第5話 カイロと嫉妬は音に出る
朝いちばんの通知は、まだ昨夜の“静けさ”を引きずっていた。
《“あなた”三回の破壊力》《寝る前に泣いた》《ブラインド民、敗北》《カーテン最強》
そのなかに、浅村からのDMが混じる。
《フラット系イヤホン三選まとめた。あと投票:次に聞きたいのは“恋人シチュ”がぶっちぎり》
恋人シチュ、か。
三センチの夜をひとつ越えただけで、世間はすぐ次の段を求めてくる。
教室。
浅村が椅子ごと回転して、イヤホンケースを掲げた。
「おはよ! 今日、放課後に試聴いこ。あとさ、雪予報出たらしい。環境音、捗るぞ」
「……おはよう。放課後は考える」
「おっけー。あ、これ見て」
スマホには考察スレの新しい見出し。
《“あなた”の守備力、理論化してみた》《身近な生活音=幸せの匂わせ説》
身近、か。
机に鞄を置いた時、前の列から声がかかる。
「相沢くん、プリント束、印刷室まで運ぶの手伝ってくれる?」
図書委員の白石さんが両手で紙束を支えている。
「いいよ」
受け取った瞬間、紙の重みが腕に来る。歩き出すと、窓際の凛と一瞬、目が合った。
“高嶺の花”の視線は、すぐに黒板へ戻る。けれど、ほんの半秒だけ長かった気がした。
印刷室の前で白石さんが礼を言う。
「ありがと。優しいね」
「普通だって」
「最近『甘音かなで』にハマっててさ。生活音が丁寧なの、好き。……こういう紙の音とか」
紙束の角が少し揃う音。
「知ってる?」
「……まあ」
「“冬の帰り道”の最後、ほんとに泣いた。静けさって、音なんだね」
返す言葉がうまく見つからなくて、曖昧に頷いた。
戻ると浅村が肘でつつく。
「相沢、優しさ出ちゃってる。界隈用語で言うと“生活音が尊い”」
「……はいはい」
笑って流しながら、窓の外を見てしまう。凛はノートに視線を落としたまま、ペンを止めない。
ホームルーム前、机の影でスマホが震えた。
《今日、カイロの音ほしい。――手、あっためるやつ》
《あと、台本に“あなた”を増やして。……ね》
返事を打つ指先が、少しだけ熱くなる。
《了解。カイロ×2と、手袋、持ってく》
昼休みの終わり、廊下の角でばったり凛と鉢合わせた。
マフラーの端が指に触れる。
「寒い?」
「ちょっと」
彼女はポケットから使い捨てカイロを一つ取り出し、握って俺の手に押し付けた。
「こっちは予備。……“音”用にも」
「たすかる」
「ね、今日、三センチのままでいい?」
「いい。温度は下げない」
「うん。――下げられない」
放課後までの時間は、やけに長かった。
机の上に台本を広げ、余白に《あなた×4》《呼吸:2.0s》《距離:3cm》《SFX:カイロ/手袋の布/マフラー》と書く。
オーディオインターフェースのノブをゼロに戻し、低域EQを一目盛り下げる。
ノイズゲートは昨日よりほんの少し甘く。手の擦れ音を拾うために。
七時。
椎名家のドアが控えめに開く。
凛は白いマフラーを外し、テーブルに二つのカイロと手袋を置いた。
「今日のテーマ、“手のひら”」
「了解」
マイクの前、三センチ。
前髪を耳にかける仕草が、ストーブの光で柔らかく照らされる。
「よろしく」
「よろしく」
カチ、と録音ボタン。波形が走る。
『――おかえり。手、見せて? 冷たくなってる。……こっち、あったかいよ』
カイロの袋を擦る音を、マイクに浅く通す。
布の音をひとつ、マフラーを二回。
凛の声が、手のひらの上でとろけるみたいに広がる。
『こうやって、包むの。指、一本ずつ、ね。――親指、ぐー……』
親指。
わざとだろ、と喉が言う。
ヘッドホンの内側で、心臓の音が遠くなる。
『……今日、印刷室の前、見たよ。手伝ってた』
台本に、ない一行。
凛は微笑んだまま、声色だけ一度落とす。
『優しいの、知ってる。――だから、ちょっとだけ、ずるいこと言ってもいい?』
フェーダーを触る指が止まる。
息を吸う音を、小さく拾う。
『今は、“あなた”の手、わたしだけのものにして』
嫉妬の温度が、マフラーの毛に絡む。
目に見えないのに、確かに近い。
三センチは、数字のはずなのに、心拍が単位を奪っていく。
『人に頼まれると断れないの、昔からだよね。――でも、今は断って。ここで、わたしのほう、見て』
カイロの熱で汗ばむ手の音が、布の下で微かに鳴る。
俺は録音を止めない。止めたら、全部を言い訳にできてしまう気がする。
『はい、指、重ねて。――そう。あったかい。……よくできました、“あなた”』
呼吸のテンポが戻る。二秒。二秒。
波形の山が落ち着く。
凛は小さく笑って、続きを置く。
『今日のこと、話す? ……ううん、いいや。話さなくても、ここにいるの、知ってるから』
その一行が、画面の向こうにいる誰かに届くのを想像する。
“救われた”と打つ人の顔。
俺の胸の中の何かも、同じ言葉で救われる。
『――おやすみ。手、離さないで。……大丈夫。わたし、いるから』
寝息の前、今日は“言わない”。
昨日より深い静けさ。
カイロの熱が、音をやわらかくする。
カチ、と止める。
「おつかれ」
「おつかれさま」
ヘッドホンを外した凛が、手のひらをぐーにして額に当てる。
「熱すぎなかった?」
「ちょうどいい。……アドリブ、ずるかった」
「ずるかった」
自分で認めて、ちょっとだけ膨らませた頬をすぐ戻す。
「ごめん。でも、今日は、言いたかった」
編集に入る。
カイロの袋音は二デシだけ下げ、手袋の擦れはそのまま。
“今は断って”の行は、余白に二重丸。《ここ、残す》
凛が告知文を打つ。
『ただいま。今日は手のひら、重ねます』
「タイトル、どうする?」
「“指先三センチのぬくもり”」
「それ、好き」
「じゃあ、これで」
投稿。
世間は、数秒で騒がしくなる。
《手のひら回、優勝》《親指は反則》《“断って”のニュアンス、刺さる》《今日も救われた》
《生活音=幸せの匂わせ理論、真理だった》
浅村からも通知。
《カイロSFX、研究対象。あと、恋人シチュ票、さらに伸び》
俺はスタンプを返し、スマホを伏せる。
「……嫉妬、した?」
凛が、マイクから顔を上げて小さく訊いた。
配信者でも“高嶺の花”でもない、椎名凛の声で。
「した」
「私も。――だから、音にした」
それは、告白ではない。
でも、告白の前に必要な、等身大の本音だった。
ココアを淹れ直す。
マグの縁にスプーンが軽く触れる音を、小さく拾ってみる。
「明日、機材屋、行ける?」
「行ける。浅村のイヤホンも借りる」
「浅村くん、いい友達」
「耳がいい」
「うん。――悠真も、耳がいい」
同じ会話を、昨日もした気がする。だけど、温度が違う。
玄関でマフラーを巻く凛が、指を一本立てる。
「ね。三センチでも、嫉妬は音になるんだね」
「なる」
「次、どうする?」
「……温度、上げる。距離は、守る」
「うん。私も、そう思ってた」
ドアが閉まる音は、今日もやわらかい。
ポケットの中でタイムラインがまた騒ぐ。
《“三センチ”の哲学》《かなでの独占欲、最高》《恋人シチュ、いつかでいいから》
世間は結論を急ぐ。
けれど、結論はいつだって、二人の速度で――。
カイロのぬくもりが指先に残ったまま、俺は台本の余白に一行、書き足した。
《嫉妬=温度の上昇。音で伝える。――距離は三センチのまま》
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