第15話 呉の奥方、美を語る

春の陽光が黄家の庭を優しく照らす昼下がり。

私は孔明とともに、宰相府の一室で商人ネットワークの代表である李進との会合に臨んでいた。卓を挟んで向かいに座る李進は、前回よりも数段、顔色が良い。疲労の痕跡は消え、その眼光は鋭いながらも、どこか期待に満ちている。立ち上るお茶の湯気が、彼の顔にかかった苦労の影をぼかし、どこか人間味を帯びさせていた。


「お嬢様、とんでもないことになっております」

李進の声は、興奮を隠しきれない熱気を帯びていた。「呉の港町、建業では、お嬢様が作られた香油、いや、『化粧水』が、奥方様方の間で、瞬く間に評判になっております。肌の艶が良くなり、香りが良いと、それはもう大変な騒ぎで…」

その報告を聞きながら、私は思わず内心でガッツポーズをした。(よし!美の鎖、第一段階、完璧よ!美は最大の武器…この理論、いける!)

私の隣で、孔明は静かに茶を啜っていた。立ち上る湯気が彼の顔を淡く覆い、その表情から内心を読み取ることはできない。ただ、その指先が、僅かに茶碗の縁を撫でるように動いた。それは、彼の思考が静かに、しかし確実に進行していることを示唆しているようだった。


李進は、身を乗り出すようにして、さらに興奮した様子で語り続けた。

「なんでも、建業の太守の奥方様が、娘の婚礼の儀で化粧水を贈ったところ、その肌の艶が素晴らしいと、宴席で大変な騒ぎになったとか。

その宴席での様子が、また面白い話でございます。

奥方様は、この化粧水を惜しむように、指先にほんの少しだけつけて、肌になじませたそうでございます。

するとどうでしょう、瞬く間に、肌は朝露をまとったかのように輝き、

あの、蓮の花のような、奥ゆかしくも清らかな香りが、

ほんのりと周囲に漂ったと聞きました。

それを見た他の奥方様方は、扇子で口元を隠しながらも、

その視線は化粧水の瓶に釘付け。

「まあ、素敵ですわね」「一体、どこで手に入れたのですか」

と、次々に言葉をかけてきたそうでございます。

その太守の屋敷には、連日、他の将軍の奥方様や、有力な商家の妻たちが押し寄せては、

『一体、その香油はどこで?』と、あの手この手で探りを入れておりまして。

今や、建業の社交界では、この化粧水を、手に入れられぬ者は恥をかくというほどの盛り上がりようでございます。

侍女たちは、主人たちが贈り物合戦で疲れ果てた顔をしながらも、次なる化粧水をどう手に入れるかで頭を悩ませている…と、港の商人が申しておりました」


李進の言葉に、私の思考は急速に暴走を始めた。


(そうよ!美は最大の武器!奥方たちの美しさは、夫の顔を立てる。それが、彼女たちのプライド…いや、生きがい!この化粧水は、ただの香油じゃない。これは、女の戦場における、最強の武器よ!これを使って、奥方たちがマウントを取り合うのよ!)


私の脳内には、新たなビジネスモデルの設計図が描き出された。

まず、この化粧水を求める奥方たちが熾烈な競争を繰り広げる。

その競争に便乗し、港の商人は化粧水の流通を支配しようと動き出す。

流通ルートを掌握した商人たちは、化粧水だけでなく、

他の蜀の産物もセットで扱うようになり、呉の贈答品市場全体が蜀に依存する。

その結果、呉の経済が蜀の貿易に深く組み込まれ、

軍事的な対立よりも経済的な利益を優先せざるを得なくなる…!


いや、待って、もっとすごいことも起きるんじゃないかしら?

この化粧水は、単なる貿易品じゃなくて、秘密兵器にもなるわ!

例えば、太守の屋敷の侍女が、主人の目を盗んで化粧水の瓶をこっそり持ち出し、

それを闇市で高値で売りさばく。

闇市で化粧水を手に入れた商人が、さらに遠く離れた曹操の領地に密かに運び込む。

曹操の奥方様たちがこの化粧水に夢中になり、曹操に「蜀と仲良くして」とねだる。

呉の将軍が化粧品ひとつで曹操の誘惑を断ち切る…これ、いけるんじゃない?

美の力で貿易摩擦を解消して、外交が円滑に進んで、

最終的に三国鼎立のバランスを美の力で維持するとか…


私の思考は、商人との交渉という現実の壁を遥かに超えて、壮大な美と政治の連鎖反応を妄想し、混迷を極めていた。

その時、孔明が私の手を取り、静かに言った。

「大丈夫です。あなたの知恵は、必ずや、この国の未来を拓きます」

孔明の言葉に、私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


交渉を終え、月英と孔明は、二人で夜空を見上げた。

「本当に、すべてはうまくいくのでしょうか?」

月英が孔明に、不安を漏らす。

孔明は、何も言わずに月英の瞳をまっすぐ見つめ、静かに頷いた。言葉はなくても、その瞳には「君となら大丈夫だ」という強い信頼が宿っていた。


夜空には、北斗七星が輝いている。

月英は、その北の空をじっと見つめながら、孔明に寄り添った。

北斗七星の柄が指す先には、かつて劉備が都を置いたとされる地がある。

そして、その七つの星が描く形は、まるで未来の蜀の領土を象徴しているかのようだった。

(この星のように、私たちの美の力も、北へ、東へ、広がっていくのかしら。

でも、星空には、見えない星もたくさんある。

私たちが見ていない場所で、何かが起きているのかもしれないわ…)

月英は、星を見つめながら、未来への希望と、まだ見ぬ不安を同時に感じていた。

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