと挨拶が投げかけられてくる。こんな光景にもすっかり慣れた。

 柊太は一見オタクっぽく、文科系で大人しそうに見えるのだが、やたらと弁が立つのと、高いコミュニケーション力を発揮するので、入学一週間にして、すでにあちこちに友人ができていた。

 不思議なヤツだと思うし、そんなヤツがどうしてこんなに自分と親しくしているのだろうとも思うが、今の龍円には正直ありがたかった。

 角を曲がったところで、数人の生徒達とすれ違う。短く刈り上げたそろいの髪型と、春先にも関わらず日によく焼けた肌。一見して野球部だとわかる。

「あ、鈴木おはよう」

 躊躇いがちに龍円へ声を掛けてきたのは、山口だった。中学の同窓である彼に、龍円はなんとか口元に笑みを浮かべて「おはよう」と返す。

「あのさ、肘の具合とか、どう?」

 山口の目が、ちらりと龍円の左肘に吸い込まれる。ブレザーの下に隠されて見えないはずのサポーターと、その下にある怪我のことを、よく知っているうちの一人だ。

 龍円は、わざとらしいほどに明るい笑みを作って、山口の肩に自分の右肩を当てた。

「大丈夫だって。そんなカンタンに取れたりしねぇから」

「ああ」

 苦い笑いに代わった山口の顔に、少しだけ真面目な顔で頷いて見せる。

「またラインするから。二階堂先輩には、すんませんって言っといて」

「そこは大丈夫だよ。先輩もわかってるから」

 互いに手を上げあって、嫌な後味は残さずに済ませて解散する。そうできたことに内心ほっとした。待ってくれていた柊太に礼をいい、そのまま一緒に二階へ上がった。

 柊太と別れて教室に入ると、龍円は窓際奥から二列目の自席に腰を下ろした。

 一時間目の授業は古典だ。教科書とノート、タブレットを取りだしてセッティングしていると、右斜め前から声が届いた。

「だからホントだって。見たの一人や二人じゃないんだって」

 思わずちらりと目を向ければ、女子が三人固まっている。

「いやでも、やっぱ七不思議ってさー」

 お下げ髪にした小柄な女子が、半笑いを浮かべて疑わし気にそう返す。それに対し、言い出しっぺらしい癖毛のショートカットが「ほんとだって言ってたもん」と拳を握りしめ力説する。

 しかし、お下げ髪はなおも疑わし気だ。人さし指をぴんと立て、それを前後に振って見せる。

「階段下の物置前においてある大鏡に映る、鼠と赤い服の女でしょう? なんだっけ、鼠が行列なんだよね?」

「そう。鏡の中で左右に並んで道作ってんの。で、その行列の間を歩いて、鏡の向こうから赤い服着た女がこっちに向かって来るって」

「ねえねえ」

 最後の一人、スカート丈の短いガッツリ化粧の女子が小首を傾げてみせる。

「それ、鏡なんよね? 自分の姿は映らんの?」

 すると、「そうなんだよねー」とお下げ女子が腕を組み難しい顔をする。

「うちの学校の七不思議って、なんか微妙にヘンなんだよね。普通によく聞くような話が一つもないっていうか」

「ふつーって、トイレに花子さんがおるとか、そういうことやんね?」

「そうそう、そういう類の話が全然ないの」

「他にはどんなのがあるんやっけ?」

 化粧女子が癖毛ショートカット女子に話をふる。

「ええとね」

 癖毛ショートカット女子は、目をつむって天井を見上げた。

「校庭のど真ん中で、内側に向かってサークルを作ってる七人の霊とー」

「うわ怖」と化粧女子。

「校長室のソファに座って、ずっとしゃべり続けてるおばさんとー」

「それ、PTAとかかな」とお下げ女子。

「理科室の天井から床に向かって落ち続けている亡者の群れとか」

「地獄への道が通じとる系やん」

 化粧女子が、自分の肩を抱きながら口元を歪める。

「それとー、あとは川辺グラウンドに出る野球部の霊だね。甲子園帰りで自殺したっていう」

 癖毛ショートカット女子が最後に言った、野球部、という言葉に、龍円の耳がぴくりと反応する。

 無意識のうちにその続きを盗み聞こうと、龍円の全身が耳のようになった。だが次の瞬間、彼女等の言葉尻を奪うようにして、きーんこーんとチャイムが鳴った。

「あっ、続きはまた後で」と、女子達が解散する。それから間もなくドアを開けて入室してきた古典の教師の号令に従って、クラス全体の空気がすっと引き締まった。

 気にしないつもりでいても、どうしても心と身体が反応してしまう。

 指示された教科書のページを開きつつ、黒板に映し出されたプロジェクターの絵を見れば、蹴鞠に励む平安の世の貴公子達はずいぶんと楽しそうで、純粋に羨ましいことだと口元が皮肉に歪んだ。

 開け放たれた窓から風が流れ込み、カーテンが揺れる。

 春の温みに、眠さを誘う太陽の匂い。

 胸の奥で、じくじくと湧き上がる泥のような苦みには蓋をして、龍円はそっと左肘をなでた。

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