有名シチュボ配信者の幼馴染は、マイク越しだと距離が近すぎる
あまたらし
第1話 耳元3センチの幼馴染
カチリ、と録音ボタンを押す。
部屋の空気が、一段だけ深く沈む。
目の前のマイクは黒くて、冷たい。ポップフィルター越しに、自分の呼吸が浅くなるのが分かる。
俺の名前は、
そして向かいの椅子には、学年一の美少女と呼ばれ、
うちの隣に住んでる幼馴染――
ミルクティー色の髪が、スタンドライトに沿ってやわらかく光る。胸元で揺れるセミロングは毛先が内に巻かれていて、学校のきっちり感の名残りがある。淡いブラウンの瞳は、レンズ越しの波形より落ち着いていて、でも、笑うと少しだけ垂れる。
窓の外は冬。白い息はもう見えないけど、静けさの温度だけは、そのまま部屋に持ち込まれている。椅子の背には白いマフラー、膝にはベージュのひざ掛け。ぜんぶ凛の色だ。
「ゲイン、これくらいでいい?」
「うん、いつも通り。……じゃ、テストいくよ」
凛は少しだけ顎を引いて、マイクに近づく。距離、だいたい三センチ。
それは彼女が一番“天使の囁き”に近づく、魔法の角度だ。髪が頬にかかると、耳にそっとかけ直す。その素早い仕草で、ミルクティー色がさらりと流れる。
『――おかえり。今日も、すっごく頑張ったね』
耳の奥の、もっと奥。言葉が触れるみたいに響く。
俺はモニター画面の波形を見ているはずなのに、視界がぼやける。
ダメだ、集中しろ。台本通りに進行――
『上着、脱ぐの手伝うね。……こっち向いて? うん、よくできました』
紙をめくる音すら、飴みたいに甘く聞こえる。
凛の配信用の声は、学校で聞く声と違う。廊下で交わす「おはよう」よりも、ずっと低くて、近い。
俺の指先は、マウスの上で不自然に固くなる。
「悠真、ページ二。睡眠導入のとこ」
「あ、ああ」
紙束を渡すと、凛の指先が少しだけ俺の指に触れた。
ほんの一瞬で、波形がピッと跳ねる。俺の心臓の音じゃ、ないよな。
彼女の指は白くて細い。膝の上のひざ掛けからのぞくくるぶしまで、冬色の肌がほんのり桜色に染まっている。
――中学の冬。
こたつでイヤホンを片方ずつ分け合って、俺がシチュボを聞いていたのを、凛に見つかった。
「こういうの、好きなんだ」
からかわれると思って、弁解を用意していたら、凛はしばらく黙って、それから笑った。
「私、やってみようかな」
スマホのボイスメモから始まって、バイト代をためてマイクを買って。
それからは早かった。再生数が跳ね、コメント欄に「天使の囁き」と書かれた日を、俺はたぶん一生忘れない。
『じゃあ、横になって。……大丈夫、見てるから』
凛は台本を見ずに言う。
この先は、俺が昨夜書いたセリフだ。
見なくても言えるのは、何度も読み込んだからか、それとも――。
『今日は、ぎゅってしよ。……寒いから』
心臓が、波形より先に自分で跳ねた。
冬の空気と膝掛けの毛並みの間で、体温が逃げ場を探しては戻ってくる。
近い。呼吸が当たる。
マイクと彼女の距離より、俺と彼女の距離のほうが、たぶん近い。
ミルクティー色の前髪が一筋、頬に落ちる。凛は何気なく耳にかけ、ヘッドホンのカップに触れる指先が、ふわりと揺れた。
「……今の、ちょっと甘すぎ?」
「い、いや。最高。バズる」
「ふふ。バズりたいね」
学校では、凛は完璧だ。
髪はいつも整っていて、ノートは綺麗で、答案の右上には満点に近い点数。
男子に告白されたという噂が流れても、彼女は困ったように笑って終わらせる。
でも、放課後のこの部屋では違う。
オーバーサイズのニットの袖口が少し長くて、指先が半分だけ出ている。ソックスの踵がちょっとだけずれて、肩にかかる髪が明かりでやわらかく見える。
俺しか知らない彼女の素顔。……そう思えることが、好きだ。いや、違う。好きはダメだ。まだ。
『ねえ、目、閉じて。……ゆっくり、吸って。吐いて。そう』
凛の声に合わせて、俺も呼吸を合わせる。
眠くなるように書いたセリフなのに、眠いどころか目が覚めていく。
波形は穏やか。俺の心拍は全然穏やかじゃない。
『……いい子だね』
危ない。今の一言はズルい。
俺はモニターから視線を外して、机の端に置いた台本を見る。
ページの余白に、自分で書いた鉛筆のメモ――《間》とか《ささやき強》。
その横に、凛の字で小さく《楽しい》って書かれているのを見つける。
胸が、ちょっとだけ痛い。うれしいのに、痛い。
『――ねえ』
凛の声色が、半歩だけ変わった。
スイッチの入る瞬間を何度も見てきたから、分かる。
これは“配信者”の声じゃない。椎名凛、その人の声だ。
淡いブラウンの瞳が、ポップフィルター越しにまっすぐこっちを見る。
『……キス、してもいい?』
静寂が、指先まで張りついた。
台本に、そんなセリフはない。
俺はマウスを掴んだまま固まり、彼女はマイクに近づいたまま、動かない。
カーテンの隙間から入る光が、ポップフィルターの縁を白くする。
喉が鳴る音が入ったらどうしよう。っていうか、今のは、何――。
『……冗談、だよ。――おやすみ』
凛はふっと笑って、予定通りのラストラインに戻った。
俺は二拍遅れて録音を止める。
カチ、とスイッチの音。波形がすっと平らになる。
「はい、おつかれさま」
「……お、おつかれ」
凛はヘッドホンを外して、ミルクティー色の髪を耳にかける。耳たぶがほんのり赤い。いつもの動作。
なのに、いつもよりずっと大人びて見えた。
「今の、どうだった?」
「えっと……最高。あの、“冗談”のとこは、編集で――」
「残していいよ」
「え」
「だって、反応、すごかったし」
凛は悪戯みたいに笑う。ニットの袖口からのぞく指が、ケーブルを軽くはじく。
それが、冗談を押し切るための嘘笑いなのか、本心の照れ隠しなのか、俺には分からない。
編集用のイヤホンを挿す。
波形を戻し、該当箇所を再生する。
『……キス、してもいい?』
たったそれだけで、鼓動が自分の耳にまで響く。
モニターの右下で、録音時間の数字だけが冷静に進む。
こぼれそうな呼吸を誤魔化すように、俺はフェーダーを微調整した。
「明日も、同じ時間でいい?」
凛がコートに手を伸ばしながら、何気なく言う。
白いマフラーがふわりと肩に乗り、ミルクティー色の髪と溶けあう。
「……ああ。明日も」
「うん。……明日も」
ドアが閉まる音は、いつもよりずっと静かだった。
イヤホンの向こうでは、さっきの“冗談”が、何度でも繰り返される。
編集ソフトの上で光る波形は、全部ただの音なのに、何かに見えてしまう。
たとえば、“境界線”。
越えたのか、まだ手前なのか。自分でも分からない線。
――この距離感は、きっと長くは保てない。
そう思った瞬間に、心臓がまた、波形より先に跳ねた。
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