第2話 雨の庇と、乾いたビニール傘

昼から降りはじめた雨は、放課後には本降りになった。〈エトワール〉のガラスに、細くて速い線がいくつも走っている。ドアを開けるたび、外の音が一段大きくなって、店内の音が一瞬やわらかくなる。氷が落ちる音、カップ同士が触れる音。私はエプロンの紐をきゅっと結び直した。


「ただいま戻りましたー」

「おかえり、澪。今日は足元、注意ね」


星野店長が入口に「雨天・床すべり注意」の札を出す。私はモップの先で水の筋を追いながら、外を見た。駅の方向から来る人は、肩がほとんど濡れてない。反対の波止場側から来る人は、前身ごろがぐっしょりだ。海の風で、雨脚が斜めなのだ。


閉店まで、あと四十分。傘立てには透明のビニール傘が三本。二本は滴がぽたぽた落ちているのに、一本だけ、骨まで乾いている。さっき誰かが置いたばかりだ。取っ手に細い紙の帯が巻かれたまま——コンビニのレシートタグ。時刻は16:02。


「……なんで乾いてるの?」


私は傘の先を軽くつついてみる。さらさら。水気がない。床は雨の足跡でところどころ濡れているのに、傘の足元は乾きっぱなし。変だ。


「今日の雨、どう?」


背中から声。振り向かなくてもわかる。藤田朔。黒いストラップの先にフィルムカメラ。髪に細い水滴が残っているけど、肩はほとんど濡れていない。


「海の匂いが勝ってる。雨は細いのに速い」

「だよね。駅側から来たら、ほぼ濡れなかった」


朔はガラス越しに外を見て、それから傘立ての乾いた一本に視線を落とした。


「これ、新品?」

「レシートタグついてる。16:02に買ってる。今は16:35」

「豪雨の中を三十分動いて、骨まで乾いてるのはおかしい」


私はレジ横で冷えたグラスに氷を入れて、窓辺へ持っていった。ガラスの内側がふわっと曇る。指で小さな円を描いて、外の雨を覗く。湿度が高いから、結露の出かたがわかりやすい。


「朔、これ、見て。駅側から来る人の肩、曇らない。波止場側から来る人は、ガラス越しでもわかるくらい、滴が跳ねる」

「つまり、駅側はアーケードと庇で守られてる」


私は傘立ての周りの床をじっと見た。床の反射が少し変だ。店内の照明が映っているのに、傘の足元だけ四角く反射が強い。まるでそこだけ、一度乾いてからもう一度薄く濡れたみたいな光り方。モップの筋とも違う。


「乾いてるのに、乾き方が“二層”になってる」

「傘袋……使ってた?」

「うち、傘袋は置いてない。けど——」


私は入口の外に出て、庇の端まで歩いた。左(駅)から右(波止場)に、風が斜めに走っている。庇の端の下に立つと、斜めの雨がぎりぎり届かないラインが見える。地面の濡れ方が、そこだけ薄い。


「駅側からアーケード→庇の下を通って来た人は、ほぼ濡れない。だから傘を買ったけど広げていない。店に入ってすぐ傘立てに入れた。足元は乾いたまま」

「でも、床の光が二層なのは?」

「冷房の風。外気より冷えた店内の空気で、傘のビニールが少し冷えて、入店直後にうっすら結露した。すぐ乾いたけど、その“薄い乾きあと”が照明をきれいに返してる」


朔が目を細めた。光を読む目だ。


「つまり——使ってない新品の傘。駅側コンビニで“とりあえず”買ったけど、ここまで濡れずに着いた」

「持ち主は駅側から来た人」


足元の足跡を探す。入口マットはべっちょり、波止場側から来た人たちで賑やかだ。けど、傘立て前の床には細いヒールの点が二つ、浅くついている。歩幅が小さい。かかとに体重が乗っていない歩き方。


「ヒール細め。歩幅狭め。トートを抱えてたかも。肩を上げた歩き方の跡になってる」

「常連で、それくらいの歩き方……誰だろ」


星野さんがカウンターから顔を出した。


「さっき、英会話の先生がテイクアウトで来てたよ。駅前の教室の」

「先生、濡れてました?」

「髪先に少し。肩はぜんぜん。トート抱えてて、プリントが濡れるのを気にしてた」


私はテイクアウト伝票を見た。アイスコーヒーL×1、はちみつトースト×1。受け取りサインの横に、小さなマス目が描いてある。英単語の並び替え問題みたいな落書き。


「先生の落書き、かわいい」

「戻ってくると思う。英会話の時間は16:30からだから、いったん教室に運んで、それから——」


ドアが開き、ひいとベルが鳴った。黒のトレンチに、白の細ヒール。肩のラインが綺麗な女性が、少し息を切らして入ってくる。髪先にだけ細かい雨粒。肩は乾いている。


「すみません、傘を忘れてしまって……」

「こちらです。駅側から来られました?」

「ええ、アーケードと庇があるから、傘いらなかったんですけど、駅のコンビニで思わず買っちゃって。教室の子が“先生、傘!”って」


女性は恥ずかしそうに笑って、傘を受け取った。取っ手のレシートタグを見て、苦笑する。


「買って満足して未使用、あるあるですね」

「ですよね」


私は思い出して、カウンターから紙袋を出した。ビニールの角がうっすら濡れていて、四角く反射している。


「テイクアウトの袋、上だけ少し濡れてました。雨が斜めだったから、肩じゃなくて持ち手のところに当たったみたいです。袋は拭きました」


女性は目を丸くして、それから深く頭を下げた。


「助かりました。プリント、濡らしたくなくて。ありがとうございます」


“善意を隠さない手続き”——私は心の中で呟く。気づいたことは、言葉にする。困っているかもしれない人には、ひと声かける。それだけで、救えるものがある。


女性が帰ると、朔が小さく拍手をした。


「澪の観察、今日も冴えてる」

「朔の光の話があったから。反射って、面白いね」


私は窓際のテーブルに、タオルと「濡れ注意」の小さなカードを置いた。雨の日は、やることが一つ増える。それが嫌じゃない。


「——で、契約の話」


朔が少しだけ真面目な声に戻す。昨日、私たちは紙切れ一枚の撮影協力メモにサインをした。店内だけ/閉店後三十分/顔は撮らない/嘘はつかない/週一で見直し。お礼は「次どこ行くか、君が決めて」。


「雨の日だけ、優先で会いたい。追加、どう?」

「優先?」

「放課後は部活や用事でズレることがあるけど、雨の日は撮影を優先。理由は……雨音があると、距離が近くても自然に話せるから。あと、ガラスに出る結露で面白い画が狙える」


言いながら、朔は照れた。私は笑った。理由が実務と気持ちの半々。好きだ、そういうところ。


「いいよ。雨の日優先。ただし、テスト前は免除」

「了解。追加条項ね」


星野さんが「はいはい」とレシートを出してくる。私はさらさらと書き足した。


———

《撮影協力メモ・追記》

追加:雨天日は優先実施(ただしテスト前は免除)

備考:濡れ対策は店側で準備(タオル・滑り止め)

———


「立会い:星野」も小さく入れると、店長がにっこりした。


「じゃ、本日の三十分、始めます」


照明を一段落とし、私は手の甲をテーブルに置く。今日は雨だから、窓辺の席にした。外の雨粒がガラスをすべって、細い道を作る。朔はカメラをすぐ構えず、両手で私の手を包む。


「冷たい?」

「さっき氷触ってたから」

「じゃ、あっためる」


カシャ。

巻き上げの音が、雨のノイズにうまく溶ける。今日は、指先に小さな水滴を乗せた。ガラスに映る結露の丸と、指先の丸をあわせる。朔が少しだけ息を止めるのがわかる。


「いい。結露がレフ板みたいに光を返してくれる。君の手、きれいに立つ」


「レフ板?」

「光を戻す板。今日はガラスがやってくれてる」


所作としての手。カップを持つ、ベルの真鍮を拭く、タオルを絞る。指の角度を調整すると、朔の指がそっと重なる。必要最小限の接触、だけど、心はだいぶ騒がしい。


三十分は、やっぱり短い。最後の一枚を撮り終えたとき、雨は少し弱くなっていた。


「モデル料、使う?」

「今日の行き先?」

「君が決めて」


私は外の雨脚を見て、すぐ決めた。


「雨宿りプリン。冷蔵庫のいちばん奥の、固めのやつ。今日の分、二つ確保して、閉店後に一緒に食べる」

「最高」


朔は、今日も最高を二回言った。なんでだろう、その二回目が、毎回ちょっとだけ胸にくる。


片付けのあと、私はスマホを開く。クラスのLINEは相変わらず騒がしい。そこに“匿名相談”アカウントからの新着が混ざる。


《雨の日って、どうやって距離を縮めますか?》


私は親指で打って、消す。


(未送信)

「雨の日優先、って約束をした。ガラスの結露がレフ板になるって初めて知った。距離は、雨音が縮めてくれる」


送らない。けど、明日、伶に話そう。きっと笑って、きっと少し、うらやましがる。

外の雨は、まだ細くて速い。入口の庇から一歩出ると、すぐ濡れる。私は一歩出て、すぐ戻った。庇の下の細い乾きに立って、空を見上げる。


潮は、嘘をつかない。

それでも、約束は、私たちを少しだけ前に進める。雨の日は、優先。いい言葉だと思った。

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