第2話 「鬼」の配下に

本陣から少し離れた、竹林の奥にある荒れ寺。瓦は崩れ、苔の香りが風に混ざるその場に、『梅』『竹』『松』の三人は膝を囲めていた。笹の葉が微かに揺れ、話の重さに静けさが寄り添っていた。

「……つまり、旧『山城守』の残虐がこの地を汚したわけだな」 『松』が言う。彼は冷静で寡黙だが、内には燃えるような義がある男だった。

「領民の恨みは、何年経とうと消えん。わしが見た娘の目……あれは、“助けを乞うていない怒り”だった」 『梅』が低く呟く。

「それで、お前が“山城守の転生”と名乗る、と?」 『竹』が眉を上げる。彼の表情は軽いが、言葉の裏には試すような鋭さがあった。

『梅』は答えず、懐から古びた扇子を取り出した。その骨には、旧『山城守』の家紋が刻まれていた。拾ったものか、奪ったものか――真偽は語らない。

「そういうわけで、『梅』よ、お前が新しい『山城守』だ」 『松』が言った。その声は、まるで儀式のような重みを帯びていた。

「大名への説明もその雄弁で、ひとつ頼む」 『竹』が、焚き火の火をついと箸で突きながら言った。

「おお、怖い。機嫌を損ねたらその場で無礼討ちかもしれんぞ」 『梅』が手をひらひら振るが、その目は決して笑っていなかった。

「安心しろ、その時は『竹』が鉄砲で大名の頭を吹っ飛ばすし、俺も四五人は片付ける。あとは一からやり直しよ」 『松』が静かに、だが確かに言った。

その場に吹いた風が、三人の衣を揺らした。それは「名前」の重さが運命を塗り替える瞬間――まさに、転生の儀であった。


そして数日後、「山城守」として正装した『梅』の姿が本陣に認められる。あの竹林の語らいは、ただの相談ではなく、“幕開け”だった。

本陣の間に、冬の風が吹きすぎた。障子の隙間からわずかに覗く松の枝が、まるで首を垂れた者たちの祈りのように震えていた。

『梅』は、糊の効いた直垂に身を包み、頭を深々と下げる。その姿は武将というより、命を捧げに来た巫女のようでもあった。

(この場に立てるとは……だが、命などいつ奪われてもおかしくはない)

大名――東国一の弓取り。その名は畏れと共に広まっていたが、実際に対峙するとその雰囲気は噂を越えていた。剃髪の頭は僧のようでありながら、目には少年の如き炎が灯っている。その双眸は静かに『梅』の心を一枚一枚めくっていった。

「ーーその方が『山城守』の生まれ変わりと称する者か?」 声は柔らかいが、壁を砕くほどの威圧感を帯びていた。

「はッ」 『梅』はその瞬間、声の震えを抑えられなかった。

(これが……この世に睨まれただけで命が薄くなる男か)

大名は扇子を開いた。その模様は金糸で描かれた猛禽。沈黙の後、言葉が落ちるように発せられた。


「旧『山城守』の蛮行に憤りを感じた牢人というがーー」

『梅』は咄嗟に語ろうとした。 「そ、その通りでございます。あれでは、領民達が余りにも哀れでありーー」

その途端、一喝。

「嘘を申すでは無い!」

その声に兵たちの背筋が凍る。空気が、まるで斬撃でも受けたように震えた。

「概ね『山城守』与しやすしと読み取った抜け忍か何かであろう!その手際の見事さ、一介の牢人に出来るものではないわ!」

名声、噂、手並み――すべてを組み合わせ、瞬時に推し量ったこの大名の眼差しは、まるで天秤で魂を量る神の如し。『梅』は何も言えず、ただ地に額を擦りつけるばかりだった。

(……見抜かれた。しかし、裁かれぬ。これは運か、それとも…)


「ーーしかしの、その『手際の見事さ』を賞賛せんでも無い」

突然、大名は声の調子を変えた。興味、戯れ、そして未来への賭け。そのすべてが絡んだような声色。

「続く戦の働き次第では、その“転生”とやらを信じてやることにしよう」

『梅』は、許されたと理解した瞬間、地に額を押し付ける。「あ、有難き幸せっ」

大名は笑った。 「ははは、城攻め巧者の野戦での戦ぶりを眺めてみたいという気まぐれよ。兵は五百用意せよ。ここにいる信濃守の名に従え。期待しておるぞ」

そして障子が開け放たれたとき、冬の光が差し込んだ。それはまるで、虚構に命を吹き込む天啓のようであった。

――この時、武士でも牢人でもない「者」が、歴史の表舞台へと歩を進めた。


『梅』が兵を募ると告げた翌朝、村々には静かな熱が広がっていた。井戸端では年寄りが若者に肩を叩き、「お前ならやれる」と言い、母親は涙を隠して握り飯を握った。山の端から現れた若者たちは、槍こそ握っていなかったが、その目には火が灯っていた。

『梅』は一人ひとりの顔を見た。泥だらけの服、粗末な草鞋、傷だらけの手。それらは戦場で鍛えた者よりも、むしろ生の厳しさを知る証だった。

「与次郎」 『梅』が声を掛けた者は、まだ頬に若さが残る少年のようだったが、その瞳はまるで飢えた獣のように強く、鈍い光を宿していた。

「お主は何故来た?」

「弟が飢えてます」

「戦に出て、それで弟が飯を食えるか?」

「この目で殿が我らを見てくれると確かめたい。それだけです」

『梅』は黙って頷いた。そしてその日から、与次郎は兵の中で最も早く槍を構え、最も遅くまで訓練を続けた。


『竹』は武具の点検を進めながら呟いた。「民を使うというのは、ただの策ではない。試されるのは俺たちの信義だ」

『松』は野草を煎じながら答える。「誰かが捨て駒にした時点で、民は武士を見限る。逆に、命を繋いだ者には心も託す」

その言葉が『梅』の胸に残った。五百の命は、ただの数ではない――それぞれに祈り、家族、過去がある。


参陣の折、信濃守は目尻に笑みを湛えたまま『梅』と兵を見渡した。 「よく集めものだの」

その言葉の裏には、民を動かす力――そして言葉の重みを測る意図があった。

「御館様の下知次第です」

微笑のまま、信濃守は手を組み、風を受けて立っている。 「ただ、徒に兵を失う戦だけはこの信濃守が認めんぞ、よいな?」

『梅』は深く頭を下げる。 「もちろん。それこそが我が策の肝でございます」


その夜、兵たちは焚き火の周りで語り合っていた。与次郎が火を見つめながら言った。

「俺達、ほんとに戦えるんですかね」 『梅』はその背中越しに答えた。 「戦うな。生き残れ。斃すよりも、残す方が強い。そう教えるのが、俺の役目だ」


戦の火は、まだ焚かれていなかった。だが周囲の空気はすでに火薬の匂いを含んでいた。

敵地はまさに大名領の「喉元」に位置していた。狭く険しい峠を背に、要害として知られるその領地は、まるで獰猛な牙を剥く野獣のように、大名の力を寸断していた。何度攻め込んでも、地形に翻弄され、兵糧に悩まされ、指揮官は肩を落として戻るばかりだった。

だが今――転機が訪れた。

抵抗の要だった豪族は、奇しくも病で倒れた。跡を継いだのは、十五にも満たぬ少年。兵は半分、将の覚悟は未知数。同盟者たちも動揺し、大名の巧みな懐柔により、一人また一人とその盟を捨てた。まるで山から崩れ落ちる岩のように、豪族の牙は砕けはじめていた。

「この機を逃すな!」 大名の声は快晴の空に轟いた。総兵力が惜しげもなく展開される。

その野戦において最も危険で、最も勝利に直結する任務――“虎口突破”を任されたのは信濃守。そして、彼の傍らに立たされたのが、『梅』であった。

「虎口を任された。腕の見せ所じゃ」 信濃守が事もなげに言い放ったその言葉は、重荷ではなく、挑戦の贈り物のようだった。

『梅』は一歩前へ出る。「正面の敵兵を突破すれば、我が軍の勝ちが見えてきますか?」

「その通りじゃ」 信濃守は頷いた。「犠牲を最小限にし、突破せよ。お主の働き次第で取り立てることもあれば、見捨てることもある」

その言葉は、まるで刀の刃先で心臓をなぞるような緊張を生んだ。

『梅』は、ごくりと唾を飲み込んだ。

(いよいよだ。これが偽りの名で得た機会なら、真実の技で応えるしかない) (俺には『松』と『竹』がいる。民の声もある。この五百人を無駄にはせぬ。いや、それどころか……)

火がついたのは、言葉ではなく、覚悟だった。


戦場は鼓膜を突き破る太鼓と法螺貝の響きで目覚め、地を這う震えが兵の背骨を叩いた。

「行くぞ!」 嗄れた声に応えて、五百の郎党が山肌を割って進撃する。『梅』の眼前に現れた敵兵は、いまだ士気を失わぬ精鋭。兜の下の瞳は戦慄を宿し、口元は獣のように歯を剥き出す。

(死兵となった顔だ。油断は出来ぬぞ)

その観察は冷静だったが、『梅』の指示は火のように鮮烈だった。

「与次郎、敵右翼に突っ込め!首は狙うな!討ち捨てろ!」

「太吉、礫を投げろ!」

「喜助、ひるんだ奴から槍を付けろ!」

敵の動き一つひとつに対する対応策――その綿密さに、兵の名まで覚えた『梅』の誠意と責任感が垣間見える。

「いかん、一助が討ち取られる!権太よ、助太刀を――!」

乾いた銃声。その侍が斃れる。

(『竹』の鉄砲だな!)

次いで、敵の追撃の刹那、膝を崩した影に『松』の姿。『梅』への手振りが、まるで「安心しろ」と告げるかのようだった。

(有難い!この戦、必ず勝つぞ!)

馬上から的確な指示を発する『梅』。部隊は確実に前進し、敵陣は見事に二分される。だが、それは包囲される危険も孕む。

「後ろを気にするな!進めい!!」 信濃守の声が、雷の如く戦場を揺らす。

(あの好人物ぶりに似合わぬ「鬼」という渾名はこれが由来か――)

そして『梅』は敵陣を錐の如く貫く構えに整え、兵達に喝破する。

「追い討て!手柄の取り時ぞーー!」

敵の瞳から炎が消えたその瞬間ーー『梅』は、その刹那を見逃さなかった。これこそが勝機の兆し。炎が消えた目――敗北を悟った目。戦場は血を流しながらも、勝利の風を孕んでいる。


追撃の合図は太鼓ではなく、兵たちの獣じみた息遣いと土を蹴る音だった。つい先ほどまで死兵と化していた敵は、いまやばらばらに砕けた瓦のように地へ走り、山を越えようとしている。彼らの眼に残っていた炎は消え、恐怖と焦燥のみが残されていた。

だが、背を向ける者に慈悲はない。 「山城守」の名を戴く『梅』の郎党達は、一糸乱れぬ動きで敵の背を突き、止めを刺す。 信濃守の兵はまさに「鬼の爪牙」――迷いも憐れみもなく、戦場に残された情けを喰らい尽くす。

陣の中央――風が軍旗をたなびかせ、大名がただ静かに前線を見下ろしていた。 (信濃に山城、なかなかやるわいの――)

母衣武者が進言するよりも一瞬早く、軍配が空を裂く。 「全軍突撃。そのまま、城下までなだれ込め」

その言葉は雷鳴のように全軍に轟き、あらゆる兵が一斉に走り出す。 地鳴りのような怒号が谷にこだまし、軍馬の蹄音が地を穿つ。


豪族軍はなすすべもなく後退を続け、ついに本拠の城へたどり着く。 だがそこはすでに“焼かれた地”だった。

「城が、焼けている!」

本丸が爆裂する音が戦場を揺らし、空に黒煙が昇る。 瓦が舞い、柱は折れ、人の声すら風に散る。

二の丸に逃れた当主――数え十五の少年は、もはや逃げ場がないと悟っていた。

敵兵に囲まれる寸前、彼は岩に正座し、静かに懐刀を抜いた。 顔に浮かぶ表情は、恐怖ではない。むしろ晴れやかだった。

「ーーいた仕方なし」

その刃は躊躇なく腹を裂いた。 血の滲みが岩を染め、風が頭巾を剥がす。 敵味方を問わず、その最後を見た者の誰もが目を伏せた。

「この戦、我等の勝ちぞーー!」

どこからともなく起こった歓声。旗が翻り、兵が互いの肩を叩き合う。 だが『梅』の目には、兵の顔に残る緊張が映っていた。殺気はまだ消えていない。

(勝ったのか、俺達は??)

戦いの終わりとは、刀を納めることではない。心を休めることだ――それが難しい。

その時、ポンと肩を叩かれる。 振り返ると、信濃守が穏やかに立っていた。

「兵の力を抜いてやれい。それも大将の仕事ぞ」

その言葉に、『梅』は深く頷いた。 (俺が名を偽ろうと、役目が本物ならそれでいい)

そして彼は郎党達へ静かに歩み寄り、刀を収めよと、声を掛けていく。


陣の幕が風にたなびく中、凱旋の余韻は次なる節目を迎える――論功行賞。 「この戦、一番働きは山城守なり」

その一言が戦場の空気を震わせた。 つい数日前までただの“下忍崩れ”と蔑まれていた男が、堂々たる軍配と統率力で軍を勝利に導いた事実は、誰の目にも揺るがぬ功績。

「安堵と共に我が本領付近の地を与える。代官を置いて統治せよ」

直轄地付近の任地――それは信頼の証、そして政治的な大抜擢。 しかし歓声の中心にいるはずの『梅』は、その厚遇に心を寄せることなくただ兵の安否を気遣っていた。 (全員、生きているか?)

軍目録を引ったくるようにして自陣へ戻った『梅』の声は、荒々しさではなく焦燥だった。 「与次郎は無事か? 一助は――?」

そこへ『松』が割って入る。

「喜べ。戦死者はいない。全員元気だ」

続いて『竹』が穏やかな声で、背を押す。

「みな、お前の演説を待っているぞ!」

高台へと導かれた『梅』が見下ろしたのは、汚れ、傷付きながらも生き延びた郎党たちの顔。 その一人ひとりが、自分の采配と背を信じて突撃し、生還した者たち。

「皆、ご苦労! この手柄は、皆の、皆の――」

そこまで声を出したところで、喉が詰まった。 戦の疲れ、仲間の無事、そして心からの感謝が、言葉に変わる前に涙となって溢れる。

兵たちも静かに泣いた。誰もそれを咎めない。 戦の終わりとは、涙を流せる瞬間のことである。

その静寂を破るように、鋭く響いた声。

「山城守様、万歳!」

主は与次郎――あのやんちゃ者の顔には、誇りと感動があった。 続けざまに「万歳、万歳!」の声が陣を揺らす。

信濃守は苦笑しながら呟く。

「やれやれ、喧しい連中と縁ができてしまったの」

だがその表情は、どこか嬉しそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る