第10話 クリスマス当日、灯りが消える前に

 十二月二十四日。冬休み初日。

 昼の光は薄いけれど、街は朝からクリスマスの気配で膨らんでいた。駅前の特設ツリー、紙袋の赤い持ち手、手袋の毛糸。音になりそうなものばかりだ。


《今日は“デート台本”にする。外の音が、主役》

《了解。BGMない路地/雑貨屋ベル/紙袋/ホットチョコの蓋/教会の鐘(遠景)――拾えるだけ拾う》

 やり取りは短く、要点だけ。短さは覚悟の裏返しだ。


 午後三時。待ち合わせのロータリー。

 凛は白いマフラーに、今日は薄い赤のミトン。首元のリボンは、昨日より少し小さい結び目になっていた。

「待った?」

「いま来た。……寒い?」

「ちょっと。でも、この“寒い”は、録りたい」

 それは前と同じ合図で、でも今日はクリスマスの温度が一段高い。


 まずは裏通りへ。

 遠いところで流れている合唱のBGMを背中に置くように、音の“影”へ回り込む。煉瓦の路地は、人通りが途切れると、靴底の小さなコツコツがよく響く。

 ポケットの小型レコーダーの赤を点ける。

「テスト。――[足音:ゆっくり/並走]、[ミトン:布]、[吐息:浅め]」

 凛は歩幅を半歩だけ揃えてくる。ミトンの甲が、俺のコートの袖口にそっと触れた。**外での“三センチ”**は、視線の端でやり取りする距離だ。


 雑貨屋のショーウィンドウ。ドアを押すと、真鍮の小さなベルがカラン、と一回だけ鳴る。

「これ、使える?」

「使える。入る合図に一回だけ」

 店内の音は控えめ。包装紙とリボンの棚を目でなぞるだけで、今日の台本の“絵”が少しずつ固まっていく。


 屋台でホットチョコ。紙のカップにプラの蓋をはめる、カチという軽い音。

「ふう、ってして」

 言われたとおり息を落とす。湯気は白く立たないのに、体の力だけ一段抜ける。

「クッキー、半分こしよ」

 紙袋の口を指でつまむシャラ。ジンジャーの香りが近づき、かじる音が細く甘い。

「この“甘い”は音だね」

「うん。噛みしめるたびに、静けさへ落ちる」


 六時。小さな教会の鐘が遠景で四回だけ鳴る。

 レコーダーを少し持ち上げ、風防を手で隠す。四つめの余韻が消える手前、凛が息だけ笑った。

「……クリスマス、だね」

「クリスマス、だ」


 そのまま観覧車のふもとまで歩く。さすがに機械の駆動音は強いから、台本には入れない。けれど、光の輪は目の端で回っていて、“灯りの街”の名札みたいに見えた。

「タイトル、どうする?」

「『灯りの街で、あなたと』」

 声に出すと、胸の奥で赤いランプがひとつ点く。

「……好き」

 凛のミトンが俺の手袋の甲に軽く重なった。録音は止めずに、ただ触れ方だけ覚える。


 いったん家に戻る。

 機材の前に並べるのは、今日の収穫。雑貨屋のベル、紙袋、ホットチョコの蓋、そして教会の鐘(遠景)。

「BGMはゼロ、鐘は**-16dBの遠景、ベルは入店の一回だけ**」

「“あなた”は?」

「二回。中盤とラスト」

「呼吸は二秒。――あ、これ」

 凛がポケットから雪の結晶柄のコースターを出す。「マグの“コト”をやわらげるやつ」

「最高」

 机の上で、音の配置がパズルみたいに嵌っていく。昨日までの“部屋の前室”から一歩外へ出て、街そのものを“前室”にする感じ。


「じゃ、一本目いこう。今日は“歩き始め”から始めたい」

「了解。導入の第一声は“待たせた?”にする」

「“おかえり”は?」

「最後に言う。“帰る場所”は、最後に渡す」


 カチリ。赤い丸が回る。

 ベルが一度、紙袋が小さくシャラ。蓋のカチが続く。

 凛は三センチ未満で寄り、街に合わせた低めの甘さで声を置く。

『――待たせた? ううん、よかった。……手、出して。ミトン、あったかい?』

 波形が静かに立ち上がる。

『今日は、灯りの街をいっしょに歩く日。急がないで、並ぶ音を聴こ。――こつ、こつ』

 ページの余白に《足音:並走/小》と書き足す。

『ほら、ここ。小さい雑貨屋。ベル、一回だけ――』

 カラン。

 合図の位置、完璧。

『包み紙、指で、きゅ。リボンは……うん、“閉じる音”が似合うね』

 凛の囁きが、クリーム色のリボンを思い出させる。


 鐘を遠くに一つだけ置き、すぐ引く。

『四回、鳴ったね。……数えるたびに、肩の力が落ちる。

 ココア、ふう、ってして。一口。甘さ、足りる? ――ちょうどいい』

 マグのコトはコースターでやわらぎ、**“生活音の甘さ”だけが残る。

 ここで中盤の“あなた”**を置く。

『指、見せて。……うん、守れてる。――よくできました、あなた』


 一本目を止める。

「良すぎる。――“おかえり”は最後で効く」

「ね。ラスト、どうする?」

「**『おやすみ、あなた』**の前に、“今夜は帰り道が家になる”って言いたい」

「好き。――入れよ」


 二本目。

 導入を短く整え、無音の間を一・五秒ずつ散らす。鐘の尾は-2dB短く。

 ラストへ降りていく手前、凛が息を一滴だけ落とす。

『ね、ここで、灯りを少し落とそ。……うん、“街の明るさ”を、指のあったかさに乗せ替える感じ』

 机の上に街が現れて、二人分の歩幅がゆっくり重なる。

『今日あったこと、ここで降ろして。嫌だった言葉は、紙袋の外に置いとこ』

 クッキーの袋をもう一度だけ鳴らし、笑いを飲む音を最小で足す。

『目、閉じて。吸って、吐いて。――いい子』

 無音の一・五秒。

『……今夜は、帰り道が、家になる。

 ――おやすみ、あなた』


 止める。

 凛はヘッドホンを外して、耳たぶを指で押さえた。

「ラスト、“おかえり”も言いたいかも」

「じゃ、小声で-6dB。寝息の手前に一度だけ」

「“おかえり”を、街で言うの、いいね」

「“帰ってきた場所”が隣にある感じになる」


 三本目(本番)。

 雑貨屋のベル、紙袋のシャラ、蓋のカチ。

 足音が並んで、鐘が遠くで一度息をする。

 声が、デートと帰る場所の両方を連れてくる。

 収録の最後、凛は予定通りに小さく言った。

『……おかえり』

 寝息を浅く二回。フェードアウト。

 カチ。赤が消える。

 机の上の真鍮の栞が、今日のページの端で小さく光った。


「出す」

 短く言って、ポストを押す。

 数秒の無音のあと、タイムラインがざわつく。

《クリスマスの“街ASMR”最高》《ベル一回が合図になってて泣いた》

《“帰り道が家になる”って表現、刺さる》《おかえり(小声)、反則》

《噛む音まで甘いの天才》《生活音だけでデートできる世界》

 ――違う、世界じゃない。街だ。今夜の街は、耳を澄ませるだけでふたりのものになる。


「外、行く?」

「行く。……“デートの続きを録らないデート”、しよ」

 凛はミトンの片方を外して、素手で小鈴を持った。

「鳴らす?」

「鳴らさない。――今は要らない」

 彼女の目尻は、スタンドライトより柔らかい。

 外に出ると、同じ道なのに、歩幅がさっきより自然に揃った。


「今日の“あなた”、二回でちょうどよかったね」

「うん。多いと弱くなる。少ないと、強くなる」

「“おかえり”は小声でよかった?」

「小声だから、届いた」

 帰り道は短い。玄関で、彼女はマフラーを指で整えた。

「じゃ、また――」

「灯りの手前で」

 ふたり同時に言って、笑う。

 ドアが閉まる。余韻が、家の中と外の両方に残った。


 机に戻り、真鍮の栞を今日の台本に挟み込む。

 戻れる場所がある。街でも、部屋でも。

 ――合図は一度。届く言葉は二つ。“おかえり”と“あなた”。

 次のページの白さが、ゆっくり、甘く広がっていた。

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