第7話 もう一つの「わたし」
――画面が暗転したあと、音もなく新たな映像が始まった。
始まりは同じだった。
広島の片田舎。
風が吹けばすぐに砂埃が舞い上がる、古びた市営住宅の一角。
中代尚子、貧困家庭に育った少女。
母・弘子との二人暮らし。
炊飯器の音、薄い味噌汁、洗濯物のにおい。
だが、その目はもう輝いてはいなかった。
中学に進学した尚子は、授業中もぼんやりと窓の外を眺めていた。
机に広げられた教科書に、書き込みは一つもない。
「この子は大人しくて、手がかからない子ですね」
担任教師の鹿内 忠雄は、保護者面談でそう言った。
興味もなければ、期待もしていない。
彼女の家庭環境に目を向けることもなかった。
尚子は徐々に“あきらめ”という感情を身につけていった。
――自分は、そういう人生を送るのだ。
勉強しても仕方がない。
生きるだけで精一杯。
そんな内なる声が、ゆっくりと彼女を飲み込んでいった。
高校は地元の公立高校。
進学校どころか俗にいう「底辺校」の普通科。
周囲の生徒たちも、大半は大学進学を諦めていた。
専門学校に進んで看護師になった先輩がいたことから、看護師を目指そうかと勉強しかけたが、周囲の無関心を見てバカらしくてやめた。
程なくして尚子は髪を茶色に染め、化粧を覚え、制服を改造した。
授業の合間にコンビニで立ち読みをし、放課後はカラオケやゲーセンにたむろする。
ノートの代わりに使い捨てのつけまつげを持ち歩き、将来のことは考えたくもなかった。
――高校卒業。
就職先は、街の端にある中堅メーカーの工場。
単純作業。手取り13万円。
ラインの音。
油の匂い。
「なんか、ここで人生終わりの、いやだな……」
ふと、休憩室で同僚が呟いたその一言が、心の奥に突き刺さる。
彼女は1年で工場を辞め、リュックひとつを背負って上京した。
アパートを借りる金はない。
友人の紹介でネットカフェを転々としながら、居酒屋やファミレスのアルバイトを転々とした。
――そして、風俗店。
最初は抵抗があった。
だが、一晩で数万円が手に入る生活は、すぐに感覚を麻痺させた。
酒とネイルとブランドのバッグ。
笑顔の奥にある、いつか“何かが起きる”という漠然とした期待。
そんな夜、彼女はひとりの男、八橋 一平と出会った。
夢を語る一平に惹かれ、結婚。
そして一人娘を出産。
名は「咲良」と名づけた。
だが一平は、借金を背負って逃げた。
保証人は尚子。
働きながら娘を育てる毎日。
保育料が払えない月もあった。
夜の仕事、疲れ切った身体、咲良の泣き声。
そんなある日、咲良は病気にかかった。
病院に行くのが遅れた。
治療費も満足に払えなかった。
彼女の小さな命は、あっけなく燃え尽きた。
尚子の中で何かが壊れた。
夜の街で、酒をあおり、酔った男に絡み、警察沙汰になったこともあった。
だが、誰も彼女を責めなかった。
みな、無関心だった。
ある日、街頭でビラ配りをする団体と出会った。
「この社会は、不公平だと思いませんか?」
その一言に、尚子の中の“怒り”が火をつけられた。
活動に加わり、演説し、ネットで発信し、メディアにも顔を出すようになった。
「貧困は、個人の問題じゃない。富裕層と政府の責任だ!」
怒りは鋭く、訴えは響いた。
彼女は“社会の代弁者”として、再び脚光を浴び始めた。
そしてある日。
「どうする日本の貧困」という番組に出演が決まった。
スタジオの明かり。
カメラの赤いランプ。
自分の隣には、整った顔立ちの女性教授――文久大学の松平尚子。
スーツ姿、優雅な口調。
「貧困は努力不足の結果。政府や成功者に支援を求めるのは、筋違いです」
その言葉を聞いた瞬間、咲良の青白くやせ細った死顔が、脳裏に浮かんだ。
震える手に、一本の先の尖ったボールペンがあった。
カメラが回っていることも忘れ、彼女は立ち上がり、歩き出した。
――そして、そのまま。
画面が揺れ、歪み、血飛沫と叫び声がモニターに走った。
スタジオはパニック。
倒れたのは、松平尚子。
加害者は、“もう一つの尚子”だった。
マリアの研究室、ディスプレイがピタリと止まり、ただ静寂が広がる。
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