第2話 アホ面
鉄製だけど錆びた柵越しに伸びる少し角張った硬そうな手。震えた唇が呼んでいる。高揚していた胸の奥底からひんやりと冷めていくのを感じた。
足もとから力がなくなっていってしまうような気がして、ちょっとしたそよ風で倒れてしまいそう。
まずいな。これ、ぼんやりとしている内に落ちるやつだ。投身自殺しちまう。いや、そのつもりなんだけど。そうじゃなくて、このアホ面の前で死んだらいけない気がしてならない。
柵の一番上を掴む。握力を測るときばりに力を込めてまた自分の体を浮かせた。心ばかりの嫌がらせとして、手を伸ばしてきたアホ面の真上に着地してやった。「ぐぇっ」と蛙みたいな情けない声が吐かれた。
人間ってこんなに気持ち悪かったっけと思いながらすぐさま足をどかす。
ここでおしまいかと思えば、逆走するはめになるとは。またあのボロボロ階段を下らないといけないってのか。面倒だな。
「まてまて」
回復力がすごいのか、もう立ち上がってやがる。踏みつけにしてやったのを恨んでいるのか? 謝れってんなら謝るが、こっちのことを邪魔した罪もなかなかに重いぞ。
空になったポケットに両手を突っ込んで去ろうとしたときにかけられた声に振り向く。そこでは、頭を掻きながら俺を引き止めるアホ面の奴がいた。シワだらけのスーツにぐちゃぐちゃのネクタイをつけた汚らしいスタイルの男がいた。着ているのはスーツのくせして、履いているのはスニーカーとかいうアンマッチな格好がよりダサさを際立たせている。
社会人か? にしてはダサい。かなりダサい。廃人みたいだ。こんな奴が何の用でこんなところに来たんだ。
「疲れてんだろ。お兄さんが話聞いたげる」
そうか。こいつもか。こいつも俺と一緒なのか。そうなんだな。
馴れ馴れしくアホ面は俺の手を取って引っ張ろうとした。だから、バシンっと音を鳴らしてやった。アホ面の伸ばした手をはたき落とした。もう関わらないでほしかった。触らないでほしい。微かな願いも虚しく、アホ面は俺の頬に指を突いた。
「クソガキ」
キッツ。おっさんが年下掴まえて「クソガキ」だって? 気持ち悪い。何様のつもりなんだよ。悪態をつくには十分すぎる。ニマニマ笑いやがって。どうせ会社でお荷物になって精神グズグズになったから来たんだろ。こんなとこにまで自分の悪評広めるつもりかよ。末期のおっさん社畜風情の考えることなんざ、俺には知ったこっちゃねぇがな。
「元気出しなよ。嫌なことでもあったんか? まだ若そうだけど」
若いからなんだよ。社会知らない内は簡単に死ぬとか言うなっての? なんの権限があってお前が言えるんだよ。そんなこと。やっぱお荷物じゃん。人の邪魔しかできないゴミめ。
「生意気な態度は気に食わん。でも、おまえはまだやってけると思うぜ」
何を根拠にそんなことが言える。なんでお前の気に食えるようにならなきゃいけないんだ。意味がわからない。触るな。勝手に俺を語るな。偶然を奇跡だとか思っちゃうタイプか? 痛いなぁ。きもい。俺より先に飛んだほうがいんじゃねぇか?
「お兄さんが一緒遊んだげる」
「きっしょ」
あ、やべ。ガンスルーするつもりだったのにしゃべっちゃった。しょうがないよな? だって完全に変質者じゃん。ここまでキモかったらさすがにスルーできないって。振りほどかないとだめなやつじゃん。きもいおっさんの言う「遊ぼう」とか、体絡みだろ。どうせ。きっしょ。
「あっは。よーやくしゃべったわー。クソガキ」
浅い乾いた笑いを顔面に浮かべて、アホ面はまた俺を「クソガキ」と呼んだ。そしてヘラヘラとした張り付けの笑みを見せる。気持ち悪い。
「お兄さんが話相手なったげる」
そう言って、アホ面はアホ面のまま、ポケットからひび割れ画面のスマホを手にしてそれを俺に見せつけてくる。液晶画面がピカーと光って何かのアプリがぱっと開かれた。何のつもりだ。こいつ。新手の宗教勧誘か?
「LENI、交換しない? ほらー、生きる糧、作ろうぜ」
やっぱり意味がわからない。突然やってきて邪魔したかと思えば死ぬのはもったいないーみたいなこといいやがって、挙げ句の果てにはLENIを交換したいだと? 馬鹿じゃねぇの。なんかたかるつもりか。大人のくせに。情けない。生きる糧って、何をくれるつもりだ。金か? 金やるから違うもん寄越せと言うつもりだろ。馬鹿はそういうことするってことくらい知ってんだよ。
「しない」
拒否る。絶対やんないし、したくてもできない。だって、もう交換できるものは何もないんだから。スマホだってもう捨てた。なんもないんだよ。どうしようもないんだ。諦めろ。
「なんで? もう失うもんないんだろ。 死のうとしてたんだから」
あぁ、そうだな。失うものはきっともうないんだろう。でも、お前と繋がりを作ろうもんならまた失うものができるだろうが。嫌だよ。最後の心残りまがいが赤の他人とか。なら関わらないままぽっくりいったほうがましだろう。
「スマホ捨てた」
手っ取り早い言い訳があった。捨てたってこと、早く言えばよかった。肝心のスマホがなかったらLENIだって電話番号だって交換しようがない。さっさと諦めてしまえ。それでもうほっといてくれ。俺は普通に死にたいんだよ。
「そ。じゃいいや」
うわ。諦めた。はや。諦めちまえとは思っていたが、実際こんな早くに諦められると逆に嫌だな。変な感じする。裏があるような。
「…は?」
よれたスーツのアホ面がゆっくりとしかし確実な足取りで俺のほうに向かってくる。何かを狙っているのか? 俺にあるもんなんて大してないだろうが。なんだ? 命か? 自殺させるくらいなら殺してやりたいってのか? だったらなおさら御免だ。知らない奴に殺されて生涯幕下ろしなんて嫌に決まっている。逃げるか。幸い、俺のほうに階段がある。それを駆け下りたらなんとかならないだろうか。
ここは人気のない廃墟だから捕まったらおしまいなんだが。逃げ切れないこともない。かもしれない。うまくいったらの話になるが。このアホ面がどのくらい走れるのかがわからないのが難点だな。
今すぐにでも逃げられるように構えているのにも関わらず、アホ面は歩いてきて、俺のほうに手を伸ばした。
「ちょっとしゃべろうぜ」
その手は俺の肩を軽く叩いてから次にそれを手に伸ばして俺を引っ張った。あっけにとられて思わず、はたくのを忘れた。気持ち悪い大人に触られている。払い除けないといけない。払わなきゃ。気持ち悪い。触るなって思っていたはずなのに。
アホ面は俺をつれて階段を一段一段下りていく。ギシギシと踏み場を軋ませながら。その音がやけにうるさく聞こえた。
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