第一話 白い帳が開く時



時は二〇一三年、四月十日。

全ての地面をふやかすほどの大雨が降りしきっていた。

古めかしい趣のある日本屋敷──二条院邸の屋敷にも大雨は例外なく降りそそぐ。

ばらだだだん、ざらざらじゃぶじゃぶと、雨が住人を叩き起こさんばかりに通り庇や軒を揺らす。

狛枝八雲は、自室の冷たい布団の中で、まんじりともせず雨音を聞いていた。

彼は二条院邸の厨番である。二条院家を頭に置く極道「麟胆組」の末端構成員でもあるが、彼の仕事は専ら、組長一家や構成員たちの為に三食おいしい食事を作ること。

いつもなら離れのほうで暮らしていたが、今日は大人数を世話するために本邸の一室を借りていた。

朝の四時に仕込みを行うため、しっかり睡眠を取らねばならないが、今日はひどい雨のせいで中々寝つけない。

こんな雨の日は、彼の失った足の断面が疼いて痛む。冷えているせいもあいまって、残った腿の部分をいくら擦って温めても、ちっともましになりはしない。


「(こんなに冷える春の夜やなんてね。小豆で湯たんぽでも作ろうか)」


側に置いていた義足をつけて、狛枝は立ち上がる。

ゆっくり外に出ると、空を一瞬、稲妻が走り抜けた。「きゃっ」と小さい声がしたので、そちらを見ると、幼い少女──露葎と、椎本青年が手を繋いで、お手洗いの前で突っ立っている。

なんで子供が、と鈍る頭で考えて、ああ、と一人で合点がいった。

もうすぐ春祭りなので、花宴と呼ばれる少年少女たちが、舞いの練習のために、本邸に泊まり込むことになったのだっけか。

椎本は、まさかこんな夜半に狛枝と遭うなんて想定していなかったらしく、一瞬ばつの悪そうな顔をして視線を逸らした。


「あっ、……狛枝さん。どうしたんです、こんな深夜に」 

「ちょいと湯たんぽをこさえにね。椎本はんは……」

「ああ、この子がお手洗い一人で行けないって言うんで……」

「おててを、つないでもらいました!」 と幼い露葎が胸を張って答えた。

「とってもとっても、くらかったので!」

「そやねえ。こがな春雷が降る夜やもの、一人やと心細いよねえ」


「しゅんらい?」と露葎が首を傾げた直後、またもぴかっ!と白い輝きが空を覆い、一瞬の間ののち、どじゃあああん!と雷の音。かなり近くに落ちたらしい。

露葎は「きゃああっ!」と声を張り上げて、椎本青年の足にしがみつき、おそるおそる「いまのが、しゅんらい?」と大人達の顔を見上げた。

ぎこちなく小さな少女の頭を撫でつつ、ややうんざりしたような顔で椎本は外を見やり、「にしたって、今日はばかみたいに雨が降りますねえ」と小さくぼやく。

「早く止むとええね」と狛枝は微笑むと、「寒いし、あずき湯でも入れたろか」と二人の顔を見やった。え、と一瞬答えに臆する椎本だったが、露葎が「あずきゆ!ほしい!」と嬉しそうに手を引っ張って、右隣の土間へと入っていく。

「さっきトイレに行ったばかりじゃ……」と椎本は反論しようとしたが、狛枝の顔を見ると口ごもって、「じゃあ、一杯だけ」と言い直した。

三人が厨房に入って、狛枝が小さな鍋に小豆を放り込んで火をつける。小豆の煮える香りが漂う頃、露葎が外を指さして「あっ」と小さい声をあげた。


「ねえねえ、おやまがひかってる!あれも、しゅんらい?」


なんの気なしに、狛枝も椎本も窓の外を見やって──絶句する。

露葎が指さす先は、北に佇む山のてっぺん。その真上に広がるはずの雨空はなく──天が、真っ白に輝いていた。

まるで光る牛乳を流し込んだかのような白に、雨雲が塗り潰されて、みるみるうちに雨が止む。雷も息をとめて静まりかえる。白い空によって、静寂が一瞬で広まっていく。呆気にとられた後、二人の額からぶわりと脂汗が滲み出る。

椎本が声を戦慄かせ、絞り出すような声で囁いた。


「ばかな……ばかな!あれは……!」

「しろいとばり?」


何も分からない露葎は、なぜ二人がこんなにも恐怖で顔を歪めるのか分からない。

狛枝は己の手で、汗まみれの顔を覆い、「いかなきゃ」と呟いて、倒れ込むように扉を開け、その場を飛び出していた。鍋の火を消すことも忘れて。


「こっ狛枝さん!どこへ!何処へ行こうってんです!」

「あの人が」 血走った目で、狛枝は一度だけ椎本を振り返る。

「ヨウラク兄さんが、呼んでる」

「狛枝さんッ!血迷ったんですか!行っちゃだめです、狛枝さんッ!」


取り憑かれたように、狛枝は外へ出て行った。椎本は蒼白い顔のまま、急いで露葎を抱きかかえて廊下に向かう。

騒ぎで起きたのか、数人の使用人や、構成員たちが「一体なにごとや?」と不満げに声を漏らすも、同じく窓の外を見て凍りついていた。

窓の外に視線が釘付けになる面々の中、一人の美丈夫と呼ぶべき中年の男が、窓へと近寄った。椎本は男の姿を認めると「組長」と慌てて駆け寄った。


「白い帳です、白い帳が……また、現れました!裏手の山からです!」

「……そうか」


組長──二条院瑆(ひかる)の表情が一瞬だけ強張った。

白い帳という言葉を聞いた瞬間、場に混乱が満ちる。大の大人ともあろう者たちが、恐怖や怯えの表情を刻み、震えたり、その場で蹲ったり、あるいはその場で動けなくなってしまっていた。

その光景の恐ろしさに、露葎は恐怖を喉奥に飲み込み、椎本の肩に顔を埋める。

だがすぐに、瑆がパンッ!と鋭く手を鳴らす。その音の衝撃で、取り乱していた面々が我を取り戻した。


「鐘を鳴らし、皆に伝えい。一同、動ける者は第一戦闘態勢へ。離れにいる構成員も集めるんや。子供と女は地下へ。稲妻の如く急げ!」


皆、蜘蛛の子を散らしたように、喚きながら走り去る。

またたくまに金属を打ち鳴らす甲高い音が響き、人の声が集まる。庭に人が密集し、ドスだの鉄砲だの、物騒なものを手に、皆が空を睨みながら配置につく。

椎本は露葎や花宴の子供たちを連れて、地下へと向かおうとしたが、はっと思い出して瑆へと振り返った。


「く、組長!狛枝さん、山に行ってしまいました!一人で!ど、どうしましょうか」

「八雲が?……あの阿呆め」

「追いかけますか、組長」

「ッうお……(れ、玲泉さん!)」


やおら、瑆の背後から音もなく、銀髪の大男が現れた。

玲泉という男である。白い肌と髪以外の全身が黒に包まれているせいで、正しい背丈も分からないくらいに巨きく感じる。

椎本は久しぶりに見る顔に驚いて、小さく呻いて一歩後退った。

軽く身じろぎした玲泉を、瑆の傷だらけの手が制する。


「いや、……行かせてやろう。戻ってくれば御の字。帰ってこなければ……そこが彼の運の尽きだ」

「了解」


その一言だけ残して、またも玲泉は闇へと消える。

組長は顔を顰めたまま、ひとつ唸ると、起きてきた妻と子の肩を抱いて「お前達も地下へ」と静かな声で促す。

異常な空気に身震いしながらも、うええん、うええんと泣く子供たちの手を引いて、椎本は「さあ、こっちだ。皆早く」と急かし、白い空に照らされた廊下を、早足で駆けていった。



「兄さん、ヨウラク兄さん。どこや……上か、上からおれを、おれたちを、呼んどるんか……なあ、兄さん……!」


山の中を、狛枝はがむしゃらに駆ける。

不気味な程静かだった。空の上をオーロラの如く染め上げる白。ぬかるんだ土が、狛枝の足をとらえようとする。

何度か転びながらも、狛枝は息を切らし、必死に山道を登る。こんな夜中に山道を登るなど自殺行為だが、白い空が太陽の如く空を照らすので、迷うことはない。

走りながら、鈍る頭で、狛枝は気づいていた。生き物の声がしない。鳥の声、蛙の声、虫の声、ありとあらゆる声がしない。

ありとあらゆる木々の梢が、首を垂れている。神々しいものに恭しく傅くかのよう。

全てが白で満たされるなか、桜の花びらだけが満開に咲き誇って、足元の道を、淡いピンクで彩っている。


「(この先は、確か、祠が……あるはずや。何を奉ってるかも分からない、ちいこい祠が……)」


狛枝の足は、導かれるようにして、一本の道を駆け上がっていく。不気味なくらい、体が軽い。喪ったはずの足がまた生えたかのような体の軽やかさと、背中を押す強い風に身を任せ、足は進む。

どれくらい歩き続けていたろうか。道の終わりに、狛枝の目は祠を見つけていた。

小さな木製の祠からは、光が迸っていた。白い空を彩る源泉は、この祠からだったのだと、狛枝はすぐ気づいた。

いつもは固い南京錠で閉じられているはずの扉は、無防備にも全開となって、たえず白い輝きをたたえている。

閉じなくては、と思った矢先。耳をつんざくような、ひび割れる音を聞いた。まるで卵が割れるかのように、祠を中心に、黒い亀裂が走っていく。

一体何が起きている?黒い亀裂から少しずつ、白と一緒に、シャボンのような玉虫色が漏れ出ていた。やがて、その色を飲み込むかのように……亀裂はばっくりと大きな穴となった。

そこから、よろよろと、何かが現れる。ひどく臭い。

小さな人影だ。腰までのびた毛に、日焼けたような黒い肌。とても痩せ細っていて、ちょっと力を加えれば、すぐにでも折れてしまいそうだった。


「……これは……いや、きみは……」


男の子だ。おずおず、狛枝は声をかける。俯いていた子供は、ゆっくり顔を上げる。

銀色に輝く瞳が、大きく見開かれて、じいっと狛枝の顔を見上げた。ぱっちりとした垂れ目に、長い前髪がすだれのようにかかって、鬱陶しそうだ。

小さな少年の肢体が、完全に亀裂から吐き出されるようにして出ると、静かに亀裂は閉じていく。狛枝はその一瞬の隙間に、人の姿を見た。

優しく微笑む男の顔を、まばたきの間だけだが、確かに見たのだ。


「にいさ……」


ばくんっと亀裂が完全に閉じると、黒い一筋の線となり、消えた。それにならうかのように、白い光が徐々に勢いを失って、涸れていく。

一歩一歩、少年が狛枝に近づく度、空もまた白の彩りを失っていき、夜の闇に食われはじめた。黒が白に勝てる道理などないのだとばかりに、分厚い雲に負けて、白い帳は消えていく。


「……ここ、そと?」


かさついた唇で、少年が初めて口を開いた。長年水を飲んでいないかのような掠れた高い声。

狛枝は足の感覚がなくなって、バランスを崩し、ぐったり膝をつく。それでも這うようにして、少年のもとに近寄ると、小さな顔に両手を添えて髪をかきあげた。

先程の銀色に見えた瞳は、気づけば曇り空のような、色褪せた青色に変わっていた。

──似ている。その4字をぐっと飲み込んで、狛枝は痩せ細った体をぎゅっと抱き寄せた。少年の肌は少し熱っぽくて、骨と皮だけといっても差し支えない体だった。

突然のことなので、少年は困惑したまま、されるがまま。


「わ……!」

「……お腹すいてへん?ご飯食べる?」


そう問いかける狛枝の声は、涙で濡れていた。なぜこの人が泣いているのか、少年は分からず、ただ困惑した。

答えるより早く、ぐううううう、と大きな腹の音が鳴る。少年の腹からだった。

途端に、少年は自分がとても空腹で、とても疲れていたことを思い出した。狛枝にすがりつくように脱力して、小さく「……おなか……すいた……」とぼやく。

ひとつ強い風が吹いて、山の上に咲く桜たちが、花吹雪を散らした。帰り道を示すかのように、ぬかるんだ道に次々と、白い花びらが舞う。


「おれについといで。なんか食べよお、おじさんが作ったるけえ」

「……うん……おじさん、だあれ?」

「おれは、お狛よ。ご飯を作るお仕事をしとってなあ。きみは?お名前、なんて言うん?」


狛枝はやっと体を離して、もう一度少年の顔を見やった。

少年は少し熱に浮かされたような表情と、虚な目で、ずずっと鼻を鳴らした。

狛枝の顔に土だらけの手をそっと当てると、必死に言葉を絞り出す。


「おれの名前。おれの、名前は……そう。夜が明けるって字で、晨明(ときあけ)」


山の陰から、白い光が差す。夜明けだ。いつの間にか、陽が昇っていた。

狛枝は朝日を背に浴びながら、小さな少年──晨明を抱えると、柔らかな道を引き返すため、ゆっくりと足を進めるのであった。


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