第9話 僕が、終わらせない
一ヶ月と十四日。
僕は毎朝、工房の扉を開けながらその日数を数えていた。リラが旅に出てから、もうそれだけの時が過ぎている。
炉に火をおこしながら、僕は昨日と同じ朝食のパンを焼いた。二人分作る習慣がついていて、気がつくと余分な分を手にしている。いつもなら「おはようございます」という静かな挨拶が響く時刻に、今は薪のパチパチという音しかない。
作業台で削りかけの木片を手に取る。柔らかな桜材に彫刻刀を入れながら、ふと「この曲線、リラならどう思うだろう」と考えてしまう。振り返りかけて、ああ、いないんだった、と虚空を見つめる。
窓辺の小さな鉢植えが、心なしか元気がない。リラがいつも朝に水をやっていたものだ。慌てて水差しを取りに行きながら、「僕だけじゃ、ダメだな」と独り言をこぼした。
「タクミさん、今日も一人ですか?」
ミラが顔を覗かせる。彼女の声には、いつもの明るさの奥に心配の色が滲んでいた。
「まあ、そうですね」
僕は手にしていた鉋を作業台に置いた。削りかけの木片からは、まだ温かな木の香りが立ち上っている。リラの整理された道具置き場は、今も几帳面にそのままの状態で残されている。まるで彼女が今にも帰ってくるのを待っているかのように。
「リラさん、どこに行ったんでしょうね?手紙も送れないほど遠くに行ってしまったんですかね」
ミラの核心に迫る質問に、僕は少し困った。
「詳しいことは聞いてないです」
ただの旅じゃないことくらい、僕にだって分かる。あの日の彼女の表情は、単なる用事で出かける人のものじゃなかった。でも、彼女が自分から話してくれるまで待つと決めたんだ。僕にとってリラは、疑うものではなく信じるものだから。
「でも、タクミさんも寂しそうです」
「そんなことは……」
ミラの率直な言葉に、僕は返答に詰まった。確かに寂しかった。リラがいない工房は、どこか息が詰まるような静寂に包まれている。
そういえば、あの日のことを思い出す。僕が作った小鳥の木彫りを、リラがじっと見つめていた。彼女は感情を表に出すことが少ないのに、その時だけは小さく微笑んで「……かわいいですね」と呟いた。その声は今も耳に残っている。今の静寂がやけに重く感じられるのは、あの温かな瞬間を知ってしまったからかもしれない。
そのとき、ガリックの低い声が工房の入り口から響いた。
「ミラ、今日は早く帰った方がいい」
鍛冶屋の彼が珍しく表情を曇らせている。
「変な奴らが村の周りをうろついてる。商人でもない、冒険者でもない。何者だか分からんが、気をつけた方がいい」
ガリックの警告は、僕の心に小さな不安の種を植えた。普段は何事にも動じない彼が、明らかに警戒している。
「タクミも、今夜は戸締まりをしっかりしろ」
夕刻が近づき、ミラも帰っていった後、僕は一人で工房の片付けをしていた。薄暗がりの中、道具を棚に戻しながら、ガリックの言葉が頭をよぎる。変な奴ら、か。
僕は無意識に工房の扉に
まるで、誰かの帰りを拒むような気がして。
結局、僕は閂をかけないまま、一人、黙々と道具を棚に戻していた。木と鉄が触れ合うかすかな音だけが、やけに広く感じる空間に響いては消える。
その、静寂の合間を縫うように。
「……ただいま、戻りました」
聞こえるはずのない声が、背後から聞こえた。
一ヶ月と十四日、僕が待ち焦がれていた、あの涼やかで、けれど今は糸のようにか細く、乾ききった声。
僕はゆっくりと、まるで壊れやすい何かを扱うように振り返った。
そこに、リラが立っていた。
逆光の中に立つその姿は、まるで幻のようだ。僕は一瞬、自分の願望が見せた幻覚ではないかと疑った。
「リラ、さん……?」
呼びかけると、彼女は小さく頷いた。だが、その輪郭は揺らいでいるように見える。
そして、僕の鼻腔を突いたのは、木の香りではなかった。
鉄錆のような、血の匂い。そして、冬の嵐が過ぎ去った後のような、濃密で、冷え切った魔力の残り香。
幻覚などではない。現実に、彼女はそこにいる。
そこでようやく、僕は細部を認識した。
いつもは凛と伸びている背筋が、今は扉にもたれかかるようにして、かろうじてその身を支えていること。
月明かりに照らされた顔には血の気がなく、陶器のように白いこと。
そして、彼女が左手で必死に押さえている右腕の袖から、ぽたり、と。
床の木目に、暗く、粘つくような滴が一つ、音もなく吸い込まれていくのを。
「リラさん!」
思考が追いついた瞬間、僕は叫びながら駆け寄っていた。幻なんかじゃない。彼女は傷つき、疲れ果てて、まるで遠い戦場からたった一人で生還した兵士のように、それでもこの場所に帰ってきたのだ。
「大丈夫です。ただ少し……」
リラはそう言いかけて、足元がふらついた。僕は反射的に彼女の体を支える。彼女の体温は普段より低く、震えているのが分かった。
「怪我をしてるじゃないですか。何があったんですか?」
「少しトラブルに巻き込まれただけです。心配はいりません」
リラはいつもの冷静な口調で答えたが、その声には疲労が色濃く滲んでいた。僕は彼女を椅子に座らせ、応急処置の道具を取りに行こうとした。
そのとき、工房の外で不審な音がした。
足音だった。複数人の、慎重に忍び足で近づいてくる音。僕は息を詰めて耳を澄ませた。リラも緊張した表情で窓の方を見つめている。
「タクミさん、明かりを消してください」
彼女の声は低く、緊迫していた。僕は急いでランプを吹き消す。工房は月明かりだけの薄暗がりに包まれた。
外の足音が止まった。そして、嗅いだことのない刺激的な匂いが鼻をついた。
「油の匂い……」
僕がつぶやいた瞬間、工房の壁に何かが撒かれる音がした。そして、火の粉が窓に映った。
「火をつける気だ!」
僕は反射的に工房の扉に向かった。まだ間に合う。火が回る前に止めなければ。
「タクミさん、危険です!」
リラの制止の声を振り切って、僕は扉を開け放った。工房の外壁に、黒い装束の人影が三人いた。そのうち一人が松明を壁に近づけようとしている。
「やめろ!」
僕は大声で叫びながら駆け出した。黒装束の男たちは驚いたように振り返る。
反射的に足元のカンナ屑を蹴り上げ、相手の目眩ましを狙う。間髪入れず、作業台から樫の角材を掴み取り、盾のように構えた。普段は物を生み出すための道具が、今は工房を守るための唯一の武器だ。
しかし、相手はプロだった。一人が僕の動きを嘲笑うかのように、何かを投げつけてくる。咄嗟に角材で身を庇ったが、軌道を見切れず、肩に灼けつくような痛みが走った。
「ぐっ……!」
痛みに奥歯を噛みしめる。血の味が口の中に広がった。
絶望が心を塗りつぶしていく。松明を持った男が、勝ち誇ったように口元を歪めた。僕が築き上げた全てが、今、灰になろうとしている。
――その時だった。
どこからか、鈴の鳴るような、か細くも美しい音が響いた。
それは、この殺伐とした場にはあまりにも不似合いな、澄んだ音色。男たちが怪訝な顔で辺りを見回す。
次の瞬間、彼らが掲げる松明の炎が、一斉にその勢いを失った。
燃え盛る赤が、まるで血を抜かれたように色褪せていき、死人の顔のような青白い光へと変わっていく。炎から立ち上っていた熱さえもが、急速に奪われていくのが分かった。
「な、何だ!? 魔法か!?」
驚愕する男の声。その問いに答える者はいない。
青白い光は、まるで生き物のように数度またたいた後、氷の塵となって、音もなく闇に消えた。
「タクミさんに…傷を…!」
工房の闇の奥から漏れたのは、声というより、世界の亀裂から響くような静かな呟きだった。
怒り。悲しみ。そして、絶対的な拒絶。
そして――世界から、音が消えた。
風の音も、虫の声も、男たちの荒い息遣いさえもが、分厚い硝子の向こう側へと追いやられる。
代わりに、どこからか聞こえてきたのは、星屑が氷の鍵盤に降り注ぐような、硬質で美しい旋律。
その音色に呼応するように、世界の呼吸が止まった。
時間そのものが凍てついたかのように、全ての動きが緩慢になる。
吐く息は白い薔薇となって砕け、地面には霜のレースが編まれていく。草木の葉は、一枚一枚が繊細な硝子細工へと姿を変え、その生命活動を絶対零度の静寂の中に封じ込めた。
工房から、リラが静かに歩み出てくる。
彼女は、歩いてはいなかった。まるで月光を凍らせて織り上げた光のドレスを纏い、この静止した世界を滑るように移動している。
彼女の銀髪は風に舞うのではなく、小さなダイヤモンドダストを散りばめた銀河のように、彼女の周りをゆっくりと旋回していた。
彼女の瞳は、もはや蒼くはなかった。それは、恒星の終焉を思わせる、底なしの闇と光が混在する深淵。
その瞳が、ゆっくりと男たちを捉える。
彼女が虚空に向かって、まるで指揮者のようにそっと指を振るうと、空間が歪んだ。その裂け目から、先ほどまで世界を支配していた旋律そのものが結晶化し、流星群のような無数の氷の刃となって降り注いだ。
それは魔法ではなかった。
彼女という存在の悲しみと怒りが、この世界の理を否定し、一夜限りの冬の星座を描き出す、神の御業にも似た奇跡だった。
「魔法を使い始めたぞ!気をつけろ」
黒装束の男の一人が叫んだが、その声は震えていた。リラが指先を動かすと、氷の刃が男たちの足元に突き刺さる。逃げようとした瞬間、地面が氷で滑りやすくなり、三人とも転倒した。
「二度とここには近づくな」
リラの声は、氷のように冷たく、そして絶対的だった。
男たちは這々の体で闇の中に消えていった。
氷の波紋が消えると、周囲の温度が元に戻った。しかし、僕の心臓は激しく鼓動を打っていた。
これが魔法。これがリラの本当の力。
僕は肩を押さえながら振り返った。工房の入り口に、リラが立っていた。月光に照らされた彼女の表情は、普段の穏やかさとは全く違っていた。その美しさは神々しいほどで、同時に近づきがたいほど圧倒的だった。
でも、その表情の奥に、深い悲しみのようなものを僕は感じ取った。
「リラさん……」
僕が声をかけようとしたとき、村の方から松明の明かりが近づいてきた。ガリックの声が響く。
「何事だ!」
「タクミさん、大丈夫ですか!」
ミラの声も聞こえる。二人が工房の前に駆けつけてきた。ガリックが僕の肩の傷を見て、眉をひそめる。
「やられたな。でも浅い傷だ」
彼は地面に残った油の跡を確認し、鼻を近づけた。
「これは普通の油じゃねえ。王都の暗部で使われる『速燃油』の類だ。素人の仕業じゃねえぞ」
そして僕の傷を見て、ぶっきらぼうに付け加えた。
「刃物の入り方が手練れのそれだ。お前、よく生きてたな」
「工房は無事か?」
ガリックが心配そうに尋ねた。僕はうなずく。
「ええ、間に合いました。でも……」
僕はリラの方を見た。彼女は壁にもたれかかり、疲労の色を隠せずにいた。
「リラさんが氷の魔法で追い払ってくれたんです」
僕の言葉に、ガリックが目を見開いた。
「魔法使いだったのか」
「少しだけ……使えます」
リラは控えめに答えた。しかし、僕は知っていた。あれは「少し使える」レベルではない。あれは圧倒的な力だった。
「なるほど、それで奴らを退けることができたのか」
ガリックが納得したような声を出す。
「ミラ、村の他の人たちにも知らせてくれ。今夜は見張りが必要だ」
「分かりました!」
ミラが駆けていく。しばらくすると、数人の村人たちが工房の前に集まってきた。
「タクミの工房が襲われたって?」
宿屋の主人エドワードが息を切らせてやってきた。彼の手には温かそうなスープの入った鍋と、薬草の束があった。
「大丈夫です。リラさんが守ってくれました」
「そうか。それは良かった。これ、傷薬にいい薬草だ。スープも作ってきた」
商人のマーティンも現れた。
「お前の工房は、もう村の一部だからな。守るのは当たり前だ」
「明日の朝、街の衛兵に知らせてこよう」と彼は具体的な協力を申し出る。
農夫のトムも手を挙げた。
「うちの納屋に丈夫な木材がある。見張りのためのバリケードに使ってくれ」
ガリックの言葉に、他の村人たちもうなずいている。この小さなコミュニティが、僕たちを守ろうとしてくれている。
「今夜は俺が見張りをする」
「俺も手伝う」
「ありがたいです。でも、皆さんにご迷惑をかけて……」
「何を言ってる。当然のことだよ」
村人たちが見張りの段取りを決めている間、僕は工房の中でリラの傷の手当てをしていた。彼女の腕には、深い切り傷があった。
「これ、どうしたんですか?」
「追手に襲われました」
「追手?」
僕の問いに、リラは一瞬口ごもった。
「リラさん、本当の理由を教えてくれませんか」
「……何のことですか?」
「なぜここにいるのか。なぜ僕の工房で働いているのか。そして——」
僕は包帯を巻きながら、慎重に言葉を選んだ。
「なぜ、あんな凄い魔法が使えるのか」
「あの魔法…すごかったですね。でも、なんだか、とても悲しそうに見えました」
リラの手が止まった。
「この力は…人を傷つけるためだけの力だと思っていましたから」
彼女の声は小さかった。自らの力への嫌悪感が滲んでいる。
「僕の木工は、誰かを笑顔にするためのものです。リラさんの力だって、きっとそうであるはずです。現に今日、工房と僕を守ってくれたじゃないですか」
リラは長い沈黙を保った。外では村人たちの話し声が続いている。
「最初から、僕は疑問に思っていました。リラさんほど有能な人が、なぜこんな辺境の小さな工房に」
「タクミさんは……」
「僕の素性を知りたいわけじゃありません」
僕は彼女の言葉を遮った。
「理由なんて、いりません」
僕は、彼女の包帯が巻かれた腕に、そっと自分の手を重ねた。彼女の肌は、氷のように冷たかった。
「僕が知りたいのは、過去じゃない。未来のことです。……明日も、明後日も、リラさんはここにいますか」
僕の問いに、リラの瞳が揺れた。僕の手に重ねられた彼女の指先が、微かに震える。
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、僕の手に、自分の手をそっと重ね返してきた。
それは、どんな言葉よりも雄弁な肯定だった。
暖かな感動が、胸いっぱいに広がる。彼女の素性がどんなものであれ、秘密があろうとも、この手の温もりこそが真実だ。それだけで――
「……ここが」
僕が安堵しかけた、その時。彼女が、震える唇で言葉を紡いだ。
僕は重ねられた手を見つめる彼女の横顔を見た。そこには、迷いを振り切ったような、穏やかで、それでいて泣き出しそうな笑顔が浮かんでいた。
「ここが、私の還るべき場所だと……分かったからです」
その言葉が、僕の心の最後の扉を、優しく叩き壊した。
彼女の素性がどんなものであれ、秘密があろうとも、もう関係ない。
「……ありがとうございます」
リラの覚悟を受け取り、僕は深く息を吸った。
彼女が、背負いきれないほどの過去を抱えながらも、この場所を信じてくれた。
なら、僕も信じてもらわなければならない。僕という人間が、何者であるのかを。
「リラさん」
僕が改まって呼びかけると、彼女は不思議そうな顔で振り返った。
「僕にも……あなたと同じように、人に話せない過去があります。だから、あなたの気持ちが少しだけ分かる気がするんです」
「タクミさんが……?」
「ええ。僕も、あなたと同じで――『よそ者』なんです。ただ……あなたよりも、もっとずっと遠くから来た」
僕は言葉を選びながら、静かに告げた。
「僕は、この世界の人間じゃありません」
「……え?」
リラの瞳が、困惑に見開かれる。僕が何を言っているのか、理解できない、という顔だ。無理もない。
「信じられないかもしれませんが、本当です。事故で死んだと思ったら、このウィロウブルックの森で目を覚ました。……元の世界とは、全く違う場所でした」
僕は自嘲するように、少しだけ笑った。
「だから、僕にはこの世界に『還るべき場所』なんて、どこにもなかった。ここで出会った人たちが、この工房が、僕の初めての『居場所』になったんです」
僕は工房の壁に、そっと手を触れた。ここを築き上げてきた日々の温もりが、指先から伝わってくるようだ。
「だから、リラさんの気持ちが嬉しいんです。あなたにとっても、ここがそんな場所になったのなら」
リラは、ただ黙って僕の話を聞いていた。その表情から驚きは消え、代わりに深い、何かを慈しむような眼差しが浮かんでいた。
彼女は、僕がただの変わり者ではなく、根源的な孤独を抱えている人間なのだと、きっと理解してくれたのだろう。
長い沈黙の後、彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……そうだったのですね」
その声には、憐憫や同情の色はなかった。ただ、静かな納得と、そして僕と同じ痛みを分かち合う者への、温かな共感だけが込められていた。
「ありがとうございます、話してくださって。……あなたの秘密、大切にします」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
僕たちは、ようやく本当の意味で、同じ場所に立つことができたのかもしれない。
「リラさん、これからもよろしくお願いします」
リラの表情が柔らかくなった。
「こちらこそ」
翌朝、工房には平穏な日常が戻った。ミラが元気よく顔を出し、村人たちが次々と様子を見に来る。修理を手伝ってくれる人、差し入れを持ってきてくれる人。
「タクミさんの工房は、村の宝だからね」
宿屋の主人エドワードが笑いながら言った。
「そんな大げさな」
「いえいえ、本当ですよ」
商人のマーティンも同調する。
「それに、リラさんがいてくれて本当に良かった」
「そうですね」
僕も心から同意した。夕方になって、修理もほぼ完了した。工房は元通りの姿を取り戻している。村人たちが帰っていき、工房には再び静寂が戻った。
「タクミさん」
「はい」
「昨夜のことですが、私の正体について、本当に何も聞かないのですか?」
「聞きたくないわけじゃありません。でも、リラさんが話したいと思ったときに、聞かせてもらえればそれでいいです」
「もしも、私が……普通の人間でなかったら?」
「それでも構いません。リラさんはリラさんです。それ以外に何も変わりません」
リラは長い間、僕を見つめていた。そして、小さく微笑んだ。
「タクミさんは……本当に、特別な人です」
リラのその言葉は、工房に灯るランプの光のように、僕の心を温かく照らしてくれた。
◇
翌日は、嘘のような平穏に包まれていた。
昨夜の襲撃がまるで夢だったかのように、工房にはいつもの日常が流れている。僕が鉋を引く小気味よい音。リラが彫刻刀で木を削る、繊細な音。ミラが時折顔を出しては、楽しそうにおしゃべりをしていく声。
僕は、その全ての音を愛おしいと思った。
これこそが、僕が守りたかったものだ。隣に彼女がいる。それだけで、何の変哲もない作業台が、世界で一番特別な場所に思えた。
リラも、どこか憑き物が落ちたように表情が柔らかい。僕が淹れた少し濃いめの紅茶を飲みながら、「この木材は、湿気に強いですね」などと、穏やかに言葉を交わす。
もう大丈夫だ。
これからも、この時間がずっと続いていく。僕は、そう信じかけていた。
――だから、気づかなかったのかもしれない。
地平線の彼方から、静かに、しかし確実に近づいてくる破局の足音に。
夕暮れの茜色が、工房の窓を染め始めた、その時だった。
ドンドンッ! と、工房の扉が叩き割られんばかりの勢いで鳴った。
僕とリラは驚いて顔を見合わせる。ただ事ではない。来客のノックの音ではなかった。それは、警鐘の音だ。
僕が扉に駆け寄るよりも早く、閂が内側から弾け飛ぶ勢いで、扉が開け放たれた。
「タクミッ!」
転がり込んできたのは、肩で息をしながら、見たこともないほど鬼気迫る形相のガリックだった。彼の鍛え上げられた胸が、激しく上下している。
「ガリックさん!? どうしたんですか、そんなに慌てて……」
僕の呑気な問いを、彼の絶望に満ちた一言が打ち砕いた。
「大変だ!王都から騎士団がこっちに向かってるって話だ!」
僕の手が止まった。リラの顔が青ざめる。
「騎士団?なぜこんな辺境の村に?」
「それだけじゃない……」
ガリックが息を整える。
「前にも来た勇者アルトが、今度は王国の第一王子ディエゴ・ライトブレイドと一緒に来るらしい!しかも、何かを探してるって話だ!」
――ディエゴ・ライトブレイド。
その名を聞いた瞬間、リラの顔から、まるで仮面が剥がれ落ちるように血の気が引いた。彼女が握りしめていた彫刻刀が、カラン、と乾いた音を立てて床に落ちる。それは、彼女の中で何かが砕け散った音のようだった。
勇者アルトだけではない。あの冷酷で、目的のためには手段を選ばない王子までが。
僕が息をのんで立ち尽くしていると、リラが虚ろな声で呟いた。
「……終わった」
それは、僕が初めて見る彼女の『弱さ』であり、魂からの悲鳴だった。
世界から音が消えたようだった。ガリックの必死な声も、窓の外の風の音も、もう僕の耳には届かない。ただ、目の前で崩れ落ちそうになっている彼女の姿だけが、やけに鮮明に見えた。
僕は一歩踏み出し、床に落ちた彫刻刀を拾い上げる。彼女がいつも大切に手入れをしていた、僕の知らない過去の染み込んだ道具。
だが、僕はそれを彼女には返さなかった。
代わりに、僕は工房の作業台へと向き直る。
そして、転がっていた名もなき木片を手に取ると、拾い上げたばかりの彼女の彫刻刀を、その木に突き立てた。
サクッ、と。木が命を宿す音が、静まり返った工房に響く。
僕は、彫り始めた。
震えるリラの視線も、呆然とするガリックの表情も気にせず、ただ無心に。勇者も王子も関係ない。僕が今、やるべきことは一つだけだ。
僕は彼女の蒼白な顔を振り返りもせず、言った。
「リラさん」
僕の声は、自分でも驚くほど静かで、それでいて揺るぎなかった。
「明日も、仕事ですよ」
絶望に染まる彼女に、僕は日常を告げる。
「だから、まだ何も終わっていません」
そして、僕は再び木片に向き直り、もう一度、彫刻刀を滑らせた。
「僕が、終わらせない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます