第8話 和睦
その後も軍議は幾度となく開かれたが、議場では金勘定と家格の論争ばかりが飛び交い、進言のたびに紛糾した。『山城守』の声がどれほど響こうとも、「遠州の孤城など捨て置けばよい」と言う者さえいた。戦に出たこともない面々が、地図の上で命を量る様は、まるで簿記に血を塗るような違和感を放っていた。
だが、『山城守』は引かなかった。
ついに、意見が通った。
遠州の孤城へ救援を送る。
とはいえ兵数はわずか一千。そのうち半数が『山城守』の私兵――郎党たちであり、本隊の支援とは名ばかりの配置だった。
軍議の後、『松』は怒りを噛み殺しながら吐いた。
「なんて吝い采配だ…死ねと言われてるようなもんだ」
『竹』も眉を寄せて問う。
「せめてもう少し交渉を…三千までは何とかならんのか」
だが、『梅』の返答には曇りがなかった。
「いや、これだけで行く。三河守の土手っ腹に穴を空けてやる」
口調こそ鋭いが、その目は乾いていた。埒もなき談合、御神酒徳利たちの脳内遊戯にうんざりしていた。そして――口元に、わずかな熱が灯る。
「それに、援軍の五百はただの五百じゃない」
その五百とは、信濃守の遺臣たちだった。
本来ならば、討死した主の旗を掲げて再び戦に加わることなど、赦されるはずもない。家格、家中、格付け──あらゆる制約に縛られるはずだった。
しかし、『山城守』の怒号はそれを超えた。かつて戦場で命を賭けた男の叫びに応じて、一人、また一人と遺臣が現れた。槍を研ぎ、馬を引きながら。
「『山城守』なら、良き死に場所を呉れそうだ」
「三河の泥侍に、一矢報いてやる」
彼らの目には恐れはなかった。名誉など要らぬ。命を捧ぐ場が欲しかったのだ。
『梅』は一千の精鋭を率いて西へ向かう。
孤城は既に飢え、疲弊し、兵の顔も影のように沈んでいた。一方、それを囲む攻め手の兵は勝利を確信し、褒美の皮算用に明け暮れていた。黄金、官位、領地――声高に語り、鼻を鳴らしながら、最後の突入を待っていた。
その背後から、烈風が吹いた。
赤い塊、土に染まった旗――『山城守』の一千が突っ込んだのだ。
「死ね!死ね!死ねい!!」
『梅』の絶叫が野に響き渡る。
それは呪詛ではなかった。命の呼び声だった。
声に応じるように、兵たちは舞い、敵陣を蹴散らした。奇襲に混乱した攻め手はまともな応戦ができず、彼らが誇った陣形は無惨に崩された。
切っ先が振るわれるたびに、泥にまみれた敵兵が叫び、沈んだ。
「このまま城内に突入する!」
開かれた城門に、堂々と入る。 歓声が上がる。 幾日もの絶望が、一瞬で破られた。
「さあ、討つだけ討ちきって、死んでやる!幾らでも来い!!」
『梅』の声は鬼の叫びではなく、人間の烈しさだった。
その声に呼応するように、城兵たちは再び立ち上がった。疲弊と飢えに覆われた体に、血と怒りが走った。武器を取り、城壁に登り、火をくべて、叫びながら敵陣に矢を放った。
攻め手たちは震えた。
それまで無抵抗の壁を崩す作業だったはずの戦が、突如として牙を持った。城兵が士気を回復したなど信じられなかった。目の前の逆襲は、まるで死者が蘇ったかのようだった。
攻勢は鈍り、軍勢は遠巻きに城を眺めるばかりとなった。
そして──
何も起こらぬまま、一月が過ぎた。
攻め手は動かなかった。城は堪え続けた。 戦は止まり、代わりに静寂が続いた。 だが、城の中には燃える意志があり、外には震える心があった。
この静けさの先にあるのは、最終の突入か、撤退か。 その選択は、まだ風の中にあった。
白旗を掲げた使者の正体を知ったとき、陣中の空気は凍った。
現れたのは、意外にも『松』と『竹』だった。
二人は三河守との談合を済ませたというのだ。混乱の中、まだ血の乾かぬ戦場にて、和平の兆しなど誰も想像すらしていなかった。
「十分に暴れただろう。城を明け渡してくれ」
『梅』は唖然とし、言葉を詰まらせた。
「なぜだ…何故、我等から死に場所を奪うのだ? 俺はともかく、信濃守殿の遺臣たちは納得すまい」
声は怒りよりも哀しみに近かった。彼らの覚悟は、死で完結するはずだった。
『竹』はゆっくりと首を振った。
「この城は、元々三河守のもの。我らが奪った際、信濃守殿は城兵の命を奪わなかった。あの寛容が、今になって実を結んだのだ。彼はその恩を返したがっている」
『松』が補う。
「それに、現状を見よ。兵糧は尽きかけ、援軍が増えたことで消耗も激しい。持って、あと三日だろう。このまま籠もり続ければ、飢え死にだ」
『梅』は拳を握りしめ、言葉を絞り出す。
「国許に、何と報告すればよい…面目が立たぬ」
『松』はそれを一笑に付した。
「そんなことに拘るな。我等は千の兵を率いて、誰一人失わずに帰還しようとしている。これは敗走ではない。『山城守』の伝説は、ここでさらに深まったのだ」
沈黙ののち、『梅』は頷いた。決断だった。
単身、三河守の本陣に赴くことを選んだのである。
郎党たちは困惑し、仕物を懼れた。だが『松』と『竹』が一言だけで皆を黙らせた。
「もし三河守が謀を企んでいるなら、その時は俺たちがその頭を吹き飛ばしてやる」
沈黙の中に信頼が生まれた。
三河守の陣幕は静まり返っていた。
周囲には戦を見届けようと各地から集まった部将たちが馬を並べていた。なぜなら、あの『山城守』が直接現れるというのだ。
三河守は、質素な衣を纏う中肉中背の男だった。どこにでもいるような容貌――だが、ただ一つ、眼差しだけは深く、底知れぬものがあった。
対峙した『梅』は、黙って鞘に収めた愛刀を差し出す。
「ーーこれで済むのであれば、城兵たちの命を放免してほしい」
三河守は一歩進み、静かに刀を受け取った。
「ーー勿論だ。そのために、我らは談合の場を設けた」
敵として刃を交えた者同士が、言葉で戦を終える。これがどれほど困難なことか。だが、それを実現したのは、戦の中にあってなお人の心を見失わなかった者たちの知恵であった。
『梅』は、心中にて呟いた。
(――死に損なったか。しかし『松』『竹』を置いては逝けぬ。ならば、これこそ正しき選択であろう)
野鳥が、梢にて鳴いていた。
その鳴き声は、戦の終わりと、平穏の訪れを告げるかのようだった。
陣へ戻った『梅』は、集う郎党たちに堂々と告げた。
「胸を張れ。我らは、城兵たちを救って帰るのだ」
声には力があり、威厳があった。
誰もそれに異を唱えなかった。
これは敗北だった。だが、名誉ある敗北だった。命を賭け、命を救った者たちの帰還だった。
白旗は、ただの降伏の証ではない。 それは、武士たちの誇りと責任を纏った、魂の旗でもあったのだ。
(ーー御神酒徳利共は「それ見たことか」とでも言うのだろうか)
御神酒徳利の中で密やかに息づく気配。むなしい言葉しか持たぬその器たちは、今や過ぎし決断に皮肉な微笑を浮かべているかのようだった。『梅』は、馬上にて風の冷たさを感じていたが、それは季節のものではなかった。
国許へと近づくにつれ、胸に巣食っていた予感は確かな形を取り始めた。だがそれは期待とは逆の意味で裏切られた。 北方の大名の跡目争いへの介入――信義を通すでもなく、利を狙うでもなく、ただ中途半端に首を突っ込んだことが、東隣国との絆まで断ってしまったという。
「黄金など、空手形だったのであろう。どちらに転んでも、地に足のついていない博打だったのだ…」 大家老の嘆きは、もはや声というより、咳とともに吐かれた血に混じる魂の断末魔であった。
その言葉の中に、「何故己だけが知っていたのか」という孤独と、「知っていながら誰も動かせなかった」という痛みが滲んでいた。 そして『梅』は、その大家老の言葉をただ黙して聴いていた。 誰もそれを責めることはできない――あの声は、すでに政の場ではなく、墓所に向かう道程の中で語られていたからだ。
三方を敵に囲まれた陣代。 もはや時勢を見渡せる者はおらず、残された者たちは焦燥の末に最悪の選択をした。
「本陣の近くに新たな城を築く」―― 誰がその言葉を最初に口にしたかは定かではない。 しかし、言葉が命令となった時、すでに資材も人手も尽きようとしていた。
新城の工事は準備なきままに始められ、鍬を握る者は足元の泥を見て呻き、 材木を運ぶ者は遠くの山々を見て、そこに静寂を求めた。 銭は流れ続け、民の不満はそれ以上に膨らんだ。
「先代の頃には、こんなことはなかった――」
この言葉は、もはや嘆きではなく、呪詛のように広がっていった。 市井の者が口にし、郷士が囁き、領内全体が不信という名の病に侵されていた。
そして、『山城守』の元にも徴発の命が届いた。 それは「城の建設を支えよ」という露骨な命令。
しかし、『梅』は一言でそれを退けた。
「信濃守殿の遺臣を迎えたばかり。我が城下に、余裕はない」
その言葉は、表面的には実情を語っただけのものだったが、 その声の温度にははっきりとした意思があった―― 「今の政には従わぬ」という静かなる告知。
大家老が、亡くなった。 喀血を伴う咳が最後には呼吸すら奪い、言葉も、影も、全てを残して逝った。
彼が最期に目にしたのは、国の地図ではなく、家中の若き顔ぶれであったという。 己が築き守ってきたものが、いつの間にか誰のものでもなくなっていた事実に、彼は何を感じていたのか。
そして、その死をもって、ひとつの時代が終わった。
『梅』はそれを静かに見送った。 昔は家臣団の中でも若手と呼ばれた己が、今では最古参。 礼法、軍法、土地の名、忘れられた故事―― それらを語れるのは、もはや自分しかいない。
だが、語る場はない。聴く耳も少ない。 若者たちは皆、名跡ではなく地位を求め、家名ではなく銭を数える。
『梅』は大家老の書き残した文書に目を通した。 そこに記された言葉の一つひとつが、自分へ託された遺志のように思えた。
そして、静かに筆を取った。 国が崩れる音が聞こえる今、せめてその記録だけでも残さねばならぬ――そう思った。
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