第15話
翌朝、重い体を引きずって恵人はベッドから這い出た。
寝ようにも思考がまとまらず、何度も何度も同じことを考えてはやめてを繰り返し、まともに寝られていない。
今日は特に予定はないが、惰眠を貪る気にもなれずリビングに顔を出す。
「おはよう、恵人」
そこにはいつもと変わらないノアがいた。それをいつも通りにしようという合図だと受け取った恵人は、平静を取り繕って挨拶をする。
「おはよう、ノア」
完璧とまではいかないが、及第点だろう。
「今日は?」
「ずっと家かな。のんびり過ごすよ」
「そっか」
当たり障りのない会話を続けていると、玄関のチャイムが聞こえた。
「誰だろう、こんな朝早くから」
ノアが立ち上がり、玄関へと向かう。恵人も気になって、後を追いかけてみる。
玄関を開けると、そこには件の人、南條楓が立っていた。
「どうしたの、こんな朝早くに」
ノアはさも平静を保っているように見えるが、少し怒気を含んだ声音になっている。やはりノアはノアで気にしているらしい。
「宣戦布告しに来ました」
「え?」
素っ頓狂な声を出したのは恵人。件の人が件の人に宣戦布告。嫌な予感しかしない。
「今日一日、折原とデートをします」
楓はノアの目を見て、一言一句違わずそう言った。
「は?」
ドスの聞いた声でノアは応え、その突拍子もない宣言をした楓を無言で見つめている。怖すぎる。だがこんなに朝早く、しかも自分に対して喧嘩を売ってきた人間に対する態度としては妥当だろう。
「どういうことか、説明してもらえるかな」
真顔から微笑みに表情を変えたノアだったが、むしろ怖さが増しただけである。感情がこもってなさすぎる笑顔だった。
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ。今日一日折原とデートをするので、連れに来ました」
「それを私が、許すとでも?」
「怖いんですか? 私に折原を取られるのが」
「……あ?」
完全に売り言葉に買い言葉だ。ノアの態度が段々ヴェラと相対した時のものに近くなっていっている。さすがに止めなければ。
「あの、一旦落ち着いて――」
「「
「すみませんでした」
途轍もない眼圧に萎縮した恵人はもうそれ以上口を挟めなくなってしまった。
一瞬恵人に視線を寄越した二人もすぐに向き直り、バチバチと視線をぶつけ合っている。眼中にないとは、こういうことを言うのかもしれない。
「デートも何も、恵人は私の。はいどうぞって渡す訳にはいかないの」
「ノアさんのものって言う割に、本人は悩んでるみたいじゃないですか。私かあなたか」
「っ……!」
恵人としては不甲斐ないもいいところだが、ノアとしては痛いところを突かれた形。楓はそこを見逃さない。
「だったら、一日くらい良いと思いません? 折原があなたのことをもう一度選ぶという自信があるなら」
楓の言葉に、ノアは逡巡している様子だった。もちろんここでダメだと言うこともできる。だが、きっとそれはノアのプライドが許さないだろう。
「……わかったわよ。今日は貸してあげる。でも、今日で無理だったら恵人のことは諦めるってことでいいのよね?」
「もちろんです。そのくらいの覚悟はできてます」
ふう、とノアが息を吐く。そして恵人の方を見て、
「行ってきなさい」
と、感情の乗っていない声で言った。
「いや、でも――」
「行ってきなさい」
恵人の声を遮るようにして、再度ノアが言った。
「……わかった。南條、準備するから待っててくれ」
「うん」
ノアの感情が読めないまま、恵人は出かける準備を始めた。
◆
「はあ……」
恵人が家を出ていった後、ノアは珍しく溜息を吐いた。ここまで感情が揺さぶられたのは何年ぶりだろうか。しかもあんな年端も行かない少女に。
思い出すと怒りがふつふつと湧いてくるが、ノアは千年以上生きているので近頃よく耳にするアンガーマネジメントなんてものもお手の物だ。自分ではそう信じている。
「ふう……」
なんだか息を吐いてばかりだが、他に吐けるものもないので仕方がない。
何年生きようが乙女は乙女。自分の愛する人間が他の女と出かけるのを落ち着いて待っていられるほど心は広くない。
「どっかで時間潰そうかな……」
一瞬気配を消して恵人たちについていく考えが過ぎったが、さすがにプライドが許さなかった。かといって、座ってお茶を飲めるほど落ち着いてもいられない。
どちらかというと、人に話を聞いてもらいたい気分だった。けれど、ノアに友人と呼べる友人はいない。
ただ、運良く、五百年以上関係のある吸血鬼なら、この街にいた。
「……なんか癪だけど、行くかあ」
「……殺意のない訪問なんて、初めてじゃない? 気でも振れた?」
最初からアクセル全開で煽ってくるヴェラ。普段のノアだったらその挑発に乗ってさらに煽り返していただろうが、今日は気分じゃない。
そして何より、気が振れた、という言葉が強ち間違っていなかったからだ。
「……振れたのかもね」
「……まあ、いいわ。上がりなさい」
ヴェラの上から目線にも、何も言わずに従う。どうやら本当に気が動転しているらしい。自分が思っていたよりも、ショックが大きかったのかもしれない。
ヴェラの部屋は、相変わらず殺風景だった。
五年前、殺し合った時とあまり変わらない。
ヴェラは本来、ノアよりも短いスパンで街を転々とする吸血鬼だ。だが今回はなぜかこの街に長く滞在している。何かが気に入ったのだろうか。
「お茶なんて出ないわよ」
ソファに座りながら、ヴェラが言った。
「いいわよ、期待してない」
ヴェラと対角線になるように、ノアもソファに腰掛ける。
「それで、どうしたのよ」
「……」
「なに」
「いや、まさかあなたの方から話振ってくるなんて」
「……あんたがそんな調子だとこっちの調子も狂うのよ」
ヴェラはノアから目線を外しそう言った。
この五年、ノアとヴェラは喧嘩という喧嘩をしていない。恵人がヴェラのもとに戦い方を教わりに行っていたのもあるが、一番は喧嘩の理由がなくなったことが原因だ。
過去の遺恨は消えないし、好きというわけでもないが、別に嫌いでもない。それが今の二人の関係を表すのにちょうどいい言葉だ。
「いいから、さっさと話しなさい」
ノアはヴェラに急かされ、事の顛末を話した。
「なるほどねえ……」
馬鹿にされるのだろうなと思っていたから、第一声がそれなのは驚きだった。
「というか、そもそもあの子がこんなことで悩むなんて思ってもなかったわ」
「なんで?」
「だって、誰がどう見てもあなた一筋だったもの」
その言葉を聞いてノアは少し顔を赤らめた。恵人の愛はそこまでダダ漏れだったらしい。
「でも悩むってことは気づいてしまったのかしらね、人間の世界に大事なものがたくさんできたって」
そう、ノアには恵人が悩む理由がわかっていた。
そしてその悩む理由を恵人が持つ手助けをしたのが、紛れもなくノアなのだ。
友達を作ったほうがいいと言った。
大学に入ったほうが良いと言った。
ゼミにも入ったらと言った。
就職もしてみたらとも言った。
五年しかこの街にいられないことを隠しながら、ノアは恵人に様々なことを勧めていた。
「自分で作った理由に追い詰められてたら世話ないわね」
「……」
図星。恵人のためを思って手を回したことで、自らの首を締めることになっている。なんと愚かか。
「……でも、少し羨ましいわ」
「え?」
「そんな人間っぽい感情、もうとっくの昔になくしてしまったもの」
「そんなこと――」
「あるのよ。まったく、贅沢な悩みね」
ノアとヴェラが出会ったのは約五百年前。だからそれ以前のヴェラをノアは知らない。ノアは自己中心的で利他的なヴェラしか知らないが、それ以前のヴェラはもしかしたら違ったのかもれない。
「まあ、私の話はいいのよ。それで、あなたはどうしたいわけ?」
どうしたいか。そう問われて、一瞬口を噤む。けれど一音一音、噛み締めながらノアは口にした。
「それは、恵人と一緒にいたいよ。でも、恵人の気持ちも尊重したい」
「めんどくさいわね……」
「……うるさいな、わかってるよ。私だって自分がこんなめんどくさい女だと思ってなかったわよ」
以前のノアはうじうじ悩むような性格ではなかった。そのノアに変化をもたらしたとすればやはり恵人との出会いだ。
恵人のことが本当に大切で、恵人のことを本当に愛していて、だからこそこんな葛藤が生まれてしまう。
「まあ、わからないでもないけどね。でも、そんなにあの子の気持ちが知りたいなら、一ついい方法があるわよ」
「え、どんな……?」
「それはね――」
ヴェラはゆっくりと、その方法をノアに伝授した。
「……性格が悪い」
「酷い言いようね、でもあなたには思いつかないでしょう」
「……まあ」
ノアには決して思いつかない奥の手のような提案。これを実行するのは、正直気が引ける。
「これがあの子にできないのなら、それまでってことよ。その時はきっぱり諦めなさい。その覚悟があるなら、やるべきよ」
ノアと同じ真紅の双眸に見つめられる。こうして同格の吸血鬼に相対することはそうない。故にその眼光は、鋭く、そして真剣なものに見えた。
「――わかった、やる」
その眼光に押されたわけではない。真祖の吸血鬼としての覚悟を試された。ならば、それに応えるのが礼儀というものだ。
「そう。あの子がここ訪ねてきても、何も言わないから」
「ええ、わかってる」
先程までの空気が弛緩するのを感じる。だからノアは、前々から気になっていることを聞いてみた。既に恥はかいた。その上から重ねても、さして変わらないはずだ。
「一つ、聞きたかったことがあるんだけど」
「……なによ」
もう話は終わったでしょと言いたげに、ヴェラは不機嫌そうな返事をした。
「あの時、どうしてとどめを刺さなかったの?」
五年前、ここで行われた死闘。とは言っても、死力を尽くしたのはノアだけだが。
確実にノアと恵人にとどめを刺せたはずなのに、ヴェラはそのまま姿を眩ませた。その理由を、ずっと知りたかった。
「私が気分屋なの、知ってるでしょ?」
「ええ。でも、それ以外にもあるでしょう?」
「――」
ヴェラは言葉に詰まる。
ノアとヴェラは、親密度はさておき、五百年以上の付き合いだ。互いのことをわかろうとしなくとも、なんとなくわかってしまう部分がある。
だからノアと恵人を殺さなかったことにも、ヴェラが気分屋というだけでは済まされない理由があると、ほとんど確信していた。
「……別に、大した理由じゃないわよ」
「いいわよ、なんだって」
ノアの答えに嘆息して、ヴェラは少しずつ言葉を紡いでいった。
「五百年以上生きてきて、吸血鬼を庇う人間なんて見たことがなかった。吸血鬼と一緒にいる人間はたくさん見てきたけれど、所詮は利害関係の一致で、吸血鬼の側にいる意味がなくなればどこかにいってしまう。それが普通だった」
そうね、とノアは相槌を打つ。
吸血鬼の眷属になれば、忌み子は呪いから開放される。歳こそ取らなくなるが、姿形は人間だ。人間社会に戻ればいくらでもやり直せる。だから、眷属にした途端行方を眩ませる忌み子は多くいたらしい。
「でも、あの子は違った。確実に死ぬとわかっているのに、自ら死地に飛び込んだ。自分も殺されかけて、助けに来たあなたも殺されかけていて、それでもなお、吸血鬼を助けようとした」
頭がおかしいのだと思ったわ、とヴェラが言う。
「でも、同時に思ってしまったの。羨ましいって。人にそこまで愛されるって、どんな感覚なんだろうって。久しく忘れていた感情を無理矢理引っ張り出された気分だった」
「だから、見逃した?」
「……少し、見たくなったのかもしれないわ。あなたとあの子がこれから進む道を」
長い年月を過ごした彼女との間で、これだけ言葉を重ねたことはなかったはず。だからそれがヴェラの本心であり、本音であるから、茶化すことなどできなかった。
「まあ、私が選んだ人ですから」
ノアは胸を張って言った。けれど、恵人がノアの想像を軽く超えてきたのも事実。本当に凄いのは恵人なのだ。
「あの子が私のところに来た時も、『ノアを守れるくらい強くなりたい』ってずっと言ってたわよ」
「……初耳なんだけど」
恵人は半分吸血鬼になってから、力をつけるためにヴェラの元で稽古をしていた。
『なんで強くなりたいの?』
『俺がこうなったことで巻き込む人も増えそうだからさ、その人たちを守りたくて』
そう、ノアには言っていたのに……。
「健気すぎて、なんかムカついて、だいぶいじめた」
「ちょっと」
「でも、あの子は折れなかった。死なないとはいえ、痛みは変わらずあるのに。半殺しにしても、次の日にはまた来るんだもの。ちょっと怖いわよ」
「……」
さすがのノアも擁護しようがない。ただ骨が折れるだけでも、人間は痛いはずなのに。
けれど同時に、納得がいった。本来そんな面倒そうなことを絶対にやらないヴェラが、どうして恵人の面倒を見ていたのか。
「……すごいね、恵人は」
「そうね、でも、そんな子を試そうとしている吸血鬼に言われてもね」
「うるさいなあ、私は恵人にちゃんと考えて自分の道を選んでほしいだけだよ」
それはもちろん本心だった。なし崩し的に半吸血鬼にしてしまって、人間として生きる道を半ば強制的に絶ってしまった責任をノアはずっと感じていた。
だからこそ、今回は恵人に考えて、考えて、考え抜いてほしい。
「はいはい。でももし、選ばれなかったら」
ヴェラは、いつもより棘がなく、それこそ気が置けない友人に向けたような、そんな声音で言った。
「一杯くらい、付き合ってあげるわよ」
それは、この長い付き合いでノアが初めて見る笑顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます