第5話


「藤沢、少しはうまくやれ」



「……はい」



とある日のオフィス。

いつも通りの朝礼をこなし、いつも通り外回りから戻った俺を出迎えたのは——いつもと違う光景ひとつ。

 


「珍しい……藤沢さんが怒られるなんて」



部長と藤沢のやりとりを遠巻きにしながら、心配と隠しきれない好奇心を乗せてこそこそ話す女性社員たちの声を盗み聞きした俺は、藤沢が叱られている理由を知ると同時に後輩への同情心がじわりと胸に広がった。




「災難だったな」



やっと部長から解放された藤沢がデスクに着く。

見計らったように声をかければ、「はあ…」と気の抜けた声だけが返ってきた。

その声はいつも余裕綽々な後輩にしては珍しく滅入っているような影がにじんでいた。


(まぁ滅入りたくもなるよな…なんせ取引先の令嬢を振った挙句、商談破談なんて……)



俺なら絶対立ち直れない。

……いや、そもそも取引先の令嬢に惚れられるなんてドラマみたいな出来事自体俺にあるわけないけど。

というか大多数には起こり得ない話なのだ、そんなの。



(……なのに起こっちゃうんだよなぁ……この後輩には)


ちらりとパソコンに向かう横顔を盗み見る。

整った眉に切れ長の目。

スッと通った鼻筋はまるでメロドラマの俳優のようだった。

男から見ても羨ましい。


藤沢は理不尽な叱責を受けた直後だというのにいつも通り爽やかな風をまとい、まっすぐ前を見据えていた。

だが心の中ではきっと(おそらく)落ち込んでいるであろう後輩に、俺は先輩として何かできることはないかと考えた。



……だって、同行してもらったし。

そのお礼もずっとできてないし。



カタカタと迷いのない指先でキーボードを叩く藤沢に、俺は意を決して声をかけた。



「ふ、藤沢?」



「なんすか」



「よかったらなんだけど…今日、飯行かない…?」



——ピタリ。



(い、言った……!!)



俺の誘いに、藤沢は画面を見たまま手だけを止めた。

そのせいでふたりを包む空気がぴたりと凪ぐ。

ドクンドクンとうるさいほどに鳴る心臓の音が、この静けさに混じって藤沢にまで聞こえてしまわないか俺はひやひやした。


やがて数秒の沈黙のあと藤沢はくるりとこちらを向いた。


「気持ちはありがたいんすけど、飼ってる金魚が心配で」



「あ、そ、そっか……なら仕方ないな…」



「すいません、またお願いします」



そう言って再び画面に向かい、何事もなかったようにカタカタとキーを叩き始める藤沢。

俺は気づかれないように唇を噛みしめた。



(……え!?俺いま金魚に負けた……!?)



というか俺は知ってんだぞ!

こいつが女性社員からの食事の誘いを断るときに使う伝家の宝刀。


『すいません、家で犬飼ってて』

『行きたいんすけど、飼ってる猫に餌やらなきゃなんで』

『ハムスター飼ってるんでむずかしいっすね』



———いやおまえんちはアニマルパークか!?



絶対嘘だろ……!という気持ちと、でも金魚に負けるくらいならいっそほんとにアニマルパークであってくれという複雑な心境に苛まれていた——そのとき。




(……あ)








———こつん。



「ッ冷て…なにするんすか江島さん…」



露骨に“なんの用だこの人…”という顔をする藤沢のおでこに無言で缶コーヒーをぐりぐり押しつけてやれば。

ほんの一瞬だけ決まり悪そうな表情を浮かべた藤沢が「…ども」と小さく言って受け取った。



オフィスから少し離れた通路。

人気のないこの自販機の隣のベンチは、知る人ぞ知る最高のロケーションだ。

ちょっとだけ息をつきたいときや、ひとりで何かを考えたいときには。


外回りに出たはずの藤沢を追ってみれば、案の定ここにいた。

その隣に腰を下ろす。



「藤沢は、取引先相手のカツラを飛ばしたことがあるか?」



「——は?」



唐突すぎるその問いかけに、藤沢は訝しげに眉を寄せた。

何を言われたのか意味を測りかねている顔だ。



「…ないっすね」



短く返したその言葉の裏には“なに言ってんだこの人”という本音が透けていた。




「俺はある」



「はあ」



「新卒のときの話だ。初めての商談でガチガチに緊張してた俺は入室一秒で盛大に躓いた。

そしてそのまま取引先のお偉いさんを巻き込みながらの大転倒。……で、飛んだんだよ。カツラが」



「マジっすか」



「ああ大マジだ。もちろん相手は大激怒、商談は即終了。俺は名刺すら渡せなかった……」



「やばいっすね」



藤沢は軽く引いているようだったが構わず俺は続けた。



「同行させてもらった先輩の商談をぶち壊したこともあるし、緊張で頭が真っ白になった俺は途中から自分でも何言ってるかわからないまま失言を連発して、そして気づいたら出禁になっていた」



「………」



「今ぱっと思い出せるだけでこれだ。

部長や先輩にどれだけ怒鳴られたか……途中で数えることすらやめたよ」



「…はあ」



「だからな藤沢。おまえの今回の出来事なんて、俺から見ればやらかしのうちにも入らないんだ」



「…………江島さん、もしかしてっすけど」



ずっと“やばいなこの人”みたいな顔で話を聞いていた藤沢がふいに目を細め、そして気づいたように言った。



「俺のことフォローしてます?」



「……………」



———カシャン。

プルタブを引いて、缶コーヒーをぐいとあおる。


……苦い。




「なんすかそのごまかし方。ていうか回りくどすぎません?」


俺はずっと“先輩のやばエピソード”を一方的に聞かされてるだけかと思ってましたよ。


そんなふうに軽口を叩いて笑う藤沢の足を、俺は無言でガシッと蹴り上げた。


「いって〜……」



そう呟いた藤沢は、そしてまた黙った。



再び落ちる静寂。

缶コーヒーを片手に、俺はただ黙って藤沢が口を開くのを待った。



無言の時間が流れる。

その静けさを割るように、はあ…と短く吐かれたため息のあと藤沢は口を開いた。




「……すごく、よくしてもらってたんです」



——取引先の社長に。



「初めて顔合わせしたときからずっと。

ありがたいことに俺のことをすごく気に入ってくださってて……商材が新しくなるたびに俺の勧めならって迷いなく決めてくれて。……新卒の頃からの付き合いでした」



「……いい人だったんだな」



「ええ、とても。……だからなんであんないい人からあんなクソみたいなガキが生まれんのかまじ意味がわかんねえッ……」



「おっ、おおお落ち着け藤沢……!!」



普段藤沢を“王子”と呼んでキャーキャー騒いでる女性社員が見たら間違いなく泡吹いて倒れるんじゃないかってレベルの形相を浮かべる藤沢の肩を撫でる。



「な、なにかその令嬢に言われたのか?」



「…べつに、顔がタイプだから付き合えって言われただけです。

当たり前に無理って言ったら、“じゃあおたくとは今後一切取引しません”って言い出して……クソ、あのガキほんとクソッ……!」


思い出すだけで腹が立つ。

ていうかおまえが言うな。

こっちはあくまでおまえの父ちゃんと仕事してんだよ。

そもそも顔がタイプって何?付き合ってって何だ?

てかおまえまだ未成年だろ。なのによくそんな初対面のそれも年上の男にそんな上から来れるな?

ああもう調子乗りやがってあのボンボン……ッ!!


邪悪なオーラを放ちながら、ぶつぶつ呟き続ける藤沢。


その様子を横目に(モテる男も大変なんだなぁ……ちょっと羨ましい気もするけど……)と一瞬だけそんな感想を抱いて、でもすぐに思い直す。

いやいや、この後輩はそれが原因で落ち込んでるんだ……!


……落ち込んで……る、よな……?




「っふふ、!」



いつもの好青年ぶりからは想像できないほどの口の悪さにどうも堪えきれなくなって、俺はつい吹き出してしまう。

そんな俺に、藤沢はぴたりと口を止めた。

そしてそのままぶすっとした顔でこちらを睨む。



「…なんで笑うんすか」



「いや、おまえも人間なんだなって」



からかいではなかった。

ただ、つい本音がこぼれただけだった。



なのに藤沢は心底心外そうな顔をする。




「心外すね。江島さんには俺が人間に見えてなかったと」



やっぱり。

的中したワードに、今度は怒られないように心の中だけで笑う。


俺の中の藤沢は社会人としても男としても、営業マンとしても。どうしたって手の届かない存在だった。

入社してすぐに頭角を現し、同期どころか先輩や役職持ちすら一陣の風のように追い越して。

そして年収が四桁万に届こうがトップを走り続けようが現状に甘えることせず、むしろさらなる高みを目指すこの後輩のことを俺はどこかで化け物じみているとさえ思っていた。


実際、目の前でその営業スキルを見せつけられた時も、印象は覆るどころかさらに強まっただけなのに——


今こうして隣で悩み、落ち込み、そして愚痴をこぼす藤沢の姿に。

俺はどこかほっとするのだった。



「でもさ、そこで変な期待持たせないでちゃんと断るのが偉いよな」



「当たり前じゃないですか。色恋営業とかいつの時代って感じですし、俺普通に年上が好きだし」



と不貞腐れたようにそんなことを呟く藤沢は、どこか子どものように見えた。

なんだよ…可愛いとこあんじゃん…なんて思っていたところに、「それに……」と藤沢が続ける。 



「嘘をつかずに誠実な態度で相手と向き合う大切さ。……先輩の同行つかせてもらったとき、気づかされたんで」



「……え?」



そう言いながら、赤く染まった耳を隠すようにそっぽを向く藤沢の姿に、俺は思わずぱちぱち瞬きをした。



そして。

その言葉の意味を理解するにつれ、俺の顔もまた熱くなっていくのがわかる。



(っえ、え、え—————!!? い、いま褒められた!?)



営業成績、不動のトップ。

そんな藤沢に万年ドベの俺が……?

 


頭の中で何度も何度も反芻する。

たしかに聞いた。たしかに言ってた!



隠すように顔を覆ってしまった藤沢の手を、ツン……とつつく。

視線がこちらに向いた瞬間、俺は小さく息を吸った。



「あ、ありがとう……?」



「——————ッ、」



驚いたように見開かれる目。

息を呑む音。


じっと見つめていると、藤沢はガバッと勢いよく立ち上がった。

そして手にしていた缶コーヒーを一気に飲み干す。


(なっ……なにごと!?)



驚く俺をよそに、藤沢は空になった缶を一発でゴミ箱に決め、振り向きざまにぽつりと呟いた。



「……ご馳走さま、デス」



(———真っ赤っかだ……)



こんな藤沢はじめてだ。

驚きながらも、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのがわかる。


……なんだよ、やっぱ可愛いとこあるじゃん。


藤沢は背を向けたまま、ちらりと腕時計に目を落とす。

ほんの一瞬だけ、何かを確認するように。

そして、そのまま迷いのない足取りで歩き出した。

その背中はいつも通りまっすぐで。

もうどこにも迷いなんてなかった。


……どうやら大事な後輩は、初めての挫折からちゃんと立ち直ることができたらしい。


その理由の中に自分が少しでもいるのなら。

そうであれば先輩冥利に尽きる。


俺はどんどん遠ざかる背中にそっとエールを送った。



(頑張れ……頑張れ、藤沢——……!)




その翌日。



商談破断は令嬢の独断だったらしい。

先方から「ウチのバカ娘が本当にすみません…!」と平謝りされ、破断の話は白紙に戻ったばかりか、契約中の商材とは別に開発中の商材まで予約購入してもらったという。

まさに雨降って地固まるを体現した藤沢の功績に、朝から部長に「よくやった!!」と労われる後輩の姿を横目で見ながら、俺はやっぱりこう叫ぶのであった。



(藤沢一也……やっぱりおまえはイケすかないやつだ—————!!!)

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