第4章

「……田島、お前はこのまま逮捕する」

九条の低い声が取調室に響いた。


机の向こうで田島は暴れた。

「ふざけんな! 俺じゃねえ、俺じゃ――!」

手錠をかけられ、引きずられるように廊下へ連れていかれる。


最後まで抵抗をやめないその姿が、玲央の目に焼き付いた。

必死の否認。怒り。怯え。

だが、証拠は揃っていた。被害者の衣服からは田島の繊維片、現場には彼の指紋、そして複数の目撃者。

揺るぎようのない事実が、ひとりの人間を追い詰めていた。


「……これで一件は終わりだ」

九条が短く言った。

玲央はただ頷くしかなかった。


――本当に、終わりなのか。


取調室を出たあと、玲央は無言で署をあとにした。

夜風が肌に刺さる。街の灯りは揺れ、どこか遠くの救急車のサイレンが尾を引いて消える。

歩道を歩く足音が、妙に大きく耳に残る。


田島の顔が脳裏を離れなかった。

取り調べの最中、豹変するように声色や態度が変わったあの瞬間――。

あれは狂言なのか、それとも本当に“別人”がいたのか。


(……いや、考えるな。証拠がすべてを示している。田島が犯人だ)


自分に言い聞かせても、心は落ち着かない。

足取りは次第に重くなる。


田島が吐き捨てるように言った最後の一言が、まだ耳に残っている。


――「お前も、だろ」


その声が、玲央自身の奥底にある何かを直撃した。

胸がざわつく。呼吸が乱れる。

まるで、自分の中にも“もうひとり”がいると見抜かれたようで。


(俺は……普通だ。俺は、俺だ……)


呟いても、心の奥で誰かが笑っているような錯覚が消えない。

ガラスに映った自分の影が、ほんの一瞬、知らない男の輪郭に見えた。

慌てて目を逸らし、深く息を吸う。


夜の街は冷たく、人々はそれぞれの帰路を急いでいる。

自分だけが取り残されているように感じられた。

足音は速くなり、やがて走り出していた。


――逃げ場などないと知りながら。

その夜。


玲央はベッドに横たわっても、なかなか眠れなかった。

田島の顔が、あの叫び声が、耳の奥にこびりついて離れない。


「……お前も、だろ」


あの言葉が脳裏で何度も反響し、胸を締め付ける。

息を整えようと瞼を閉じると、闇の底から別の光景が立ち上がってきた。


――夢。――そう信じようとした。


だが、あまりにも鮮烈で、匂いすら感じられるほどのリアルな夢だった。


月のない夜道。

街灯がところどころに立っているが、光は弱く、路地の奥は墨のように暗い。

その闇の中に、ひとりの女の背中が浮かんでいた。

肩から下げた鞄、早足のリズム、ヒールの小さな音。


その背を追っているのは――自分だった。


(違う……俺じゃない。俺は……)


否定しようとしても、夢の中の視点は彼のものだった。

冷たい夜気、ポケットの中で握りしめている金属の感触、心臓の高鳴り。

どれも生々しく、自分の体験そのものだった。


「……待てよ」

かすれた声が、口をついて出た。


女が振り返る。驚きと恐怖に見開かれた瞳。

その瞬間、時間が歪む。

右手に持った刃物が月光を反射し、心臓めがけて貫かれた。


肉を裂く鈍い感触。

女の口から押し殺した悲鳴。

熱いものが飛び散り、頬をかすめる。


――そこで、世界が暗転した。


玲央はベッドの上で跳ね起きた。

全身汗で濡れ、胸が激しく上下している。

喉は乾き、呼吸は荒い。


「……夢、だ」

自分に言い聞かせる。

「ただの、夢……」


けれど、掌を見たとき、錯覚のように赤黒い染みが見えた気がして、慌てて握りしめる。

ただの幻覚。何もついてはいない。

それでも心臓は落ち着かない。


窓の外では、遠くで犬の吠える声が夜を裂いた。

まるで告発の声のように、耳に痛く響いた。


玲央は布団に潜り込み、震える身体を必死に押さえた。

夢を見てから二日。

仕事の合間にふとつけたテレビから、その言葉は突き刺さった。


「昨夜遅く、市内の住宅街で女性が刺殺されているのが発見されました──」


一瞬、耳が麻痺したように何も入ってこなかった。

画面には黄色い規制線、ちらつくカメラのフラッシュ、人だかりを押しのける警官の姿。

テロップに流れる被害者の名前、年齢。

そして現場の地図が拡大される。


それを見た瞬間、玲央の体の奥底が凍りついた。


あの夢で見た路地だった。

街灯の位置も、建物の輪郭も、足音が響いたあの石畳さえも──すべてが一致していた。


「……そんな、」


声が震えていた。

夢の中で背後から追った女の影と、ニュースで映る被害者の姿が重なる。

心臓を刺す鈍い感触、飛び散った体温、あの恐怖に見開かれた瞳。


夢じゃなかったのか。

また、予知夢なのか……。


頭の中で言葉がぐちゃぐちゃに絡み合い、喉を締め付ける。

立ち上がろうとしても足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。


「違う……違う……俺じゃない……」


呟きながらも、心の奥では複雑な心境だ。

自分が犯行現場にいたかもしれないという感覚のあまりの現実味。

そして“夢の二日後”に現実となったニュース。


これは偶然とは思えない、そんな心と現実の間の入り混じった感情が

何かを締め付けてくるような感覚。


呼吸が浅くなる。

額から汗が落ちる。

指先が冷え、震えが止まらない。


──俺は、なんでこんな夢を見たんだ。

その問いが脳裏で鳴り続け、テレビのアナウンサーの声をかき消していった。

ニュースを見終えたあとも、玲央は呆然としたまま、リモコンを握りしめていた。

思考がまとまらない。

頭の奥で「俺じゃない」という声と「やったのは俺だ」という声が、絶え間なくせめぎ合っている。


そんなとき、机の上で携帯が震えた。

見慣れた名前が画面に浮かぶ──九条一真。


玲央は条件反射のように手を伸ばしたが、指先が震えて押せない。

その数秒のためらいの間に着信は途切れ、すぐに留守番電話のアイコンが点滅を始めた。


喉を鳴らしながら、玲央は再生ボタンを押す。


「……玲央、俺だ。すぐ折り返してくれ」

「まだ、報道には出されていないが、被害者は二十八歳の女性、名前は安藤美佳。君も記憶にあるだろう、二年前に一度インタビューしたはずだ」

「死因は心臓を一突き──まるで、前回と同じだ」


声が止まり、短い沈黙のあとに通話は切れた。


胸の奥に冷たい杭を打ち込まれたような感覚。

安藤美佳──忘れるはずがなかった。

まだ記者として駆け出しだった頃、彼女の小さな雑貨店を取材し、夢を語る彼女の表情を記事にした。

その後も何度か、笑顔で挨拶を交わしたことを思い出す。


なぜ彼女が。

なぜ、また俺の知っている人間が。


足元から力が抜け、携帯が床に落ちる。

音も聞こえない。耳の奥で血がざわめき、世界が遠のいていく。


「……俺のせいなのか……?」


胸に広がる罪悪感と恐怖が絡み合い、吐き気を催すほどだった。

夢に見た光景と、現実の死。

その繋がりを考えるほど、答えは一つしか浮かんでこない。


──自分が、殺しているわけではないのに夢に見ている。


その言葉が脳裏にこびりつき、離れなかった。

安藤美佳の遺体が横たわる現場は、まだ鑑識のライトで青白く照らされていた。

倒れていたリビングの空気は、血の匂いと生活の匂いが混じり、重苦しく胸にまとわりつく。


「死因は刺創……心臓を一突き。前の事件と同じだな」

横にいた若い鑑識員が呟いた。


九条は顎に手をあて、遺体に視線を落とす。

苦痛に歪んだ様子もなく、むしろ一瞬で絶命したかのような静けさ。

この鮮やかさは素人の犯行ではない。


「また……だ」

思わず声が漏れた。

一件目と同じ心臓一突きの殺人

その共通点は明白だった。


だが、九条を最も動揺させたのは別の点だった。


被害者の名前──安藤美佳。

捜査資料を確認したとき、思わず目を見開いた。

数年前、地域の小さな雑貨店のオーナーとして新聞や雑誌に取り上げられ、その一つに「如月玲央」の署名記事が残っていたのを、九条は覚えていたのだ。


「玲央……お前は、これも知っているのか?」


胸中で呟きながら、九条は現場を後にした。

署に戻ると、デスクに腰を下ろし、すぐに携帯を取り出した。

捜査会議で報告する前に、どうしても彼に知らせたかった。


「……玲央なら、何か引っかかることを覚えているかもしれない」


それは探偵役としての期待であり、同時に彼を“事件に巻き込みたくない”という矛盾した思いでもあった。


深夜を過ぎた時間だったが、迷わず番号を押す。

数回の呼び出し音。だが応答はなかった。


仕方なく、九条は短く息を吐いてから留守番電話に切り替えた。


「……玲央、俺だ。すぐ折り返してくれ。被害者は二十八歳の女性、名前は安藤美佳。君も覚えているはずだ。二年前にインタビューして記事を書いた……。死因は心臓を一突き──前回と同じだ」


一呼吸おいて、言葉を区切る。


「頼む、何か思い出したらすぐに連絡をくれ」


通話を切ったあと、九条はしばらく机に肘をついたまま黙り込んだ。

自分でも気づいていた。玲央を必要以上に巻き込みたくないと考えながら、結局は最初に連絡を取ってしまう。


「……まるで、何かに導かれてるみたいだな」

ぽつりと独り言を漏らし、九条は額を押さえた。

あのとき、玲央は取材で小さな雑貨屋を訪れていた。

都会の片隅、古びた路地の奥にある木造の小さな店。

扉を開けると、鈴の音が優しく鳴り、ふわりとハーブと木の匂いが漂った。


「いらっしゃいませ」


棚の奥から現れたのが、店主の安藤美佳だった。

まだ二十代半ば。柔らかい栗色の髪を後ろで束ね、白いシャツにエプロン姿。

大きな瞳は少し疲れているように見えたが、それでも笑顔を崩さなかった。


「如月さん、でしたよね。記事にしてくださるんですよね?」

「ええ。小さな店でも、人の思いを伝えられるなら……それが僕の仕事ですから」


そう言ったとき、美佳の瞳が一瞬、ぱっと明るく輝いた。


「うれしいな。ここは、父がやっていた店を引き継いだんです。儲かるとかじゃなくて、どうしても守りたくて」

「……その気持ち、すごく分かります」


玲央はペンを走らせながら、彼女の声に耳を澄ませていた。

言葉の一つひとつに真剣さと誠実さが滲んでいて、記事を書く人間としてだけでなく、一人の人間として惹き込まれるようだった。


「生活は大変ですけどね。だけど、この店に来て“落ち着く”って言ってくれるお客さんがいる。それが支えなんです」


美佳は少し照れくさそうに笑いながら、窓辺の木製の棚を撫でた。

その仕草には、商売人というよりも家を守る娘のような、静かな優しさがあった。


「僕も……たぶん、そう思います。ここにいると、不思議と心が落ち着く」

「本当ですか? じゃあ、取材じゃなくても遊びに来てください」


冗談めかして言ったその一言に、玲央は思わず笑みを返した。

取材を終えて帰るとき、彼女が見送る姿を振り返りながら、なぜだか胸が温かくなるのを感じていた。

それは単なる仕事相手以上の何か──彼女の人柄そのものが残した痕跡だった。


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