第4話 距離の向こうに見えるもの
昼休みのオフィスは、電話も鳴らず、いつもより静かだった。
私は自分のデスクで弁当のフタを開けたけれど、箸を持つ手がなかなか動かなかった。
――昨日、泉さんと一緒にいた佐伯さん。
真由が教えてくれたあの話が、頭の中をぐるぐる回っている。
「高梨さん、今日お弁当?」
隣の席の千夏が、にこやかに声をかけてくる。
「うん。作り置きしてきたやつ」
笑顔を返そうとしたけれど、きっと引きつってしまったと思う。
千夏は一瞬、何かを察したように私を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
食欲がないまま弁当を口に運んでいると、オフィスの入口が開いて、佐伯さんが入ってきた。
ジャケットを片手に持ち、軽く息を整えている。
――外回りから戻ってきたばかりらしい。
私の視線に気づいたのか、彼は一瞬こちらを見て、ほんのわずかに口元を動かした。
それが笑みだったのか、単なる反射だったのかはわからない。
だけど、胸が勝手に反応してしまう。
「おかえりなさい」
思わず声をかけると、彼は小さくうなずき、「……ただいま」と低く返した。
その声はやっぱり私の好きな、落ち着いた響きだった。
---
午後の仕事は、別部署との打ち合わせから始まった。
会議室の長机の向こう、佐伯さんは相変わらず淡々と資料を説明している。
その横顔を見ていると、なぜだか切なくなった。
こんなに近くにいるのに、彼の心には近づけない気がする。
「……高梨さん、この数字の再確認お願いできますか?」
突然名前を呼ばれ、慌てて我に返る。
「はい! すぐに確認します」
やけに大きな声が出てしまい、会議室の空気が少し和んだ。
佐伯さんの口元が、わずかに緩んだのを私は見逃さなかった。
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夕方、外はもう薄暗くなっていた。
私はコピー室で残業用の資料をそろえていた。
その時、背後から足音が近づき、ドアが静かに閉まる音がした。
「高梨さん」
振り向くと、そこに佐伯さんが立っていた。
思わず息が詰まる。
「さっきの会議、助かりました」
「いえ……私こそ、もっと気をつけないと」
そう答えると、彼はほんの一瞬だけ目を細めた。
それは――優しい表情だった。
この数秒だけでいい。
避けられている理由がなんであれ、こんなふうに笑ってくれるなら、まだ諦めたくない。
でも、口から出た言葉は違った。
「……泉さんと、仲がいいんですね」
空気が、わずかに張りつめた。
彼はすぐには答えなかった。
やがて小さく息を吐き、
「……あの日は偶然です」
それだけ言って、視線を逸らした。
偶然――。
その言葉を信じたいのに、胸の奥で何かがざわついて、落ち着かない。
---
「偶然……ですか」
自分の声が、少し掠れていた。
彼はそのまま何も言わず、コピー機の脇を通り抜けて、扉の前で立ち止まった。
背中越しに、「高梨さん」ともう一度だけ呼ばれる。
「……今は、あまり近づかない方がいいと思っています」
その一言で、胸の奥が音を立てて崩れた気がした。
何も答えられずにいると、彼はドアを開けて出ていった。
---
机に戻っても、言葉が頭の中で反響していた。
“近づかない方がいい”――それは拒絶だ。
優しさを装った、はっきりとした拒絶。
仕事の手が止まりそうになるのを、必死でこらえる。
泣くなんて絶対にしたくなかった。
ここで涙を見せたら、それこそ彼の望む「距離」を肯定してしまうことになる。
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帰りの電車。
窓ガラスに映った自分の顔は、驚くほど疲れていた。
イヤホンから流れる音楽も、頭には入ってこない。
彼があんなふうに言った理由を考えても、答えは見つからなかった。
ただひとつわかるのは――諦めたくない、ということ。
理由が何であれ、この気持ちは簡単に消せない。
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翌朝。
出社すると、オフィスがざわついていた。
どうやら新しい契約社員が今日から入るらしい。
「ほら、美人さんだよ」
千夏が小声で囁く方向を見ると、長い黒髪をまとめた女性が笑顔で自己紹介をしていた。
名前は藤崎。
その笑みは人懐っこく、場の空気を一気に和ませていた。
――そして、その視線の先に佐伯さんがいた。
彼は普段ほとんど見せない、柔らかな表情で藤崎さんと握手をしていた。
胸の奥に、冷たいものが流れ込む。
昨日の「近づかない方がいい」という言葉と、目の前の光景が頭の中で重なっていく。
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昼休み、千夏が私の顔を覗き込む。
「……顔色悪いよ。大丈夫?」
「平気」
そう答える声は、自分でも驚くほど乾いていた。
遠くのテーブルで、藤崎さんと佐伯さんが談笑している。
その姿を見て、心の奥で何かが小さくはじけた。
――避けられている理由を、知りたい。
ただ傷つくだけの真実かもしれない。
でも、このまま知らずにいる方が、ずっとつらい。
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午後、廊下で佐伯さんとすれ違った。
「高梨さん」
呼び止められて振り向くと、彼は少し言い淀んでから、
「……昨日のこと、気にしないでください」
と言った。
「気にしないでって……無理です」
そう返すと、彼は困ったように笑った。
「今は話せません。でも――」
その続きは、藤崎さんの声に遮られた。
「佐伯さん、資料の件でちょっと……」
彼は一瞬だけ私を見てから、「すぐ行きます」と答えて歩き出す。
廊下に取り残された私は、息を吐き出すしかなかった。
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その夜、家に帰っても眠れなかった。
パソコンを開き、思わず「佐伯 泉 藤崎」などと検索をかけてしまう。
もちろん、答えは何も出てこない。
でも、私の中で何かが変わり始めていた。
ただ受け身で避けられるのを待つだけじゃなく、もっと彼に近づく方法を探したい――そう思った。
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そして翌日。
私は小さな作戦を胸に、会社のドアをくぐった。
佐伯さんの避ける理由も、藤崎さんとの関係も、必ず確かめてみせる。
その瞬間、これまでよりも少しだけ、胸が軽くなった気がした。
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次回予告
次回、第5話『彼の過去と、新しい彼女』
佐伯が避ける理由の影にある“過去の出来事”の一端が明らかに。
美咲は藤崎に近づき、思いがけない情報を耳にする――。
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