第32話 馬超の圧力

 冬の西涼、凍てつく雪原に、馬超軍が陣を構えていた。彼らが吐く白い息は、空に昇ると、そのまま空気に溶けていく。兵士たちは、蜀から贈られた温かい衣類を身につけ、焚き火の周りに身を寄せ合っていた。その衣類は、羊毛の柔らかな手触りを持ち、微かに草の香りを漂わせている。その表情には、寒さによる苦痛はなく、むしろ、温かさによってもたらされた、穏やかな安堵が満ちていた。


 遠く、魏の軍営から、羨望の眼差しが向けられる。耳を澄ませば、「なぜ、奴らは……」「我々だけが、この寒さに凍えるのか」という魏兵たちの囁きが、風に乗って聞こえてくるようだった。その声は、曹操の耳にも届いていた。


 魏の軍営では、夜になると、わずかな焚き火の周りで、兵士たちが身を寄せ合っていた。吐いた息が凍りつき、頬に張り付く。骨まで突き刺さるような寒さの中、凍えた指が焚火の熱でぱちり、ぱちりと音を立てる。その痛みは、まるで針を刺されるようだった。ある兵士は、凍傷で感覚のなくなった足の指を必死に擦りながら、呻き声を漏らす。別の兵士は、温かい布団で眠る馬超軍の夢を見て、はっと目を覚ます。「西涼の冬は、我々よりも厳しいはず……なぜ、奴らはこれほどまでに……」という声は、もはや魏の軍営全体に蔓延した、絶望の叫びとなっていた。


 曹操は、西からの馬超軍の侵攻に、頭を抱えていた。彼の脳裏には、馬超軍が蜀との交易によって、物資が豊富になっているという報告が浮かんでいた。


 「温かさ……それが、戦場を左右するというのか!」


 彼は、ふと隣を見る。郭嘉と荀彧が、静かに、しかし互いに視線を交わしている。その一瞬の目配せが、まるで自分の苦悩を嘲笑っているかのように思えた。


 (私を裏切るつもりか……!いや、それとも……あの女の知恵は、私の臣下たちまで心を揺さぶっているのか……!この私の周りも、すでに敵の掌中にあるというのか……!)


 曹操は、月英の知略に、深い恐怖を感じた。それは、物理的な力を持たない、しかし抗うことのできない「必然性」の連鎖だった。


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 一方、蜀の宰相府は、穏やかな春の陽光に包まれていた。昼から夕方へと時間は移り、柔らかな日差しが、徐々に赤みを帯びていく。魏の凍える地獄とは対照的な、暖かく、平和な空間だった。


 私は、孔明と一緒に温かいお茶を飲んでいた。商人ネットワークを通じて入手した、馬超軍が魏に圧力をかけているという報告書を、私は孔明に手渡す。


「孔明様……本当に、馬超軍が……」


 私の声は、驚きと、そして、喜びを含んでいた。しかし、孔明は、私の言葉の裏に隠された感情をすべて見透かすように、静かに、しかし優しく微笑んだ。


「あなたの『温かさ』の知恵が、魏を完全に包囲したのです」


 孔明の言葉は、私の心を解き放つ。胸の奥から、温かい熱がこみ上げてきた。


 (やった!喜び!やった、私の知恵が天下を動かしてる!――でも待って……本当に?こんな、たかがほっかいろで?――いや、違う。そんなことありえない!この喜びは、ただの私の勘違いだ……!――でも、孔明が言ってるんだから、本当だ!信じられないけど……ああ、これは……!温かい衣類で笑い合う西涼の兵士たちの姿が、まるで幻のように目に浮かぶ。その笑い声は、私には笑い声にも、そして嬉しさのあまり泣いているようにも聞こえた……。私は、彼らが笑顔になるために、この知恵を使っているんだ!孔明のためなら、どこまでもやっちゃうもんね!)


 私の思考は、孔明の愛に触れ、さらに暴走していく。それは、ただの妄想ではない。私の行動すべてに「必然性」を与える、新たな価値観の再構築だった。それは、私自身の羞恥心と、この壮大な計画の高揚感、その二つの感情の助走でもあった。


 私は、孔明に目配せを交わし、小さな声で呟いた。


「この温かさが……魏を完全に包囲している……」


 孔明は、私の言葉に、静かに頷いた。


「ええ。美と温かさ、そして食という、三つの知恵が、魏の兵士たち、そして将軍たちの心を内側から溶かしているのです。もはや、彼らは戦うことを望んでいません。彼らが望んでいるのは、ただ、平和な世界……それだけです」


 孔明はそう言いながら、心の奥では冷徹に分析していた。(平和的な解決……そう、それが私の戦略。敵を苦しめることこそ、最も平和的な解決に繋がるのだ。武力で倒すよりも、飢えさせ、凍えさせ、欲望で内部分裂させる……これほど効率的な『戦い』は、他にない。彼(曹操)が滅びることは、彼の民が救われることなのだ……。荀彧や郭嘉も、やがてこの温かさに心を動かされるだろう。いや、彼らもまた、人間なのだから……)


 孔明の言葉に、私は、平和な勝利への道が見えてきたことに、安堵の表情を浮かべた。馬超軍が苦しんでいることは確かだ。しかし、彼らの苦しみは、平和な世界の到来への、小さな代償なのだ。私は、そう自分に言い聞かせた。それは、私自身の罪悪感を打ち消し、この勝利に「意味」を与えるための、私にとっての「必然性」だった。


 夕焼けに染まる空は、まるで、平和な未来を象徴しているかのようだった。その光は、未来への静かな道標。 そして、その光は、過去の戦乱の残影。その光は、私の心を照らし、前に進む勇気をくれた。

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