魔都物語

@tunataro

魔王付きメイドの一日①

 サジャの主の一日は角磨きから始まる。

 角は魔族の命であり、その強大なる魔力の源なのだという。ゆえに常に美しく、清潔な状態を保っておかなければならない。薄汚れた角を人目に晒すのは、つぎはぎだらけの襤褸切れで出歩くのにも勝る恥辱なのだ。

 その辺りの事情は、サジャにはまだよくわからない。サジャに角は生えていないし、こちらの人々の慣習にもまだまだ疎い。

 だからサジャは毎朝難しいことは考えず、淡々と主の角を磨く。魔族にとって角がどのような意味を持つのかを知らずとも、身だしなみを美しく整えることの大事さは理解できるし、まして主は魔王、すなわちこの国の顔と言うべき人物だ。国主がみっともない恰好をしていては臣下に対して示しがつかないし、周囲に付け入る隙を与えるきっかけにもなりうるかもしれない。

 自身に与えられた役割の重さをふと感じ、サジャはすっと背筋を伸ばす。キャップから覗く黒髪が小さく揺れる。

寝室の扉を叩き、いつも通りの落ち着いた声音で朝の挨拶を告げる。

「おはようございます、魔王様。朝食をお持ちしました」

 返事がないので、しばし間を空けた後、再び扉を叩く。

「魔王様、朝食をお持ちしました」

 なおも返事はなく、サジャは軽く咳払いした後、三度扉を叩く。

「魔王様、朝ですよ」

 やはり、これにも返事はない。

「……入りますよ」

 主の許しを得ずに寝室に立ち入るなど本来あってはならないことだが、緊急のときとなれば話は別だ。そんな言い訳を毎朝言っている気がするな、と思いつつ、サジャは扉を静かに押し開ける。

 カーテンの隙間から入りこんだ朝の陽射しが、室内を淡く照らしだしている。隅に置かれた政務用の小机。客人と語らうための上品な丸テーブル。天蓋付きの、白い亜麻布で覆われたベッド。そのベッドの中心からやや外れた位置でシーツにくるまれている奇妙な物体。

「魔王様、おはようございます」

 丸い輪郭を描く物体を見下ろしながら、サジャは言う。薄灰色の瞳に映しだされるそれは、身じろぎひとつしない。

「……剥ぎ取りますからね」

 そろそろとシーツをめくり上げると、豊かに波打つ翡翠の色の髪と、白磁の器のように滑らかな湾曲した角が顔を覗かせる。さながら、古の伝承に現れる女神のごとき神々しき美。そしてその美を全て台無しにする、盛大に涎を垂らした間抜けな寝顔。

「おはようございます」

 満ち足りた寝息のほかに反応はない。楽しい夢でも見ているのか、口元がだらしなく緩んでいる。サジャはすうと息を吸い、主の耳元に顔を近づける。

「お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す」

 ようやく応えるように、口元がむにゃむにゃと動く。

「……冷え冷えのムース。クリームたっぷりのパンケーキ。果物ごろごろのゼリー。食べきれないくらいたくさんの、ビスケット」

 サジャはすたすたと窓際まで近づき、カーテンを一息に引く。途端に背後で間の抜けた声が上がる。

「うぎゃ! 目がぁ……」 

「おはようございます」

 サジャはてきぱきと朝食のお盆と洗顔用の盥を用意して、テーブルに並べる。

「早く顔を洗って召し上がってくださいな。九時から朝議ですよ」

「わかってるわよ……あー、なんで朝っぱらからじい様方のしなびた面を見なきゃなんないのかしら」

「十一時半からはお客様と会食です」

「ガルプ伯でしょ。どうせまた国主に相応しいふるまいを……とか何とか、ぐちぐち言われるんだわ。おまけに昼から夜までずっと一緒だし、もう一生ここに引きこもってたい気分」

「そうおっしゃられましても、政務から逃げて頂くわけには参りませんし」

「そりゃそうだけど、つかの間の逃避行くらいさせてよー。まだ八時前でしょ?」

 ろくに顔も洗わぬままオレンジをひょいとつまんだ主に、サジャは魔術式の水時計を差し出す。毎晩零時になると、全自動で水が元の位置まで戻っていく優れものだ。時刻を指し示す盤面の後ろに取り付けられたガラスの器をするすると水が昇っていく様は、何度見ても飽きが来ない。サジャは父親の仕事柄、昔から様々な時計を目にする機会に恵まれていたが、それでもこんなに精巧な品は見たことがなかった。

 そしてその見事な時計の美しい針は、今丁度八時半を指している。

 魔王は菫色の瞳でまじまじと盤面を凝視し、それからぷくりと頬を膨らませる。

「もっと早く起こしてよお!」

「起こしに来てはいたのですが。少し前にも、もっと前にも」

「そんなはずないって。何の音もしなかったもの」

「夢の宴に夢中でお気づきにならなかったのではないでしょうか」

「そうかなー、絶対何の音もしなかったと思うけどなー」

 ぶつくさと呟きながら朝食を手早く平らげていく主の背後で、サジャは彼女の角を磨く。角磨きには銀雪糸という、王国最北部の深い雪山にのみ生息する蜘蛛から採れる糸で織り上げた布を用いる。布をぬるま湯に軽く浸し、角の先から丁寧に磨いていく。

「あー、気持ちいい……。サジャの腕前もだいぶアンナに肉迫してきたよねえ」

「うとうとしてないで、早く食べ終わってくださいな。もうすぐ四十分になりますよ」

「はいはい。そういう小煩いところまでアンナに似てきたんだから」

 魔王が一角獣の毛のブラシで歯を磨いている間に髪に櫛を入れ、それから政務用の服の中で最も着るのが簡単な菫色のローブに着替えさせる。九時の朝議はとりあえずこれでも問題ないだろう。朝議は十時半までの予定だし、十一時半の会食までにちゃんとした服に着替えて頂く時間は十分あるはずだ。

「それじゃ、いってきまーす」

「はい、お気をつけて」

「あ、オレンジ一切れ残したから食べちゃっていいよー」

「……」

 ひらひらと手のひらを翻しながら去っていく主を見届けた後、サジャはひとつ息を吐く。毎朝、主を無事送り出せると仕事をひとつ終えた気分になる。もう少し余裕を持って送り出せると良いのだが。

 すぐに気を取り直して、朝の仕事を始める。まずは朝食の片づけ―オレンジはわずかな躊躇いの後、口へ投げ入れた。それから窓を水拭きし、床を箒で掃き、ベッドシーツを洗いたてのものと取り換える。

「……うん、こんなもんかな」

 鏡のように美しく反射する白石の床。皺ひとつなくぴっちりと整えられたベッド。透明な窓ガラスの眼下に広がるのは、色とりどりの屋根に飾られた城下町。自分の仕事の出来栄えに、サジャはひとり満足げに微笑む。やはり、完璧に整えられた部屋というのは良いものだ。たとえそれが儚い命であったとしても、今晩主が帰ってくればたちまちに全ての努力が無に帰すとわかっていてもだ。

 テーブルの上の水時計に目をやると、十時を少し過ぎた頃だった。朝議はもう少しかかるだろうが、着替えの準備を始めてもいい頃合いかもしれない。サジャはエプロンに取りつけられたポケットから、主の一日の予定を記した紙片を取り出す。

「朝議が霊馬の間で会食が花影の間だから、朝議が終わり次第速やかに衣裳室に向かって頂ければ……うん、十分間に合うはず。霊馬の間から出てこられたところをすかさず捕まえなくっちゃ」

 主は政務と政務の合間にたっぷりと休憩を挟みたがる。朝議の部屋と衣裳室の間だと、危ないのは厨房だろうか。うっかり厨房への寄り道を許してしまったら、彼女は全ての品をつまみ食いするまでそこを離れたがらないだろう。

 階下へ下り、城内の中心建築である東塔と西塔を繋ぐ空中回廊に差しかかったとき、東塔の入口から背の高い人影が姿を現した。

「サジャ」

 その人物はサジャの姿を認めると、ゆったりとした気品のある足取りで回廊を渡ってくる。

「丁度良いところに来たね」

「丁度良いところ? どういう意味でしょうか、ダナモス様」

 サジャは聖職者のような黒い礼服に身を包んだ男を見上げる。顔の上半分を覆い隠す妖しげな仮面に阻まれてその表情は伺い知れないが、露わになった口元は怜悧な印象を与える。

「陛下から言伝だよ。会議が長引くことになったから、終わり次第ガルプ伯との会食に直行すると」

「……なるほど」

 ということは、あの菫色のローブで客前に出るつもりなのだろうか。あれは政務用といえば政務用だが、半分寝間着みたいなものというか、寝間着を無理やり政務用として押し通しているような代物なのだが。

 サジャの心中を察したように、ダナモスは頷く。頷いた拍子に、薄緑の長い髪が揺れる。ダナモスに角は生えていないが、身に纏う雰囲気はどことなく魔王と似通ったところがある。世の中には角のない魔族もいるというし、ひょっとしたらおふたりは近縁なのかも、とサジャは密かに想像している。

「お色直しはこちらで適当にやっておくよ。ガルプ伯の不興を買わない……は無理としても、伯がお怒りのあまり退席なさらない程度には取り繕っておくから」

「いえ、ダナモス様にそのようなことをして頂くわけには……」

「他にも今日の仕事が山積みだろう? 陛下の世話はひとまず私に任せなさい。朝議が終わり次第、首根っこを掴んで支度をさせるよ」

 ダナモスはそう言うと踵を返し、東塔へと戻っていく。サジャはその後姿にぺこりと頭を下げる。

 ダナモスの肩書は大執事である。大執事とはようするに、城の雑事の取りまとめ役だ。城の中で起こるあらゆる事柄についてダナモスが判断し、指示を下す。魔王付きのメイドであるサジャにとっては直属の上司にあたる存在である。

 サジャはダナモスのことを尊敬している。仮面を身につけた容貌こそ一見恐ろしげだが、内面は極めて理知的で、部下に対しても穏やかな物腰を崩さない。加えて、サジャはダナモスに対して個人的な恩義があった。彼のおかげでサジャは今こうしてこの城で働くことができているのである。

 サジャは西塔に戻り、寝室の前の廊下を箒がけしたり、暖かくなってきた近頃ではめっきり使う機会の減った暖炉を布で磨いたりした。そうこうしているうちに正午を告げる鐘が鳴った。

 食堂へ向かうと、すでにふたりの同僚が席に着いて昼食を摂り始めていた。

そのうちのひとりがサジャに気がつき、肉と葉野菜を挟んだパンを口に咥えたまま手を上げる。彼女の向かいに座るもうひとりの同僚が振り向き、手招きをする。

「お疲れ。今日は珍しく早いのね」

「うん。午前中にやっておきたいことが一通り終わったから」

「そうなの? 魔王様がお客様とお会いになるって聞いたから、てっきりサジャも忙しいのかと」

「あたし、そのお客様見たぜ」

 口を挟んだ少女は、鋭く尖った歯を覗かせながらにやりと笑む。

「遠目にちらっと見ただけだけど、なんだかやたら品の良さそうなおじ様だったな」

「あー、有名だものねえ。すごく几帳面で、マナーに厳しい方なんだとか」

「……そうなの?」

 サジャの胸の内に暗澹たる雲が垂れこみ始める。主の食事といえば、服の袖にソースをくっつけ、テーブルにワインを零すのが常である。サジャは王国の食事作法には詳しくないが、それでもあれが作法としての正解からほど遠いことくらいはわかる。

「大丈夫、サジャ? 顔色が悪いけど」

「あ、ううん……今日の夜を想像して、気が滅入っただけ」

「だよなあ。今夜の愚痴は長引くと思うぜ?」

「もう、ニコラったら。面白がっちゃ駄目よ」 

「そう言いつつシファだって内心面白がってるんだろ?」

「まさか、そんなわけないじゃない。私はニコラと違って友達想いだもの」

 くすくすと笑い合う同僚たちを横目に、サジャは肩を落としつつ、とぼとぼと昼食を取りに向かう。

 

「サジャってもう半年くらい、ここで働いてんだっけ?」

 ニコラが食後の紅茶を片手に尋ねる。王国の人々の紅茶好きは筋金入りだ。帝国でも紅茶は飲むが、王国のように毎食の後に必ず飲むというほどではない。きっと帝国と比べて寒冷な風土が暖かい飲み物を求めさせるのだろう。

「いや、そんなにはならないかな。年明けに王都に着いたから、四ヶ月とちょっとくらい」

「そんなもん? もっと長くいる感じがするけどな」

「冬にはるばる帝都から旅してきたのよね。大変だったんじゃない?」

「そうでもないよ。ずっと馬車に乗ってるだけだったし、ダナモス様も一緒だったし」

「ダナモス様と馬車でふたりきりだったん? どんな話すんの?」

「基本は言葉の勉強で……あとは王都の話とか、うちの祖父の話とか」

「ああ、サジャのおじい様とダナモス様がお知り合いだったのよね」

 今年からこの城で働き始め、少しずつではあるが新しい環境にも馴染んできている。特にメイド仲間のふたりの少女とは、年が近いこともありすぐに打ち解けることができた。

 ……こうやってると、帝都にいた頃とあんまり変わらない気がするかも。

 帝国の人々の、王国に対する印象は決して良いものとはいえない。野蛮、前時代的。王都とは即ち、怪物の闊歩する魔都である。サジャ自身はそういった話を全て鵜呑みにしていたわけではなかったが、それでも異邦の土地に足を踏み入れることに緊張がないわけではなかった。

 いざ暮らし始めてみると、サジャはすぐに王都を気に入った。たしかに帝都のような華やかな都会ではないが、町やそこに暮らす人々の素朴でのんびりとした佇まいは心地が良い。

 横に座るふたりも、サジャのような帝国人の娘と何ら変わるところはない。違いがあるとすれば、ニコラの背には伝承に語られる竜のような猛々しい翼があり、もうひとりのシファの背には、同じく伝承に語られる天使のような白い翼が備わっていることくらいだろうか。

「でも流石に、ダナモス様と馬車でふたりきりは緊張するだろうなあ。気さくな人だけど、年だって全然離れてるわけだし」

「魔王様が即位されたときからお仕えになってるんですものね。見た目は全然そんな風に見えないけど」

「そりゃ、魔族だもん。百年くらいじゃそうそう見た目も変わらないっしょ」

「でもダナモス様って角、ないわよね? 普通は魔王様みたいに二本か、そうでなければ一本は角があると思うんだけど」

「角のない魔族もいるんじゃなかったっけ? そういやさっき話したお客様にも角、なさそうだったな」

「そうなの? 実はダナモス様の親戚だったりするのかしら」

「どうなんだろ。―それよりどうした、サジャ? さっきから黙りこんで、なんかしみじみした顔してるけど」

 物思いに浸りつつサラダの皿の端の野菜を浚っていたサジャは、顔を上げる。

「ああ、ごめん。遠くに来たようでそうでもないのかな、みたいなことをふと思ってたんだけど」

「いや、遠いだろ。帝都から王都って馬の足でもひと月以上かかるんだろ?」

「そういう物理的な話ではなくて」

「お、いたいた。丁度良く三人揃ってるね」

 背後からの声に振り向くと、そこには厨房長のタニサが立っていた。

「タニサさん。どうかしましたか?」

 サジャが尋ねると、タニサは茶色いしっぽをぴょこぴょこと振る。見た目は子どもくらいの背丈の犬が二本脚で立っているような感じだが、彼女は長年城の厨房を取り仕切っている熟練の料理人である。

「ちょっとおつかいを頼まれてほしいんだよ。厨房の子たちは今みんな手が離せないから、あんたたちの誰かが一肌脱いでくれると大助かりなんだけどね」

 三人の娘は顔を見合わせる。

「あたし、午後いちは厩舎の掃除の手伝いを頼まれてんだよな」

「私は聖堂に行かないといけないのよね。ミサで歌う人が足りてないんですって」

「わたしは……」

 サジャは頭の中で午後の予定を洗いだす。魔王様の書斎の掃除―本棚に溜まった塵を払ったり、上下逆さまにしまわれた本の向きを直したり。魔王様の酒蔵の整理―魔王様は毎晩食後酒を嗜む。そして週に一回は前後不覚に陥る。魔王様の服の染み抜き―一日着れば、必ずどこかしらが汚れている。これはもう、一種の才能といってもいい。

「大丈夫、空いてます」

「本当かい? 助かるよ」

 忙しくないと言えば嘘になるが、たまには主から離れてみるのもいいだろう。一日中彼女のことばかり考えていては精神が参ってしまう。

「それじゃ、ここに書きつけたものを揃えてきてくれるかい?」

「魚に野菜に……肉はないんですね」

 サジャの主は基本的に雑食だが、一番好んでいるのは肉だ。夕餉の際はよく肉串を行儀悪く咥えたまま器用にワインを流しこんでいる。

「お客様の好みに合わせたのさ」

「ガルプ伯の、ですか。でも、会食のための食材はもう調達してあったのでは?」

「元々夜の会食はお客様の好物と魔王様の好物を半々でお出しする予定だったんだけど、ダナモス様の判断でお客様の好物の割合を増やすことになったんだよ。これ以上お客様の機嫌を損ねたくないんだと」

「……なるほど」

 結局、あの方のお世話に帰結するのか。サジャは内心深々とため息を吐きつつ、冷めかけの紅茶を端正な所作で飲み干す。


 

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