「……おうこくきしだん?」
騒ぎに乗じて人魚が入った水槽を運び出して逃げる髭面の男たちを追いかけるため、立ち上がったアレスに横から声がかかる。
当然、見逃す気はない爽やかな笑顔を向けてくる優男ユースだった。
「君……騒いだりしないところを見ると、闇市は初めてかい? 情状酌量はないけど……痛いことはしないであげるよ」
人間と関わり合うのはこの世界が初めてだったが、生体に関して熟知しているアレスは喋らない。人間によって耳で声を覚える者もいるからだ。
すぐに察した様子のユースは面白いとばかりで口元へ手を添える。
周りの騒音が嘘のような静けさが流れる中、アレスは幼女へ視線を投げた。幼女も意図を理解して、その場で高く飛び上がる。急な行動に驚いたユースの視線が幼女へ向いた瞬間。おもむろに懐から取り出したのは、クラトスから餞別と受け取った魔法具だ。
「……逃さないよ」
ユースが幼女じゃなくアレスに手を伸ばしたのも束の間、発動した魔法具で視界は奪われる。ただの煙ならどうとでもなったが、魔法具の効果は別にあった。煙の中にある影へ手を伸ばしたユースは、空を掴む。
アレスたちはユースを掻い潜り、騎士団や観客をすり抜けて舞台場から裏へ回った。
大きくて繊細な物を運ぶ荷台は、早く進めず視界に捉える。
ただ、アレスも無理強いは出来ない。足の遅い髭面男が抱えている金色の籠が目に留まる。
「
アレスの足に合わせて並走していた幼女へ指示を出した。幼女の目にも妖精の入った籠が映り背を低くして加速する。
走る音で気づいた髭面男が、顔だけこちらへ向けた瞬間だった。短い声がして、幼女の両足が髭面男の顔面を踏み潰す。
踏まれた衝撃で空中へ放り投げられた籠を遅れて走るアレスが飛び上がって掴み取った。
衝撃で中の妖精は目を回していたが、構っている暇もなく、そのまま水槽へ向かって走り出す。
追われているのが分かった荷台を動かす二人の男は小走りになる中、一人だけ動きを止めた用心棒のような屈強な男が立ち塞がった。
「――小賢しい」
腰に下げた細剣を抜こうとするアレスの視界から男の姿が消えた。一瞬のことで、横へ向くアレスの眼前に影が出来る。
振り抜かれた片腕がアレスの体へ触れそうになった瞬間、男の拳が止まった。
「うっ……ァァァア‼」
そして、男の悲鳴が上がる。
男の拳は、金属でも殴ったように手首から曲がっていて、反対の手で掴みながらうずくまった。悲鳴によって掻き消された音。アレスの前には額を擦る幼女がいた。
体格差をカバーするように飛び上がった幼女は、竜人の石頭でアレスを守った。
「フッ……悪くない動きだ」
感謝も褒めることさえしないアレスだが、幼女は褒められたと認識して笑顔を向ける。
いつの間にか視界から消えていた荷台を追っていくと、背後から声が聞こえてきた。
連携の取れた騎士団が追いついたらしい。
しかも、振り返った先頭にいるのは小柄な女の獣人だった。
肩へつかないくらいで結ばれたピンクのツインテールと瞳をらんらんとさせ、特徴的な羽耳を持つ鎧に着られたような少女である。
「そこの方ぁあ! 止まってくださぁぁい‼」
耳をつんざくような声で呼びかけてくる少女に眉を寄せ、正面へ向き直ったアレスは加速した。
後ろで戸惑った少女の声が聞こえても振り返らない。足並みを揃える幼女は、一瞬振り返るが足は止まらなかった。
巨大な水槽と、小さな木箱が乗った荷台の男二人は汗をかきながら息を荒らげている。
水槽に入っている人魚もアレスへ気づくと声を上げた。
「た、たすけて……ください!」
振り絞る声は風のように流れる透き通った音を奏でる。今度こそ腰から抜いた細剣を、男たちへ振りかざした。切ったのは男たちのベルトで、ずり落ちたズボンに足を取られて転ける。
荷台が止まったことで駆け寄ったアレスは、人魚へ問いかけた。
「貴様、人の姿へ変身は出来るか」
一瞬、意図が分からず首を傾げる人魚は、声のする方へ視線を向ける。相手は王国騎士団だ。保護してもらった方が良いかもしれないと考えが過る。
そんなアレスに代わって魔法紙へ何かを書いた幼女が人魚に見せていた。
『いきたいところにつれていってあげる』
上から覗き込むアレスは目が点になる。
そんなことまで面倒を見る気のなかったアレスは指摘しようとするが、騒がしい声に眉を寄せた。
視線の先に追いついた騎士団の少女が見える。
「仕方ねぇ……。騎士団の保護を受けるか、逃げるなら人間になれ」
一瞬戸惑いを見せながら、人魚は自分の細い首に嵌まる【従属の首輪】へ触れた。
「この、首輪……外せますか?」
「――オレには外せない」
魔法具の仕様は知らないアレスの言葉で迷いながら、水槽に手をかける人魚の邪魔な鎖だけ細剣で切り裂く。自由になった人魚は卵をどうしようか迷っているようだった。
不自然な小さい木箱へ気づいた幼女は上から引き剥がすと、中には小ぶりな水槽が入っている。
幼女から水槽を受け取り人魚へ手渡すと、卵ごと水を入れて渡してきた。
「……私の命より、大切なんです」
両手で水槽を受け取ったアレスは「気をつけろ」と言って幼女へ渡す。ぐっと体を持ち上げた人魚へ再び手を伸ばして、支えるように引いた。
人魚は水槽から出ると、瞬く間に足のヒレが人間の二本足へ変わっていく。
地面へ足をついたところで手を離し、幼女が大事そうに抱えていた水槽の卵を返した。
「ありがとう」と言いたげな人魚は口をパクパク動かすだけで声が聞こえない。
アレスはすぐに複数のパターンから一つを導き出した。
「この世界の人魚は、人化したら話せなくなるのか」
相槌を打つように頷く人魚へ幼女が魔法紙を見せる。
『わたしといっしょだね』
人魚は数秒沈黙したあと、明るい顔になって小さく頷いた。だが、悠長に話している時間は与えてくれない。
半分まで追いついてきた騎士団の少女に気づくと、人魚の美少女を連れて走り出した。城内とは別な外へ続く地下水路の道幅は狭くなっていき、少しずつ距離が縮まっていく。
「ちょっ! ……いい加減、止まってぇぇえ‼」
単身で追いかけてくる騎士団の少女の執念に感服しながらも、止まるわけがない。
人魚の足は思ったより遅く、ぐんぐん距離を縮めてくる騎士団の少女が、腕を伸ばしてきたときだった。【従属の首輪】へ触れかけるのを、細剣の柄で牽制しようとしたアレスは水路へ足を踏み外してしまう。
とっさに妖精の籠を通路へ放り投げ、水飛沫の音と共に全身が深く沈み込んだ。水中は思った以上に深く視界も悪くて目を開けていられない。足がつかないどころか流れも速くなっていく。
水中は泳ぐものであると言う概念はすぐ頭に浮かんだ。だが、神だったアレスが泳ぎ方まで知るはずもなく流されていく。
次第に息苦しさを感じて口を押さえると、ローブを何かに掴まれて引っ張り上げられた。
「ゲホッ……ゲホ――」
深く呼吸をした途端、咽る背中を誰かに優しく撫でられる。薄く目を開くと、草花が生い茂るどこかの草原だった。
うずくまる体を起こすと横には人魚の姿がある。そして、顔をのぞき込んでくる幼女もいた。死にかけたにも関わらずアレスから恐怖や、震えなどの反応は一切なく。あるのは人間としての本能である生きようとする行動だけだった――。
口を開こうとするが、地下水路の汚水を飲んだのか、気持ち悪さで吐き気が込み上げて手で押さえる。
何かを閃いた幼女が魔法紙とペンを渡してきた。
青白い顔で『此処はどこだ』と書くアレスに幼女は首をひねる。代わりに人魚がペンを握って文字を書いた。
『地下水路を越えた先の草原。王都の外に繋がっていたみたい』と心配そうな顔をして見せてくる。
人魚の手を借りて起き上がったアレスの視界には、王都の白い壁が歪んで映った。
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